INTERVIEWS

第54回 菱川 功

日本銀行高松支店長 

プロフィール

菱川 功(ひしかわ いさお)
神戸出身。1988年国際基督教大学卒業後、日本銀行に入行。コーネル大学院経営大学院を修了し、金融市場局、ニューヨーク事務所、国際局総務課長、IMF出向などを経て2015年より日本銀行高松支店長。

 

もともと開発経済に関心があって、いずれ何らかの形で国際協力に関わりたいと思っていたんです。でも何か自分なりのホームベースがないと、プロとしては役に立たないだろうとも思いました。そこで、どこか公的機関に入って、十年二十年がんばれば少しは貢献できるようになるかもしれないと考えて就活をしました。
齋藤
僕はマッキンゼーで大阪に赴任している時に、当時京都大学の学生だった、現在日本銀行京都支店長の大川さんと知り合いになって、それからずっと友達なのですよ。それで菱川さんを紹介いただいたわけなのですが、ICUから日本銀行に入られる方は結構おられるんですか?
菱川
何年かに1人といったペースじゃないでしょうか。支店長になった先輩も数人いますね。
渡辺
ICUから日本銀行を目指された理由というか、動機は何だったのでしょうか?
菱川
まず、メジャーは社会科学(SS)で中内先生のゼミでした。もともと開発経済に関心があって、いずれ何らかの形で国際協力に関わりたいと思っていたんです。でも、現実問題として考えてみると、ボランティア活動ではなく「プロ」として役に立ちたいのであれば、何か自分なりのホームベースがないと難しいだろうとも感じていました。そこで、どこか公的機関に入って、十年二十年頑張れば少しは貢献できるようになるかもしれないと考え、就活をしていました。
実は、当時はJICAや輸開銀といった、その分野での「王道」の公的機関は内定の出る時期が比較的遅めと言われていました。ところが、日本銀行はたまたま採用活動で競合するのが民間銀行とあって内定が出るタイミングが早めで、幸いにも内定をもらえたので、先に決まった日銀に行くことにしたんです。だから、そもそもは公的なところで仕事をしたかった、というのが始まりですね。
渡辺
なるほど。どこかの銀行へではなく、「公的機関」という基準で選ばれた結果、日本銀行にいらしたのですね。当時の就職試験はどのようなものだったのでしょうか?
菱川
日銀の採用スタイルは、今も昔も基本的に個別面接の繰り返しですね。通算すると10人くらいの面接官に会った記憶があります。比較的多様なバックグラウンドを有する人の確保にも努めている関係で、学部もかなりばらばらなんですよ。
渡辺
毎年、何人くらい採用されるのですか?
菱川
転勤制約のない職種については、だいたい毎年30〜40人前後といったところでしょうか。
渡辺
まさに狭き門ですね…!菱川さんが就職なさった88年頃はまだまだ厳しかったと思うのですが、私が就職活動しま した90年なんて本当にバブルで、「網の目が甘かったね〜」と、散々言われました(笑)。日銀でもバブルの影響を受けたり、その年によって少しずつ採用人数が違うのでしょうか?
菱川
いやいや、渡辺さんご自身のケースと比較すると、私はそんなだいそれたものではないと思います。たまたま巡り合わせが良かっただけかも知れませんし。
ちなみに、日本銀行は公的機関の一つですので、収益環境に応じて採用規模が変わるということはないですね。強いて言えば人員構成の影響はあって、例えば私の就職時には、戦後すぐに採用した方々がまとまって退職するタイミングとたまたま重なっていたために、今よりも採用人数が多かったかもしれません。
齋藤
菱川さんが日銀を受けられるとき、ICUから他に何人か受けられたんですかね?
