INTERVIEWS

第3回 高村 薫

作家 

プロフィール

高村 薫(たかむら かおる)
1971年 - 同志社高等学校卒業。 1975年 - 国際基督教大学 (ICU) 教養学部卒業(専攻はフランス文学)。卒業後は外資系商社勤務。1990年 -『黄金を抱いて飛べ』で第3回日本推理サスペンス大賞を受賞。 1993年 -『リヴィエラを撃て』で日本推理作家協会賞、日本冒険小説協会大賞を受賞。 1993年 -『マークスの山』で第109回直木賞受賞。
「書きながら」しか、考えられないのです。
渡辺
高村薫さんがICUご出身ということを遅ればせながら先日のDAY*の表彰式のときに知りました。そのときは、「この方がICUの出身だったなんて・・・」という想いでいっぱいでICUという大学が私の中で実は大きくジャンプアップしました。メディアの業界で仕事をしていて、高村さんにインタビューができるのは、「まず不可能」と思っていました。今回インタビューを受けてくださって、心からお礼を申し上げます。
高村
今回は同じ大学で学んだ同窓生が集まり、ざっくばらんにお話ができるということで受けさせて頂きました。私もDAYの表彰式のときに渡辺真理さんを含めこんな活躍されている方がICU出身だったのだと知って、なんだか嬉しかったです。私が“TV”の報道をお受けしていないのは、ただ“しゃべりながら考える”ことが苦手だからです。おそらく、私の頭のなかはいつも整理されていない引き出しのような感じで、「書く」という行為でしか、まとめることができないのでしょう。
齋藤
面白いですね、そうなんですか。僕は、経営コンサルティングを職業としているので、クライアントの問題に対して、その時その場で“考えながらしゃべる、しゃべりながら考える”ことが必要とされることが頻繁にあります。きっと、高村さんの場合は言葉のなかに伝えたいことを凝縮して表現することに慣れているために、結果的にこの「書く」という表現方法が今一番心地良いということなんですね。僕は今回のインタビューの前に初めてマークスの山を読んだのですが、高村さんの数文字の描写に非常に感銘しました。まるでその場面が頭に浮かぶように細かく描写されていて、こんな臨場感のある表現を使う作家はそんなにいないと思ったほどでした。そういった意味でも、どのように「書く」のか、高村さんのインタビューを楽しみにしてきました、どうぞよろしくお願いします。

*国際基督教大学の魅力づくりに貢献した卒業生を称えるための 「DistinguishedAlumnioftheYear」制度。2006年高村薫さんと渡辺真理さんを含む10名の同窓生が表彰された

大学時代は、目の前に与えられた課題を理解しようとすると、 結果的に本を読み勉強するしか選択肢がなかったのです。
齋藤
以前のAOLS**の講演録を読んで、ICUには国語がなかったから受験したとありましたが、実際にどのような学生生活を送られていたのですか?
高村
私は、大学は勉強をするところだと思い込んでいた最後の世代だと思います。大学に入って授業を受けて、これまでのように世界をなめてかかっているわけにはゆかないことを痛感しました。遊びたい盛りでもありましたけど、授業についてゆくのに必死で、まずは手当たり次第に本を読むしかなかったというのが、正直なところでした。楽しいとか、楽しくないとか、考えるひまもなかったように思います。
渡辺
高村さんが人文科学科を選ばれたのは、どうしてだったのですか?
高村
私の親はどちらも理科系で、「数学や物理は18歳、19歳になっても、ひらめかない頭脳なら絶対に無理。だから、おまえは無理」と言ったんですよ。数学や物理は解を考える“ひらめき”すなわち直感の勝負で、そういう数学的直感は、いくら九九を覚えてもだめなのですって。おまえは無理って言われて、それでもあえて挑戦するほど数学が好きというわけでもありませんでしたから、もう迷うことなく人文を選びました。もちろん、いまは正しい選択だったと思っています。
渡辺
ご両親の影響で、数学とか物理は自分の学ぶ道ではないと思われて人文科学科を選ばれたわけですね?フランス文学を選ばれた理由は何だったのでしょう?
高村
「選択した」というわけではなく、「何も知らない」から「どれでもよかった」、だから「選んだ」と言ったほうが正しいでしょう。初めて親元を離れて、一人で社会に出たのですから、ほんとうに知らないことだらけで何もかもが新鮮でした。「あれも知りたい、これも知りたい」と思いました。はじめからフランス文学と決めていたわけではなく、英文学やドイツ文学が難しそうだったので、消去法でなんとなくフランス文学になっていました。あとで、ほんとうに難しくて、原書が読めずに苦労しましたけれど。

