INTERVIEWS

第5回 田口 俊明

トヨタ自動車株式会社顧問、元トヨタモーターノースアメリカCEO 

プロフィール

田口 俊明(たぐち としあき)
1964年 国際基督教大学を卒業 同年 トヨタ自動車販売株式会社入社 トヨタモーターノースアメリカ株式会社取締役社長、トヨタ自動車株式会社相談役を経て、 2006年よりトヨタ自動車株式会社顧問。

 

齋藤
田口さんは1964年にICUを卒業され、トヨタに就職し、そしてアメリカトヨタの社長になるという快挙を果たしました。このようなICU生は非常に稀だと思います、何故そんなふうになれたのか、少しでも若い世代の人たちの生き方のヒントとなるようなことを田口さんに今日はお伺いできればと思っているんです。どうぞよろしくお願いします。
田口
いえいえそんな、僕が今ここにあるのはラッキーの何者でもありません。僕が皆さんにお役に立てる話ができるかどうか。僕は昔から自動車全般が好きでその中でもトヨタの車が好きだった。ICUの先輩の紹介もありトヨタに入社し、そんな特別なことは何もありませんよ。
僕はいつも「落ちたか、ぎりぎりすれすれ」。ICUも実は補欠だったんです。
齋藤
まず、幼少のときのお話からお伺いしたいのですが、田口さんのお生まれはどちらなんですか?
田口
生まれは横浜の北方です。でも戦時の空襲で家が焼け疎開して、その後東京に住んでいました。小学校と中学校は公立の学校に、海城学園に進学しました。
齋藤
海城学園! といえば、たしか名門校ですよね。
田口
いえいえ、そんな・・・。今は名門ですが当時はそうでもなかったのですよ。僕は優秀な生徒ではありませんでした、都立の高校に行けなかったから海城学園に行った。実は僕、“落ちたか、ぎりぎりすれすれ”が多かったんです。
齋藤
そして、その後海城学園から何故ICUに入られたのですか?
田口
高校3年生の頃に洗礼を受けました、ICUを知ったのは教会の牧師先生からでした。実は、僕の父はアメリカの保険会社に勤めていたんですが僕が小学校の6年生の頃に蒸発してしまいました。それで、母と妹と父の会社の社宅をでて、母の姉(戦争で夫を失って従弟と二人だったので)の所に住まわせて貰ったのです。 母はクリスチャンだったので小さい頃から近くの教会の教会学校によく行っていました、だから教会は友達と会える場所だと考えていて昔から好きでしたね。 ある日、母が女学校時代の友人でお父様が牧師さんという方に偶然代々木駅でお会いして、その牧師さんの紹介で三軒茶屋の教会に行くようになりました。
渡辺
洗礼を受けられたのは、お母様がプロテスタントだった影響や幼児洗礼ではなくて、ご自分からだったのですね?
田口
母が洗礼を受けていたからというよりも、僕の意志で受洗を決めました。教会の「地の塩会」(聖書の勉強会)に入り、修養会にも参加しました。と、言っても、それほど僕は敬虔なクリスチャンではありませんでした(笑)。そして、先ほどお話したようにICUという学校を牧師先生から伺いました。
齋藤
そうなんですか、その当時のICUのイメージはどんなものでしたか?
田口
とにかくユニークで、受験勉強はいわゆる普通の受験勉強とは違い長文を読んでマルティプルチョイスということも印象的でした。 運がよければ受かる学校という風に思っていました。
齋藤
それで、ICUの時の学科は何だったのですか?
田口
えっと・・・入ったときの記憶が定かではなく・・・学科はたしかSSだったと思います。実は、補欠だったので入学式には行けなかったんです。入学式当日に辞退者がでて、入学枠が空いてICUにいれてもらいました。ICUに入学してから小学校の同級生が偶然一緒で僕が補欠の7番目だと言うと、彼女と同じ学校のお友達が8番目だったそうで「じゃあ、あなたが補欠の最後の人ね」と言われました。どうやら、補欠の最後だったようですね。 だからかどうかはわかりませんが、感謝して大学に行っていたので大学は好きでしたよ。ICUが駄目だったら、夜学で働きながら勉強ができるというコースのある大学に受かっていたので、そこで勉強をしようと思っていました。ICUにひっかかったから母に頼みこみICUに行かせてもらったんです。
渡辺
うかがっていると意外なお話の連続で、しかも、劇的で運命的です…。
田口
ある意味そうかもしれませんね。もしICUにその時に入学できなければ、次の年に浪人してICUを受験しようとは思ってはいませんでしたから。本当に僕は運が良かったのだと思いますよ。
社会人になってから「GMやトヨタのトップの通訳をやっている」と大学時代の恩師に話をすると「本当に大丈夫なのか」と心配されました(笑)
齋藤
今までのインタビューでお会いした人はみんな大学時代に、どちらかというと「落ちこぼれ」を自称する方が多かったんです。でも、そういう人の方が後に世の中で成功しているのが非常に面白い。大学に入学してからの成績どうだったのですか?
