インタビュー内容

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第24回 2010年12月13日
ジャズピアニスト ケイ赤城

ケイ赤城
プロフィール
1953 年3月16日仙台生まれ。 4歳から12歳まで家族と共にオハイオ州クリーブランドで過ごす。 5歳からピアノを習い、音楽学校(The Cleveland Music Settlement)でピアノ理論、音楽史を学ぶ。帰国後、青森県下の高校在学中にジャズ音楽に接し、国際基督教大学(ICU)では哲学と作曲学を学ぶ。大学卒業後再び渡米し、カリフォルニア大学サンタ・バーバラ校の哲学科博士課程に入学。勉学の一方、大学のジャズバンドで作曲やオーケストレーションをやったりピアニストとしてブルー・ミッチェルやアート・ペッパーのピックアップバンドに参加するなどの演奏活動も経験。25歳の時それまで目指していた大学教授への道をやめてプロ・ミュージシャンとして歩み始める。
齋藤
ホント、お久しぶりです。今日はお忙しいなかありがとうございます!よろしくお願い致します。赤城さんとは40年ぶりですねー!いつもD館でピアノを弾いておられたんですよね〜!
渡辺
40年ぶりっていうのは、「D館で見たぞ!」っていう感じなんですか?
齋藤
そんな感じです。赤城さんは、ちょうど私の家内と同期だったので、それで知っていただけで、音楽での関係ではないですよ(笑)。
赤城
そうですね、一緒に活動していたわけではないですね(笑)。
プロのミュージシャンになるということは、ただ仕事として音楽を選ぶということではない。それは人生そのものの生き方の選択である。
渡辺
MMSで活動なさっていた頃のICUでの時間はいかがでしたか?楽しい時間でしたか?
赤城
すごく楽しかったです。まず、18、19歳っていう時期は一番楽しい時期ですし、その時期に音楽や芸術ですごく感動した部分にいくつになっても戻ってくるような感じですね。そういう意味でも、今の自分にとってICUで経験した生活っていうのは切り離せないものですね。
渡辺
そうなんですか〜!では、その時期にお聞きになった音楽に赤城さんは影響を受けられたんでしょうか?
赤城
あの頃は、音楽にものすごく面白いことがあった時代だったんですよね。僕はジャズの人間なんですけど、伝統的なジャズというものが崩壊して、現代音楽やロックなど、そういうところからきた音楽との融合があった時代なんですよ。ものすごく実験的な音楽が多かった時代です。音楽には実験的なものが常に伴うという考えが、あの頃から当たり前の考えとして自分に身に付いたかなと思います。
渡辺
へ〜!そういう時代だったんですね。
齋藤
赤城さんのインタビュー記事をここへ来る前に読んでいたのですけど、「プロのミュージシャンになるということは、ただ仕事として音楽を選ぶということではない。それは人生そのものの生き方の選択である。」と書かれていてその表現にびっくりしたんです!僕はコンサルティングをやっているんですが、マッキンゼー時代の後半の時期に同じようなことを感じて、リクルーティングのセミナーで「プロのコンサルタントになるとは、コンサルタントという職業ではなく、生き方を選らんだということで、徹底的にコミットする必要がある」と学生たちに伝えていたのです。だからものすごくびっくりしました。今日はホームページに書いてあること、インタビュー記事で読ませていただいたこと以外にも、根掘り葉掘り聞かせて頂ければと思います(笑)。さてっと、それで、音楽を始めたのは5歳の頃だと聞きましたが・・・?
赤城
はい、そうです。ピアノを始めたのは「子供には絶対にピアノの教育を受けさせる」っていう、うちの親の方針だったと思うんですよね。姉は現代音楽のピアニストで、僕はジャズピアニストです。おふくろはピアノを弾いていて、美しい歌声ももっています。親父は教会の牧師で、オルガン弾きで、歌がすごく上手だったんですよね。そういう環境で育ったので、音楽というものは常に周りにありましたね。子供の頃からピアノの先生のところに毎週通いました。
齋藤
昔はアメリカにおられたと伺いましたが・・・?
赤城
はい、4歳半から12歳までアメリカにいました。その後日本に戻ってきて、中学高校大学は日本で、大学院でアメリカに戻りました。
渡辺
子供の頃に「習いごと」と言われて始めると、なかなか続かなかったり、親に言われると嫌いになってしまう場合があると思うのですが、そんなことはありませんでしたか? 最初からピアノお好きでしたか?