**国際基督教大学で開催される学生向けの講演会。ユニークな同窓生を多数講演に招いている

ICUで学んだことが今の自分の基礎になっていると思います。
渡辺
大学に入学してから受けた授業が難しくて勉強なさったとおっしゃいましたが、高村さんにとって特にどんな科目が難しかったのでしょうか?
高村
哲学が難しいと思いました。それまでの人生で哲学に触れたことがなかったというのもあるでしょう。一口に哲学と申しましても、東洋も西洋もあります。長い歴史の中で人類の叡知が積み上げてきたものを、たとえ一部分だけでも理解するのがたいへんなことなのは当たり前です。でも、当時は高校生の20%の人が大学に進学し・ス時代で、皆がこんな難しい学問を修めて卒業していると思うと自分がひたすら情けなくて、いつも落ち込んでいました。
斎藤
僕も高村さんの2歳上くらいで同じ世代なのですが、それほどまで勉強していた人がいるとは驚いてしまいました・・・。
高村
スポ−ツとか音楽とか、ほかに楽しみもなかったですし。でも、私が特別だったわけではなく、同級生もよく勉強していましたよ。ソルボンヌに行ったり、フランス語の弁論大会に出たり。私はいつもクラスメイトに追いつけませんでしたが、大学の4年間で叩き込まれた「学ぶ姿勢」は、間違いなく今の自分の基礎になっていると思います。こんな大学教育が行われていたのは、ICUだけではないでしょうか。
齋藤
高村さんがおっしゃるようにICUで学ぶ、「学ぶ姿勢」は今の僕にとっても非常に役立ちました。それがあったからこそ、「ものを考える」今の仕事に就けたのだと僕は思っています。ICUは非常にユニークですよね。医学部はないがお医者さんになる人、法学部がないけど弁護士になる人、ユニークな中小企業を選ぶ人がいたり、それぞれ多様で面白い。
高村
大学で勉学をする醍醐味とは、「これを学べば、この資格がとれる」という単純明快な結果にあるのではなく、人生最後の何をしても許される貴重な時期に、自分の“思うまま”に本を読み、世界を広げるというところにあるのだと思います。おそらく迷いもするし、挫折もするだろうけれども、ともかく人類の知識の集積を覗いてみて、そしてそれが何になったのか結果を問われない。それこそが、大学生活でしょう。いまの大学はたいてい、即戦力につながらないことは勉強する意味がないという流れになっているようですが、ICUは違いました。いまも違うと思います。何になるかわからないけれど、ともかく学ぶ。そうでなければ、学問などなりたちません。
人を観察することが大好きな子供でした。 皆でつるんで遊ぶというよりも教室の後ろの席で 40数名のクラスメートを観察するのが面白いと思っていました。
渡辺
大学生になって大阪から上京しての寮生活、里心がつくとか、不安はなかったのでしょうか?
高村
「不安はありませんでした。むしろ、中学生や高校生のときは「先生を含め大人はうそつきで素晴らしい人ではない」と思っていましたが、大学に入って初めて、大学の教授ははるかに自分より頭がいいということを認めました。当たり前ですけどね。実家が懐かしいという気持ちよりも、新しい学生生活から受ける刺激の方が大きかったと思います。
渡辺
どのくらい小さいときから、大人はつまらないものだと思ってらしたのですか?
高村
小学校に入ったときから。生意気な子どもでしたから。大人から見れば、いつも大人を観察しているすごく嫌な子供だったことでしょう。戦後の影が残っている時代に大阪市内で生まれ育ちましたから、家を一歩でると、子どもの眼にも明らかに貧しい人たちがいる。なぜ、世の中には貧しい人がいるのだろうかと、子どもながらに思いましたよ。子どもにとって外の世界は、なぜ、なぜ、なぜ、という疑問にあふれていました。
渡辺
高村さんは、言葉にするのは難しいかもしれませんが、どんなお子さんだったのでしょう?お家の中で遊ぶお子さんだったとか、外で活発に遊ぶお子さんだったとか。
高村
どちらかといえば、一人でいるほうが好きでした。皆でつるんで遊ぶよりも、教室の後ろの席で40数名を観察しているタイプのいやな子。でも、世の中には自分とは違ういろいろな人間がいることをこの眼に刻むというのは、ほんとうは社会で生きるために必要な第一歩だと思うのですけれど。