田口
大学時代の成績ですか。フレッシュマンイングリッシュはDでした。リンデ先生という人がいて1年の時のフレッシュマンイングリッシュの担当だったのですが、「とにかく・・・君は授業にはよく出席していたので、努力は認めよう!」ということで2年生に進学させてもらいました。僕は、成績は悪かったのです、周りにできるやつがいっぱいいたからね。
渡辺
これも意外です。お目にかかる前は、いわゆるずっと「エリート」でいらっしゃったのだろうなと勝手に想像した上で、企業トップを歩まれた強さと鋭さに怖じ気づいていたものですから。 先ほど英語ができなかったとおっしゃいましたが、就職なさってからはアメリカに長くお住まいになるのですよね?
田口
社会人になってからは、そうですね・・・通算で11年半アメリカで暮らしました。入社した年にトヨタ自動車販売で研修生制度が始まり輸出研修生として、3名の新人が人事所属になり、僕もそのうちの一人でした。 2年間日本でいろいろ研修した上で、1年アメリカで研修し、その後輸出部に配属されるという制度でした。
渡辺
通算11年半もアメリカで暮らされる、それも輸出部で。フレッシュマン、ソフォモアイングリッシュをしていらした頃の田口さんは、想像なさらなかった未来でしょうね。
田口
そうですね、そういった意味ではICUでの英語のクラスで力をつけてもらったと思って感謝しています。よくICU生にあると思うんですけど、ICU時代は英語力が低くても外にでると案外英語力が認められる。そういえば、1980年代にICUの同窓会で、リンデ先生にお会いしたときに、「トヨタとGMのトップの人の通訳をすることがある」と言ったら、「まさか??本当にトヨタは大丈夫なのか?」と非常に驚かれました、というのもリンデ先生の記憶の中には僕は成績超低空飛行の生徒としてしか覚えてくれていませんでしたから。同級生の中にも、未だに「嘘だろ」、「信じられない」という人が多いし、今でも信じていない人もいるんじゃないですかね(笑)。
齋藤
でも、やっぱり、入社してから、3名の研修生に選ばれる、やはり他の人とは違う何か持っていたのでしょうね。
田口
僕はこれといって・・・もしかすると、 ICU卒業イコール英語ができるかもということで、人事が輸出研修生にしてくれたのかも。 ラッキーだったんだと思いますよ。
渡辺
何故トヨタに入社しようと思われたのですか?
田口
僕は、自動車が昔から大好きでした。僕の母も、戦前はクライスラーの代理店で働いていたり、そんな血筋があったのかもしれませんね。 トヨタに入社することになったのは、先輩からの勧誘があったからです。
渡辺
大学時代には自動車関連では何かなさっていたのですか?
田口
大学2年生のときに自動車部を友達と作りました、入学したときは自動車部はなかったけど、みんなで作ったんです。はじめはテニス部に所属していたのですが、軽井沢の合宿ときに友人の誘いで外に飲みにいって、門限を守らないで帰ってきたら、「素行が良くない。テニス部に適さない」ということでテニス部を首になってしまったんです。で、何か活動しようということで、自動車に興味のあった長野君、目代さん、内藤君と僕の4名で自動車部を作りました。1年後輩の岡野君が入部したので、彼を部長にして、僕らは幹部になって自動車部として活動を始めたんです。長野君は自分の家に車もあり運転もうまくてメカニックにも強かった。彼の知り合いのトヨペットの人から古いトヨペットクラウンを格安で譲ってもらって、ラリーをやったり、整備の真似事をしていたんです。
渡辺
部を作られたんですか!そんなにお好きだったんですね…具体的に自動車部って、どんな活動をしてらしたんですか?