菱川
受けていた筈ですが、噂で聞いただけで詳しくはわからないですね…。
渡辺
さきほど面接官が全部で10人くらいとおっしゃいましたが、 かなり緊張しそうな気がします…どんなことを聞かれるのですか?差し支えない範囲で教えていただければ。
菱川
面接官のスタイルによって多少の違いはあるでしょうが、大きく言って3つの点が問われる傾向が強い気がします。
まずは、「なんで日銀に入りたいんですか」「日銀で何をしたいんですか」といった志望動機にかかる質問です。あくまで公的機関なので、個人としてたくさん稼ぎたい、営業成績を人と競ってのしあがっていきたいといった人は、思うように自己実現できない面があるのはやむを得ないところです。採用後に気持ち良く働いてもらえるかを見極めるという意味でも、公的な貢献意欲の強さはやはり重要な確認ポイントですね。
2つめは、「大学時代に何をやってきたのですか」「挫折したことはありますか」、「そこから何を学びましたか」といった人間としての幅や協調性、成熟度を問うような質問です。
3つめは、候補者がある程度知っているトピックを取り上げて議論をすることが多いです。これは、ロジックを組み立てる力やそれをわかりやすく表現する力を見られます。例えば経済学部だったら「今、日本経済にはこういう問題があるけどどう思う?」「現政権はこういう政策を打ち出そうとしてるけど、それについてはどう思う?」といった質問です。聞き手としては、「正解」を求めている訳ではなくて、議論をすることを通して上述のようなポイントを確認しているということです。その後、自分自身でも採用する側に回って多くの方に会っていますが、その点は今もそんなに変わってないように思います。いずれにせよ(齋藤さんの)マッキンゼーほど厳しいセレクションではないと思いますが…(笑)。
一同
(笑)。
渡辺
普通、就職試験の面接は一人当たり5分くらい、長くて10分とかいいますが、1人のためにそんなに時間を割いてもらえるなんて、アプライする側にとって会社概要を読む以上に目指す企業を観察する上で絶好の機会かと思います。就活を通して、当時の菱川さんに日銀はどのように映りましたか?
菱川
就職活動をしていた当時はいわゆるバブルのピーク期で、新入行員になった年がまさに日経平均が史上最高値(39000円弱)を記録した時期でした。一応、就職活動で民間金融機関も回ったのですが、銀行によっては一発で内定を出すところもありました。大量採用のプレッシャーもある中で、学生1人1人に時間をかけるゆとりがなかった先もあったんだろうと思います。
しかし、日銀は、当時から個別面接に45分ぐらいの時間をかけ、しかもかなりの回数をこなすスタイルだったので、公平に評価しようとしていることが伝わってくるという意味で、誠意を感じましたね。あとは、「議論好きな社風を持った会社のようだな」という印象は受けた記憶があります。実際、この印象については、当たらずとも遠からずだった気がします。
齋藤
なるほど。しかし1人に45分とは、それほど時間をかけるのは立派なものですね。菱川さんはどんなところを評価されたのだと思われますか?
菱川
それは自分ではわからないですねえ…。強いていえば、調子の良いことを言うだけの人間だったりしないか、自分なりの意見を持った人間なのかという点は見られていたと思います。
自分としてはキャンパスに行ったときの印象も大きな決め手でしたね。ICUは広々として綺麗なだけでなく、学生の雰囲気がすごくよかった。知的な雰囲気がある中でも、おおらかで自由な感じがしたんです。それに触れて、こんな環境に身を置いていたら自分でも勉強するんじゃないかと思ったのです。
齋藤
菱川さん自身のお話をお聞きしていきたいのですが、ご出身は神戸なんですね。
菱川
親が商社勤めで転勤が多かったので、きちんとした「ふるさと」はないんですよ。家の食事の味付けは関西風だったので、西日本勤務のときはやはりホッとしますけどね(笑)。
小学校に上がる頃までの4年間余はニューヨークにいました。低学年でもどったので文法とかは全部抜けてしまっています。発音は使っているうちに思い出すぐらいの状況でしたね。
齋藤
高校はどちらだったんですか?
菱川
中学・高校は麻布です。横浜から通っていました。
渡辺
麻布!でも、麻布だと東大を目指す方が多いですよね?