齋藤
高村さんは小さいときから人を観察するということをやっていたのですね。本を読んでいると人の描写が非常に細かい。人を観察し、細かなことをさらに細かく描写している、それはすごい才能だと思いました。
作家でなくとも生きていけたと思います。 でも一人で筆をとる“作家”という職業に向いていたのでしょう。
齋藤
作家になったのは、自分で作家になろうと思ってなったのか、それとも気がついたらものを書き、結果的に作家になっていたのでしょうか?
高村
小説家になっていなくても、何かはして生きていたでしょう。でも、私は会社などの組織にいるよりも、一人でやる仕事に向いているのは間違いありません。小さいときから友達を作るよりも一人でいるほうを選んできましたし、人に合わせることの苦痛よりも、孤独のほうがマシという人間ですから。結局、勉強をするのも、ものを考えるのも一人でやるもの。人との共同作業は、楽しいことも学ぶことも多いのでしょうけれど、一人でしかできない仕事というのもある。ものを書くというのは、その一つです。
渡辺
ニュースステーションという番組のコメンテーターだった朝日新聞社の方から「日食があるとすると多くの人は欠けていく太陽を見上げる。でも、そこで、日食を見ながら、太陽を見上げている人達を観察している人、それがジャーナリストだ」という話をうかがいました。高村さんもきっと人を観察する方なのでしょうね。TVでは、内容、出演者の発言、すべてチーム制作をしているため連帯責任となる面もありますが、高村さんの場合は一人で全ての責任を持ち、作品を個人名で世の中に出されることは、潔く、大変なことだと思います。
高村
多分、メディアの取材は時間が限られているからでしょう。私の場合は、時間の制約もなければ、取材の目的が決まっているわけでもありませんから。また、メディアはその性質上、必ず「誰に向けて」「何を訴える」というものでしょうから、意識的に捨象するのはやむをえません。逆に、小説は何かを訴えてはならない。何かを感じ取るのは、読者に任せなければならないのです。私は、自分の眼で見ることを基本にしておりまして、たとえば工場を取材しますと、製造ラインだけではなく、天井や床、臭いや光などの全部を身体で経験します。そして、それを描写するだけです。それに尽きます。
渡辺
書くことは、その体験の軌跡なのですね。
高村
小さいときから色々な場所を一人で歩きまわっていました、目的もなく、あらゆるものを見てきました。私の場合、それらの記憶が海馬のなかの引き出しにいれられ、普通の生活では閉めたままで終わってしまうのでしょうが、「書く」ことによって、引き出しを開けているのかもしれません。
文章で表現する醍醐味とは、 目にみえないもの、形のないものを言葉で表現すること。 行間でその場面の温度、湿度までも伝えることができるのです。
渡辺
“考えることを放棄しない”姿勢を私は高村さんに感じます。が、いまという時代、世の中を思うと考えることを放棄しつつあるのではないかと感じることがあります。
高村
先日、あるところで同じような内容の鼎談をしたのですが、そのときは、結局日本人という民族が昔からこうだったという結論になってしまいました。これでは、ほんとうはわざわざ人さまとお会いして、言葉を互いに深めてゆく意味がありません。けれどもいまの時代は、忍耐のない時代です。すぐに結論や結果が求められます。多様であいまいなものは、見向きもされません。多様であいまいなものを捉えるのは、結局言葉しかないのですが、日本では複雑な言葉の営みも敬遠されつつあります。それが、今の日本の政治・経済・社会にも反映されているのですが、この傾向はどうも世界の先進国に共通のようですね。自由主義経済の突出。原理主義の隆盛。ナショナリズム。どれも複雑な連立方程式を解く忍耐を放棄して、単純な一次方程式に世界を還元しているようなものです。 かつてICUで私が学んだのは、まさにそうならないための思考の訓練だったと思っています。いまの時代こそ、それが求められていると思うのですが。