田口
武蔵野自動車連盟 (武蔵野地区の大学自動車部のあつまり) に入り、公道でレースではないラリーをやっていましたね。あとは、お金もなく車の維持もできないということで、学校の中で学生、教職員相手に教習学校を開いてそれで得たお金をガソリン代や部品代金にしていた。当時のICUは今よりもがらんとしていて、校内に車が自由に走っていたし。げんざいの理学館のあたりは、昔の中島飛行機の跡地で厚いコンクリートが敷いてあったんです、そ・アに、みんなで、自動車学校にあるようなクランクやS字を手作りして、ちょっとした教習場所を作っていましたよ。
齋藤
へ〜。そうなんですか。そういえば、僕の時代もコンクリート敷きの場所あったような気がします。 それで、その頃からトヨタに入ろうという意思はあったのですか?
田口
そう、その当時から自動車会社に入りたかった。横浜出身なのに、日産じゃないことはなぜかといわれそうですが、トラックのスタイルがトヨタのものが好きだったんです。当時ホンダにも興味があってトヨタかホンダに入社したいなと漠然と思っていました。それで、たまたま試験がトヨタの方が早かったのと、ICUで一緒だった先輩の佐藤さん(7期生)がトヨタに誘ってくれ入社することになりました
齋藤
トヨタを紹介してくれた佐藤さんも自動車部だったのですか?
田口
いえ、佐藤さんは自動車部ではありませんでした。ICUは小さな学校で、当時は野尻キャンプなどをとうしてみんな知り合いだったですからね。
渡辺
で自動車部には何名くらいいらっしゃったのですか?
田口
結構いましたよ。優秀な奴もいた、7期の総代になった人も在籍していて僕らは鼻が高かったのを覚えています(笑)。そうそう、ICUワインを造っているシュローダーさんの奥さんも自動車部だったし、ICUの広瀬教授も自動車部でしたね。活動といえば、先ほどお話した自動車部の教習学校だけで運転免許試験に受かった人はいなかったんです・・・。でも、僕らのおかげで、スムーズに教習学校でみな優秀だったのは確かだと思いますよ。自動車部の思い出はたくさんあります。皆でつなぎを着て、エンジンをおろしたり、塗装を塗り変えたりなどしていたことが当時はすごく楽しかった。今でもICUモータークラブのリユニオンがありますよ。 今年はシュローダーさんが日本に来たので、皆で集まったりしているんですよ。その関係で、11月には有志で南アフリカに行く計画もしているんですよ。ICUの友人はすごく不思議、そんなにしょっちゅう会っているわけではないけど、会うとすぐ昔に戻ってしまいます。
渡辺
自動車部、素敵ですね〜!皆でつなぎを着て、自動車をいじったり、すごく楽しそうです。田口さんはトヨタに入られる前から自動車に関しての知識自体を持っていらしたのですね。
田口
トヨタに入る前に自動車に知識はスペシャリストではありませんでしたが、ある程度はありました。僕は、詳しくはないけど好きだったんです。
良い先輩、後輩に恵まれていたのだと思います、僕は人と比べて、優秀なところはなかったけど、本当に運がよかった・・・。 だからみんなに感謝をしているのです。
斎藤
トヨタに色々なICU生が入社しましたが、その中で一番偉くなったのは田口さんだと思います。それはなぜだと思いますか?
田口
僕の場合はたまたま。運がよかったんです。
齋藤
たまたまではやはり選ばれない、きっと何かが認められたのだと僕は思います。 僕も、よく人に「何故マッキンゼーのパートナーになれたのか」と聞かれることがあるんです。僕の場合は、「僕は明るくて、落ち込むことがなかった」と答えたりもします。田口さんの場合にも、言ってみれば、何か「こういうことがあった」というものがあるんじゃないでしょうか?
田口
う〜ん。そうですね・・・よい先輩や後輩に恵まれていたことは非常に大きかったと思います。引っ張ってもらったり、つっついてもらったり。
齋藤
普通の人は引っ張ってもらったり、つっついてもらえない、田口さんにはまた他の何かあったからなんじゃないかと思うんでけど。
田口
僕には「これ」というものはないと思います。あるとするとICUでは英語は駄目だったけど、会社の中では、通訳をお願いされるくらいでした。その通訳を進んでやっていたということくらいかな。
齋藤
それは、つまり、「面倒」だったり「仕事が増える」と言って人が嫌がることをしっかりとやっていたということなのでしょうか。今もし、後輩にそこでの学びを伝えるとすると、人が嫌がることをやっていたということがプラスなのでしょうか?