菱川
一応、主として経済系の学部を受験していたんですが、志望分野が固まりきらなかったというか、早々と専門分野を決めてしまうことに今一つモチベーションを持てなかった。
たまたま祖父がかつてICUに奉職していたこともあって、大学の特色自体は知っていたので、一つの選択肢かなと思ったんですね。今になってみると、リベラル・アーツという考え方に共鳴する部分が多かったということなんだと思いますが、当時はそこまで頭の中が整理できてたわけではなく、枠にとらわれずに物事を考える時間が欲しいといった程度の考えでした。
それから、自分的には各キャンパスを訪れたときの印象も大きなポイントになりました。ICUのキャンパスは、広々として綺麗なだけでなく、学生の雰囲気がすごくよかった。うまく表現しにくいんですが、ほどよく知的な雰囲気がある中でも、おおらかで、自由な感じがしたんです。あるいはエイプリルとセプテンバーの学生が適度に交じり合ったキャンパスが醸し出していた雰囲気が肌に合ったのかも知れません。こんな環境に身を置いていたら、こんな未熟者の自分でもちっとは勉強するんじゃないかと感じたのを覚えています。他に進学することも可能だったし、浪人する選択肢も当然あった訳なので、家での議論は多少あったように記憶しています。
渡辺
その言葉を聞かれたお父様は、どのようなご反応でしたか…?
菱川
まあ、ちゃんと勉強しろよ、といった感じでしたね。学費も少々高くなり始めた頃でしたが。
齋藤
今は医学部系を除いてはかなり高い方ではないでしょうかね(笑)。
菱川
やはり、マス・プロではない、リベラル・アーツという学校の建て付けを考えると、卒業生に立派に出世して頂いて(笑)、寄付をたくさんして頂くことが出来れば理想的ですよね。大学の歴史を考えても、そろそろそんな時期を迎えているような気もします。
渡辺
菱川さんが培われた知識を通しても、そう思われるのですね?
菱川
祖父のICUでの仕事が財務関係だったことや、私自身が同窓会の理事の末席に座らせて頂いていた時期があったこともあって、少人数の学生に対して手間暇をかけた教育を続けていくことがいかに財務的に大変かということは多少見聞きしていた方かも知れませんね。
渡辺
でしたら、ぜひプロの菱川さんに力になっていただきたいです…。
菱川
いや、私のような素人ではなくて、財務のプロにお願いするのが大事なんですよ。
齋藤
優秀な卒業生のプロがおられて成果をあげてくれています。ただ、今後は建物建て替えにも多くのお金が必要となってくるので、とても厳しいと思いますね。
菱川
学生にとって魅力的で大学であり続けるためにも、教育環境への継続的な投資はやはり大切です。大学としての理念にもかかわってくる点ですよね。
齋藤
高校生の頃、経済だけでいいのか?とか考える人なんていないですよ!すっごくまじめな人だったんだと思います。僕なんてなんにも考えてませんでしたよ(笑)。
渡辺
ちなみに、菱川さんの在学時のグレードは?
菱川
全然大したことなかったですよ!でも比較的分野に縛られずに多様なコースが取れたのは本当に良かった。専攻の経済学以外でも、千葉先生の政治思想史とか、村上先生の科学哲学とか、社会学のフィールドワーク実習とか…記憶に残ってるコースはたくさんあって、いろんな意味でその後の自分自身の土台作りに役に立ったと実感しています。
齋藤
大学時代は勉強以外に何をされていたのですか?
菱川
カナダハウスで自由な寮生生活を満喫しました(笑)。あとはテニス部に所属していましたが腕前の方はさっぱりでした。
渡辺
ICUでの生活を満喫なさったのですね (笑)。
国際経済の安定は、幅広い国に影響が及ぶという意味で「公共の財産」という側面があるんですが、そのことを意識した振る舞いができるかどうかが大きなポイントですね。自国の国益の主張だけではなく、国際社会のことも考えて言っている点を説得的に説明できるかということです。
また、国の経済力に応じた負担を担う姿勢も大切で、たとえば日本の場合、経済大国としての自覚をしっかり持っていることをアピールしていく必要があります。様々な意味で、国際コミュニティにとって納得感のある議論をしていくことが大事ですね。
渡辺
お父様の海外赴任でニューヨークにいらしたということですが、菱川さんご自身も日銀にお入りになったあとは外国にいらっしゃることが多かったのですね?