渡辺
TVではまさに「それでどうなのか」という答えを求められます、時にそれをとても怖いと感じます。数行の原稿のなかでは言い表せないことの方が多いのに、それなりの答えを求められる。私は、個人的にですが、TVの提示するものを「100%正しい」とは受け止めないでいただきたいと願っています。それは、テレビに限らずですが、何かを伝えるという行為自体、何かを削っている事実でもあるので。日頃、比較的、簡単に使ってしまっている「分かる」という言葉自体、本当はなかなか無いことだと思うので…。分からないんだ…ということを分かっていく毎日のような気もしています。高村さんを前に高揚して、私の方が長々と聞いていただくというインタビュアーとしては失格だったことを読んでいただく方にも謝らなければ…と思います。職業柄、時間を気にしながら次の質問を考えるという切羽詰まった状況でうかがうのが常ですが、今日はそうではなく、聞きたいことを聞かせていただきました、本当にありがとうございました。
高村
新聞記者は別ですが、今日の4名はICU同窓生ということで、誰がインタビューワーでインタビューするという関係でもありません。私が一方的に話すほうが不自然だと 思いますよ。
阪神大震災の後に、言葉を使う”快楽”に気がつきました。 “言葉と言葉の間の感覚に官能できるかどうか”、この官能を知った人間は才能がないと反対されても書き続け、結局作家になっていくのだと思います。
高村
いま、ようやく自分をプロと呼べるようになったような気がします。世の中にはものを書きたい人は大勢いて、読者の数よりも書きたいと思う人のほうが多いぐらいです。でも、その中で作家になることができるのはごく僅かです。その条件は観察眼というよりも、「言葉を使うことの”快楽”に目覚めているか、目覚めていないか」ということだろうと思います。言葉をあやつることは誰にでもできますが、”快楽”いわば”言葉と言葉の間の感覚に官能できるかどうか”この官能を知った人間が物書きになるのです。止めろといわれて止められるものならば、その人は作家にはなっていないと断言できますよ。
渡辺
その官能を自覚なさったのはいつなのでしょうか?
高村
物書きとして自覚したのは、93年ごろです。私はなんとなくデビュ−してしまったあと、なぜものを書くのが自分でも分からずにずいぶん悩みました。それが、ある日ふと官能に目覚めたのでしょうね。それからさらに、95年の阪神大震災で自分の立っている大地が揺れたとき、書くことの方向性は大きく変わってしまいましたが、書くという行為の意味は変わっていません。やはり言葉のもつ魔術のような「快楽」です。物書きとして言葉を連ねて文章をつくる。これは、申し訳ないけれど、何にも替えがたいものです。だから、私は物書きなのですよ。ほんとうに罰当たりです。
渡辺
では、高村さんが今一番楽しいと感じられるのは書いているときなのですね?
高村
書いているときが一番楽しいですね。普通仕事をする人には気晴らしが必要という方もいらっしゃいますが、私の場合は、海外にいっても食事にいっても運動をしても気晴らしになりません。もちろん書き詰まることも多々あります、でもそんな時ほど良い文章が生まれる兆しで、自分の文章をじっと眺めて考え続けます。じっと眺めることで、新しい文章が生まれてきます。それこそ、文章が「生まれるか、生まれない」が一番重要で、それが私にとって「生きる」ということなのだと思っています。


プロフィール

高村 薫(たかむら かおる)
1971年 - 同志社高等学校卒業。 1975年 - 国際基督教大学 (ICU) 教養学部卒業(専攻はフランス文学)。卒業後は外資系商社勤務。 1989年- 『リヴィエラ』で第2回日本推理サスペンス大賞の最終候補。 1990年 -『黄金を抱いて飛べ』で第3回日本推理サスペンス大賞を受賞。 1993年 -『リヴィエラを撃て』で日本推理作家協会賞、日本冒険小説協会大賞を受賞。 1993年 -『マークスの山』で第109回直木賞受賞。 寡作。単行本から文庫化するにあたって、大幅な改作を行うことが多い