田口
それは、あると思いますね。人が嫌がること、というよりも、僕は仕事をやらせてもらっていることを会社に感謝していました、やはり、「いやいや」やる仕事と「前向き」にやっていたのでは、結果も違う。僕が、アメリカに行ったときマッカリーさん(米国トヨタの副社長)がよく言っていたのは、「とにかく、若いうち社員は真剣に働かなくてはいけない、“extra effort makes difference between good and great” 」“extra effort”は誰でもできるけど、それをきちっとやるかやらないかはその人次第、マッカリーさんはまさに“extra effort”の人でした。朝6時半から会社に 行き、毎月の販売「〆(月次結果)」がでると、販売のオーナーの一人ひとりに「良かった点、足りなかった点」をしっかりとフィードバックし続けていた。マッカリーさんは、もともとはクライスラーにいた人です、アメフトをやっていてミシガンステートでチームのキャプテンでオールアメリカに選ばれるほどの人でした。プロのフットボール選手になれたと思いますが、クライスラーに入った。そして、一番若いエグゼクティブになったけど、事情があって辞めて、その後トヨタのプライベートディストリビューターがヘッドハンティングして、直営のトヨタに来てもらうことになった。今のトヨタの土台を作った人の1人だと思います。 僕自身、彼からたくさんのことを学びました、マッカリーさんのやっていたことを自分でもやりたかったけど、なかなか同じようにはできなかったと思っています。 (Mr. Robert B. McCullyは2006年11月13日逝去されました。)
渡辺
企業のトップは当然、実績を重ねてきたからからこその自負も強く、評価され慣れたからこその押し出しの強さも人一倍と思っていました。でも、田口さんとお話しする中で「感謝」するという言葉が何度もでてくることに率直に感銘致します。大変じゃないわけはない、でもやらせてもらっている仕事だからベストを尽くす。手前勝手な話ですが、ニュースステーションという番組をしている時に久米宏さんに「今日もらうお金に見合った仕事を自分がしているかどうかを厳しく考えなくてはいけない」と、よく言われていたことを思い出しました。私の場合1時間ちょっとの番組の中でニュースが3本の日もあれば8本の日もある、それ以前に映る時間や読む量ではなく、今ここにいて携わることの出来る仕事に対してまず向き合う、感謝することの大切さを教わりました。
田口
そんなことがあったのですね、本当に真理さんのおっしゃるとおりだと思います。これは、後輩の皆さんにも理解してもらいたいですね。自分が選んでやりたいことができればラッキー、でも必ずしもそういう人ばっかりじゃない。例えば、自動車会社に入って自動車の設計をしたいと思っていても現実はそうじゃないこともある、配属も代わる。でも“それぞれの仕事に意味がある”、望んだものじゃなくても“やってみると意外に楽しいことも、やってみるとこの仕事があっているということもある”だからそういった与えられたものに対する感謝というのは人間として持つべきものなんだと思います。
齋藤
僕も同感です。そういった感謝をもてない人がたくさんいるんじゃないかと感じる時がある。そうすると、そう思える人と思えない人の違いがなぜ起こるのか・・・。おそらく、それはその人の親の“子供の育て方”だったり、その人の周りにいた人間が影響しているのではないかと思うんです。きっと、良い仲間がその人を良い方向に導いていく。ということならば、良い類を選ぶことはできるんですよね。だから、そのことが大事で、人というのは、現れるけど、拒絶もできる、そのときに同じ類との出会いを見抜くことは大事なのかなと思うんです。
田口
人との出逢いは私も本当に大切だと思います。一期一会じゃないけど、人に会うことは目に見えないものがある。1回しか会わない、会えないという人もいる、でも、人との出会いは何かしら意味がある。 世の中には、人知の及ばない部分はどうしてもあるし、だから出会いがあったそのこと一つ一つを粗末にしないことが重要だと思っています。
渡辺