菱川
海外生活の機会は多かったですね。勤め始めてだいたい28年になりますが、そのうちの10年くらいは海外でした。
齋藤
大学時代には海外に行かれていないのですか?
菱川
留学はしていません。社会人になるまでの海外生活は小学校のときのニューヨークだけなんですよ。

齋藤へー!日銀入ってから海外に行かれることが多いと聞くと、大学時代に海外に行っていたり、昔長いこと住んでたことがあって、声がかかったのかなとも思ったんですがね。ちなみにその中でIMFに行かれることについては、なぜ白羽の矢が立ったのでしょうか。

菱川
さあなぜでしょうか…大学で英語を鍛えられていましたし、それまで何度か海外赴任していたので国際派というイメージもあったかも知れません。執務経験を通じて培われた人脈なども含めて、 いろいろな事情が重なったんだと思います。
渡辺
しかも日銀に入られてから、大学院も修了されていますよね。
菱川
日銀には職員の中から選抜して会社負担で海外留学させる制度があって、その制度を使って、米国コーネル大学のビジネススクールに2年間通わせてもらいました。
渡辺
菱川さんの経歴をみますとコーネル大学から帰国されてから金融市場局調査役になられているのですが、金融市場局調査役とはどのようなことをされるのでしょうか?
菱川
2つの仕事をさせてもらいました。1つは、金融市場決定会合という中央銀行の政策を決める会合がありまして、その会合では各局から金融経済情勢の説明をするんです。その金融市場にかかる説明の準備責任者をやっておりました。
もう1つは、為替課という部署のナンバー2として、市場モニタリングと為替市場介入をやりました。市場環境的には日本経済にとっては大変難しい時期で、結果的に、かなり多額の市場介入の実務を経験させてもらいました。ちなみに、わが国は、為替介入にかかる意思決定は財務省が行い、取引実務が日銀に委託される仕組みになっています。
渡辺
たとえば、日銀のなかで「こういう仕事をしたい」という希望は出せるのですか?
菱川
「自分はこういうところに強みがあると思う」といった話し合いはします。あとはその時点での人繰りを見ながら決まる感じですね。私は、金融市場・金融機関のモニタリングや国際的な仕事に強みがあると思うと話していて、結果的にそういった分野でのキャリアが長くなりました。
齋藤
自分でそろそろ支店長になるんじゃないか?とかはわかるものなんですか?
菱川
大雑把にしか分かりませんね。
齋藤
企業と同じように評価はあるんですか?
菱川
人事考課の仕組みがある点は、民間企業と変わりません。具体的にどのポストに就くかは巡り合せもあるので、サプライズもありますね。
渡辺
IMFも、ご自身で行きたいと希望なさったわけではないのですね?
菱川
自分で手を挙げた訳ではないです。IMFの日本理事室の理事代理職は、日銀から人を出すことが多かったポストなんですが、運よく私に声が掛かりました。
渡辺
IMFに行かれることが決まった時は、どのようなお気持ちでしたか?
菱川
とても嬉しかったですね。先ほどお話ししたとおり、社会人になった時から「いずれ国際協力に関わりたい」という気持ちはあったわけです。20年以上の実務経験を経て、国際的な舞台でも少しは人様のお役に立てそうだと思えるようになった時期に、こうしてチャンスをもらえたのは大変幸運だし、光栄なことだとも感じました。
齋藤
世の中でそれなりの存在感を示す人というのは、言われたことをただやるのではなく、自分なりに考え、仕事に一生懸命取り組んでいる人だと思うのですよ。頑張っている1つ1つの積み重ねが、成果を生み出しいくのです。しかし、残念なことに企業内で本当に頑張って正しいことに取り組める人はそんなに多くはない。正しいことに一生懸命に取り組める人をどれだけ増やせるかによって、企業の実力度が変わっていくのです。
菱川
企業にとっては、人材が最大の財産なのは間違いないと思いますね。
渡辺
不勉強で申し訳ないのですが、この機会に菱川さんにお伺いしたいのです。私たちの中で「日銀」という組織には、ある程度のイメージがありながらも、その中身といいますか、内部事情は全く知らないわけです。もちろん一般人が知ってたら困るのかもしれないけれど。そこで、さっき斎藤さんのお話にあった「企業」と比べると「日銀の業績」とは…? つまり、一般企業だと収支報告、達成目標、経営悪化などあるわけですが、日銀が倒産、無くなってしまうことは無いわけですよね?