本当に、おっしゃる通りですね…。配属にしても何にしても、思い通りにならないこと、理不尽なことを自分の中で暖めて、不協和音のまま綺麗な和音にはならない心地悪さをどうにか包めるようになる、同居できるようになることが、それからの自分にとって貴重な財産になるのでしょうね。10数年間マスコミの世界にいて思うのは迷惑でない取材もインタビューも、まず無いということでした。知らない人間が不躾に「聞く」ことを仕事に踏み込むわけですから…。初めてお目にかかった田口さんの来し方を根堀り葉堀り聞いている時点で失礼なのですが、これを読んで下さる方にもっと田口さんを知っていただきたい、私がもっと学ばせていただきたい気持ちも一方であるのも事実です。 無礼をあえて伺いますので、答えたくないと答えていただいても勿論、結構です…先ほどのご両親の影響という意味では、お父様がいらっしゃらなくなったときに田口さんが“ひねくれる”こともできたのではないかと思います。でも、そうではなかった。何故だったのでしょうか。
田口
父がいなくなって、ひねくれたこともあったし、今も自分の中に複雑な部分はあるかもしれない。でも、そのときは僕には家族のことを考えてくれる親戚が周りにいて、大変助けてもらった、そのことが大きかったのだと思いますよ。 そうですね、当時、教会の奥牧師も僕のそういった事情もしっていたかもしれませんが、何も言わずに普通に接してくれました。
渡辺
お母様も含め、親戚の方が田口さんの近くにいらしたのですね。子供の悲しいニュースを伝える時、写し鏡として大人の存在を思うことが最近たくさんあって、田口少年の場合を伺いたくなりました。
田口
周りから受ける教育は人間の価値観を作り上げていく上で非常に重要だと思います。だからこそICUのリベラルアーツの教育はあれもこれも色々なところを勉強させてもらって、生きていく自分自身を作っていく。ICUの教育の方向性は正しかったと僕は思います、僕が今ここにいるのも相当部分ICUのお陰だと感謝しています。だからこそ、この素晴らしい教育を更に進化させてほしいし、片方で認知度を上げていかなくてはいけないと思っています。日本でも地方に行くと「牧師さんの学校」といわれたりもするし、海外での認知度も低い。ICUは世界中から 人々が入学したいと思うような大学になって欲しいと思います。
自動車がやっぱり好きなんです。
渡辺
自動車はやはりずっと、お好きなのですか? もし、自動車会社でなければどのようにお仕事に就かれていたのでしょうね。
田口
僕は自動車会社以外の会社を考えたことはない、もしかすると他の世界ではぜんぜん通用しなかったかもしれません・・・(笑)。
渡辺
いくら好きなことでも、と言いましょうか入社すると好きなことでも嫌いになってしまうこともあるかと思いますが、それはなかったですか?
田口
それはなかったですね、今でも車が大好きです。
渡辺
ニュースでは自動車業界が大きく変わっていくと報じています。改変再編という波も含め、どうなっていくとお考えでしょうか?
田口
変化の波はしょっちゅう来ているので、波が来ることについては何の不思議もありません。むしろ来ないほうがおかしいと考えています。海岸の波と一緒で、引いたり押し寄せたりする、その繰り返し。基本的にいえるのは、自動車は成長産業でまだ伸びつつけている、というのも、世界の人口が伸びていて発展途上国のGDPがあがりみんな自分の車をもちたいという希望をもっている。1950年の自動車のマーケットは1000万台、今は6000万台、単純に計算すると10年に1000万台ずつ伸びていますが、これからもこのトレンドはつずくと思います。 ただし環境・エネルギー・安全の課題をクリアしていく必要があります。
齋藤
ホンダがジェットに成功しましたよね。町のモーター屋さんがジェットを作ったということは、非常にわくわくする面白しろいことだと思うんです。トヨタはジェット機などを作ろうという動きはあるのですか?
田口
レクサスのエンジンをベースにした航空機エンジンの開発はやっています。それにしても、ジェットエンジン小型機の開発に成功したことはすごいことです、ホンダさんに僕は心から敬意を払います。
渡辺
テレビの世界の先輩に「いろいろ問題はあるけれど、基本、テレビは夢のおもちゃ箱。空気や水みたいな必需品じゃない分、あったらいいなぁという夢やちょっとした面白さをくれるから好きだ」と言われたことがあって、同感しました。田口さんが自動車の話をなさる時、何だかとても楽しそうで…自動車もそんな部分があるのかなと思いました。 これから先どんな自動車が世の中に出てくるのでしょうね?