菱川
ご質問の点は、日銀ってどんな仕事をしてるんですか、という話にもなると思うんですが、まず1つはインフラとしての「お金(紙幣)」の使い勝手と信頼性を守ることです。国民の間にお金が物理的に行きわたるようにするための仕事や偽造防止・クリーン度の維持といった仕事はインフラ業そのもので、性格的には電力・ガス・水道会社などと似ていますね。アメリカでは小さな商店だと100ドル札あたりは偽造を警戒して受け取ってくれないこともあったりすると思いますが、日本では一万円札を躊躇なく受け取ってもらえる。こうした信頼性は大事にしていきたいことの一つです。
また、お金は値打ちが変わるものです。「物価が上がる、下がる」と良く言われますが、それは裏を返せばお金の値打ちが変動しているということですね。例えば、「インフレ」は、ある額のお金で買えるものの価値が下がる状況で、行き過ぎると国民のお金に対する信頼が失われてしまう。今日では、長い目でみると若干のインフレが続くのが、国民にとっては一番いいと考えられているんですが、その実現に向けた取り組みも大事な仕事です。
そのほか、お金の預け先である金融機関の健全性確保や、金融機関同士の円滑な資金受払の確保なども、お金の使い勝手という意味からは大変大切で、そういった仕事も担当しています。大きな災害が発生した時などに痛感させられることでもあるんですが、お金というのは、人体にたとえると血流のようなものだと思います。地味ながら経済活動(人体では生命活動)の維持に大事な役割を果たしているんですね。従って、日銀の業績は何かと問われると、結局のところは「総合的に見て、お金の価値、使い勝手、信頼性はどうか」ということなんだと思います。ちょっと長くなってしまいましたが。
渡辺
ものすごく分かりやすく話してくださって、ありがとうございます!自分が小学生になったみたいで、何だか嬉しい(笑)。つまり、純利益が出ました、と数字として出るわけじゃない……ということは、突然、解雇される心配もないってことですよね?行員の方のモチベーションとしては、どんなものが挙げられるのでしょうか?
菱川
そうですね。ある程度の公的な使命感を持っていないと長続きはしないと思います。「国民一般のための仕事をしていることにやりがいを感じる」ということですね。そうした中で、プロとして貢献できることにどれだけ喜びを感じられるかだと思います。そういった資質面は採用の時にもしっかり議論しますね。
渡辺
菱川さんにとって「この仕事をしていて良かった!」と感じられるのは具体的にどんな時ですか?
菱川
社会人としていろいろと苦労をするわけじゃないですか。うまくいったりいかなかったり…。でも、だんだん得意分野ができてくる中で、「自分の仕事がこういう風に社会の役に立っている」と実感できる瞬間があるんです。
例えば、フランクフルトで勤務していた時期は、たまたま日本が深刻な信用危機に陥った時期に重なりました。関係当局との折衝や説明などで夜も寝られない思いをしたり、きちんと理解してもらえずに悔しい思いをしたりもしたけれど、強い緊張感の中で仕事をこなしていった経験には大きなやりがいを感じました。また、リーマンショックの際には金融機関のモニタリングを担当していたんですが、海外発のショックの日本国内への波及を多少なりとも和らげるために民間金融機関の方達と一緒に知恵を絞った経験も強く印象に残っています。
勿論、こんな出来事がひんぱんに起きたらたまったものではありませんが、何年に1度そう思えるような経験ができるだけで、十分にやりがいは感じますね。
渡辺
ニュース原稿だけでは伝わらないリーマンショックの裏側にそんなご努力があったのですね…。 さきほど、行くのが嬉しかったとおっしゃったIMFでは、どのようなお仕事をなさっていたのでしょうか?
菱川
まずIMFはどんな仕事をする国際機関なのかという話からさせて頂くと、基本的な責務は国際通貨制度の安定です。中でも大きな仕事となっているのが、国際収支面で資金繰りが苦しい国に対する支援です。私の在任期間中ではギリシャやウクライナなどの事例がありました。また、マクロサーべイランスといって、各国当局と議論をしながら、マクロ経済政策をチェックする仕事もしています。さらに、新興国に対する経済政策面での技術支援などもやっていますね。
IMFには、こうした仕事をするためのスタッフが大勢いまして、私が勤めていた理事会は、スタッフが作ってきた議案を審査するのが主な役割です。理事会メンバーは、各加盟国の意向を国際機関に反映させる役割を担っているので、各議案に対して母国の国民の賛同が得られるかという観点からチェックをしつつ、議論を行います。このプロセスに関わらせてもらったことは、ある国の国際的なレピュテーション(評判)はどうやって形成されたり失われたりするのか、どういう行動をとればリスペクトされるのかといったことが体感できたという意味でも、非常に勉強になりました。
渡辺
どうやったら他国からリスペクトされ、かつ自国民も納得するのでしょうか…?
菱川
国際経済は昔以上にグローバルな繋がりが強まっています。国際経済の安定は、幅広い国に影響が及ぶという意味で「共通の利害(いわば公共の財産)」という側面があるんですが、そのことを意識した振る舞いができるかどうかが大きなポイントですね。単なる自国の国益の主張だけではなく、国際社会のことも考えて言っていると説得的に説明できるかということです。また、国の経済力に応じた負担を担う姿勢も大切で、たとえば日本の場合、経済大国としての自覚をしっかり持っていることをアピールしていく必要があります。
このように、様々な意味で国際コミュニティにとって納得感のある議論をしていくことが大事で、中には先進国としての自覚はあるのか?と言いたくなるような国もありましたね。この点、アフリカの理事室などと話をすると、日本は長期的な視野にたち、ぶれない支援スタンスを取っていると好意的に受け止めてくれている国は多いです。その意味では、国際貢献は、長い目で見て国として非常に大きな財産になることも痛感しました。
一方、救済を求めざるを得ない状況に陥った国においては、過剰投資だったり、放漫財政だったりといった様々な背景があります。国民の納得感という意味では、これらの問題の解決につながる道筋を示すことが大事ですね。
齋藤
ここまで菱川さんのお話される内容を聞いていると、すごくわかりやすいなと思います。ご自身のされていることを“ど素人”にもわかりやすいように話してくれる。ところで、日銀の場合、大企業の社長さんたちを集めて懇談会を持っているイメージがあるのですが、地方を支えてるのは中小企業ですよね。そういう人たちにも時間を使われてるんですか?
菱川
去年の6月から高松支店長をさせていただいていますが、支店長の仕事は、大きくいえば、お金に関するインフラ面での仕事のマネージメントのほか、きちんと地元の声を聞いて東京に報告すること、そして我々の政策や業務の対外的な説明をしていくことの3つです。
その中でお話をうかがったり、意見交換をする相手は、地方にいけばいくほど中小企業のウエイトが大きいです。経済政策が効果があるのか、どこまで浸透しているのかといった点は、経済の裾野で活躍されている企業さんに話を聞くとよくわかるのでとても大事なんですよ。
齋藤
日本銀行というとそんなイメージは無かったですね!
菱川
いえいえ、とても多いですよ。10先まわるうちの6〜7先は中小企業さんなんじゃないかな…。
渡辺
ちなみに一般企業だと、社長が変わると会社の方向性も変わることが多々あるわけですが、日銀では総裁の交代でどの程度、日銀の方向性や政策が変わると、日銀内では感じていらっしゃるのでしょうか?方針については総裁と日銀行員の間でどのくらいの議論があるのでしょうか、または無いのでしょうか?
菱川
執行部としての方針は総裁と副総裁(2名)の3名で立て、さらに6名の審議委員も加えた9人のメンバーで政策決定を行う仕組みになっています。そのため職員が意識するのは、9人それぞれがどういう問題意識を持って政策を決めているのか、そして彼らが本当に知りたいと思っているのは何かという点ですね。
渡辺
なるほど。先ほど眠れない夜もあったとおっしゃいましたけれど、残業を含め、業務自体はかなりハードなのではないですか?