田口
そうですね、どんなものでしょうか。豊田英二元会長が言っていた夢の車は、孫悟空のきんと雲のように必要なときにポケットから出して運転し又ポケットにしまう事のできるような車ということでしたが。万博でもユニークな一人乗りの車を出品しました。車が変わってきているのは確かですね、アメリカで50年前はセダンが主流でトラックが2割、ところが現在アメリカは乗用車は半分以下、ミニバン、SUV、ピックアップがあとの半分、そういった変化を15年前に予測したかというと、それはできなかった。という意味では、今から10年先のことは到底予測ができない。逆に3〜5年の先を見ながら市場に沿ってすこしずつ進化させていくということになる。 市場とは非常に面白いもので、メーカーロジックで出す車が必ず売れるかというとそうではない。絶対売れると考えて発売したものが売れないこともあるんですよ。
渡辺
田口さんご自身の予測も裏切られたことはあるのですか?
田口
たくさんありますよ。
会社に入ってから辞めたいと思った事はあrません。 トヨタは改善と人をたいせつにするという文化があり、相互信頼関係を大事にする会社、それを今も守り続けている会社なんです。
渡辺
会社に入ってから辞めたくなることはあったのでしょうか?
田口
辞めたいと思ったことは一度もありませんでしたが、場合によっては辞表をださなくてはいけないケースもありました(笑)。 トヨタは運の良い会社だと思います、もちろんその一方で努力もしている、現場が強いというのがトヨタの強みといえるでしょう。現場とは、車の開発している現場、工場で生産している現場、それを物流で部品/原材料などものすごい量の品物を移動させる現場、そして販売サービスの現場です。それらの現場のパワーをどれだけ維持できるかが、相対的に他のメーカーより強くなれるかのポイントだと思います。
齋藤
何故トヨタは他メーカーより現場が強くいれるのでしょう? 確かに“トヨタ生産方式”は有名だし、昔は販売の神様といわれた神谷さんがおられたし、現場は本当に強い。その強みの源泉は一体なんなのでしょうか?
田口
トヨタには、理念がありそれが根付いているのでしょう、「改善(continuous improvement)」と、人を大事にする(respect for people)」、これが二本柱です。
齋藤
でも、改善というのはイメージが湧くのですが、「Respect for people」 を持続させるため、会社として何かしているのでしょうか?多くの会社がそうしたいけれど、なかなかできないものだと思うんです。
田口
それはある意味、伝承が必要だし、今でも「傲慢になるのがリスク」というふうに自らを戒める。でもついつい、成功すると自分ではそうなっていないと思っても、外からみるとつい傲慢になりがちです。でも、そうならないようにというのがマネージメントの重点項目としているのですよ。
齋藤
トヨタに危機はあったのでしょうか?
田口
昭和25年くらいに1度潰れかかりました。倒産の危機だったのですが、日銀の名古屋支店長がトヨタを潰すと東海の経済への悪影響ということがあるので、銀行に呼びかけてくれて全面的に融資してくれたのです。その代わり、融資する資金は生産の設備投資向けと使い方は決められ、工販分離もそのときに行われました。当時会社と労働組合とは険悪で、豊田喜一郎さんがこの責任をとって辞職しました。それが逆に「二度とそういう思いはしたくない」ということで、労使協調宣言を行いそれ以来つずいいています。「respect for people」というのは、自社の従 業員、サプライヤー、株主を大事にしようという思いがこもっているのです。春秋労使協議では、今でもトップ以下多数の役員がでていますし、相互信頼関係を作り、それを維持するということを大切にしています。
齋藤
先ほどの改変の話がありましたが、国内は今後厳しくなると思うのですが、どのようにお考えですか?
田口
変化は当たり前。世の中が変化することは当たり前で、変化のない社会はないことをもっと認識すべきとおもいます。あとは、どのように自分達でその変化の先取りをしていくかという姿勢がすごく重要なのではないでしょうか。


プロフィール

田口 俊明(たぐち としあき)
1964年 国際基督教大学を卒業 同年 トヨタ自動車販売株式会社入社 トヨタモーターノースアメリカ株式会社取締役社長、トヨタ自動車株式会社相談役を経て、 2006年よりトヨタ自動車株式会社顧問