菱川
これは、そのときどきの日本社会の常識と大きく変わらない感じですね。従って、バブルの頃は、多くの企業同様、ものすごく長時間働くこともありました。時代が変わって、今は社会全体としてワークライフバランスが重視されるようになっていますから、我々の働くスタイルも変わってきていますね。
齋藤
コンサルティング会社は全然変わりませんけどね(笑)。
菱川
我々は労働基準局が怖いですから(笑)。それにとことん働くスタイルだと、子育てをしながら仕事を続けるのが難しくなってくるし、若いうちに子供を作るインセンティブも削ぐ。だから長い目で考えると、この国のこれからの生き方としては、子育てにやさしく、子供を早く産んでも損しない仕組みを一段と強めていくことが大切だと思います。
ICUには決まった型や制約がなく自由度が高いので、自分に合った自分なりのプロデュースの仕方ができると思います。ぜひその環境をフル活用して、有意義な時間を過ごしてほしいです。
渡辺
プロフィールに「奥様との散歩」がご趣味とありましたが、奥様もICUご出身ですか?
菱川
いいえ、私は職場結婚です。彼女は進学のために退職したんですが、ちょうど私が海外赴任する頃で、「日本で勉強する」ということで、先に私一人で海外に行き、ちょっとしてから迎えに来て結婚生活を始めました。
渡辺
単身赴任だったのですね。しかし…経済にお強いご夫婦ですね!(笑)。ちなみにこれだけお忙しい中で、勉強はどんなふうになさっているのですか?新聞は何紙くらい読まれるのかとか、経済情勢はどんなところから学ばれるのかなど教えていただければ。
菱川
メディア情報はフォローしないといけないので、仕事の一環として英語のものも含めてチェックしています。あと地元紙は丁寧に読みますし、 プレスのクリッピングも見ますね。また、私たちの仕事は経済データを見ることも大事です。統計を丁寧に分析するだけでなく、数字は時に嘘をつくから、裏をとるために色々な企業の方にも会うようにしています。また、過去を振り返って現在と比べることも大切ですね。
渡辺
景況感をニュースではよく報じますが、もしかしたら日銀の方が最も肌実感としての景気を足を使って集め、分析・把握する必要がある…また実際そうなさっているということでしょうか?
菱川
おっしゃるとおりですね。特に、物価や景況感のフォローに関しては、しっかり経営資源を投入して、日銀マン、日銀ウーマンが血相を変えて取り組んでいます。それにかけるエネルギーは大変大きいですね。
渡辺
ものすごくビビッドなお仕事ですね。そういうセンスを磨いていかなければならないわけですよね?
菱川
独特な面のある仕事でもあるので、そういうものの見方はちゃんと若い人達に伝えていくように心がけていますね。
渡辺
特殊技能を持ったエキスパート集団であることが、改めてよくわかりました。最後に、ICUの在校生やICUを目指していらっしゃる若い世代へのメッセージをお願いできますでしょうか。
菱川
大学生活をあとから振り返ってみると、本当に貴重なチャンスだったなと思います。あれだけまとまった時間をとれて、思い切って使うことができる機会はなかなかないですよね。ICUは、自分の時間を投資する値打ちのある恵まれた環境だと思いますし、成長の基礎づくりをするのにいい入口になると思います。その後の人生の伸びしろは大学生活をどう過ごしたかによって変わると思うので、密度の濃い時間を過ごすことはホントに大切だと思います。ICUは相対的に自由度が高いところで、自分なりの自己プロデュースが可能だと思うので、ぜひその環境をフル活用して有意義な時間を過ごしてほしいなと思います。


プロフィール

菱川 功(ひしかわ いさお)
神戸出身。1988年国際基督教大学卒業後、日本銀行に入行。
1993年コーネル大学院経営大学院修了。
1999年金融市場局調査役。
2004年ニューヨーク事務所。
2007年金融機構局企画役。
2009年大阪支店営業課長。
2011年国際局総務課長。
2013年国際通貨基金(IMF)出向。
2015年日本銀行高松支店長。