赤城
いや、大っ嫌いでした(笑)。アメリカにいる間は嫌々ながらレッスンに通いましたね。日本に帰ったのが中学1年生のときで、僕は日本の学校に通ったことがなかったので、ほとんど日本語も話せないし、「あいうえお」もできない状態だったんです。2年くらい経ってピアノをまた弾きだしたら「なんか昔の友達がいるな」って思ったんですよね。寂しさから逃れられたのかな。そして中学3年生の頃からピアノを弾きだして、その時はもう先生についているわけじゃないから、好きなものを演奏できるんですよね。ビートルズを弾いてみたり、映画音楽を弾いてみたりしてると、自然とジャズに入っていったんですね。ジャズは、子供時代に日常的に聞いていたものですから、これもまた懐かしいなという感じでした。高校1年生のときですね。
齋藤
ピアノを始めて継続していくことなんですけど、「ひとつ終わると次に進む」と続けて行くっていうのはどうやってやるんですかね?僕も小学校時代に母親にピアノを習いなさいと言われてやっていたのですが、先生がくると走って逃げるタイプで、結局、止めちゃったのを覚えています。それが続くっていうのは何か秘訣があるんですかね?興味を持続させるっていうのは・・・例えば先生が良かったとか。
赤城
それはあると思います。先生の良し悪しは。ただ、僕もアメリカで教えているんですけど、大体15、16歳がひとつの分かれ道だと思います。そこで楽器やるのが好きだという子と、そこで離れてしまう子と。
齋藤
なんかちょっと変な質問かもしれませんが、なんで音楽が好きになれるのかって。赤城さんのようにご家族全員が音楽に携わっていて、周りに音楽があるのが普通になってくると、すごく自然に音楽が自分の中に入ってくると思うんですよね。昨日よりうまく楽器が弾けたとか・・・こう、「好きになっていく」というのはなんなのですかね?
赤城
もっと単純なことなんじゃないかなと僕は思います。音楽好きな人っていうのは、逆を言えば、世の中すべてを音楽を通して解釈できるっていう人間なんです。例えば、先週15、16歳の子が学校で誰か素敵な人に出会ったとします。その時たまたまBGMが流れていた。その時の経験と音楽を一緒に記憶するかどうかってことなんですね。音楽好きな人間っていうのは、自分の過去を語るとなると、音楽だけで語ることができるんです。「あの時この曲を聞いていた。悲しいときこの音楽を聞いていた」とか。音楽をreferenceとして自分の人生を語ることができるかどうかですね。それをできるかできないか、そうするのが好きか嫌いかで、その人が「音楽が好きかどうか」が分かると思います。プロになるということは人生そのものを選ぶことになると言い方をしましたが、能動的に自分の人生を考えるにあたって、音楽が全てのことになり得るという人生を選びなさいということだと思うんですよ。全てのことを音楽を通じて理解する、音楽の力を借りて全てを処理する。それがミュージシャンになるっていうことだと思います。
何が本当にやりたいんだ?と考えたときに、決断は5分間かからなかったと思います。次の日の朝に大学院に電話しました。「今日、僕あなたの授業行きませんので!僕学校やめてジャズピアニストになります」って(笑)。
渡辺
プロになろうと赤城さんご自身が思われたのは、大学のときですか?
赤城
いえ、大学院の時ですね。アメリカに戻ってからです。大学院では哲学を専攻していたのですが、音楽が好きで好きでしょうがなくてバンドをやっていたんですね。でも時間的に両方できなくなったんですよね。で、何が本当にやりたいんだ?と考えたときに、決断は5分間かからなかったと思います。両方はできないぞって考えた時、音楽やろう!って思いました。次の日の朝に大学院に電話しました。僕を担当してくれていたのは世界的に有名な客員教授だったのですが、その日彼のセミナーで発表をする予定だったんです。でも「今日、僕あなたの授業行きませんので!僕学校やめてジャズピアニストになります」って電話しました(笑)
渡辺
ええええー!本当にそうおっしゃったんですか?英語でおっしゃるとどういう感じだったんですか?
赤城
”Sir, I am not going to your class today. I have decided to quit school and become a jazz musician.”って言いました。そしたらむこうは絶句で、” Starting today!? Well…Good luck my son!”って言われて終わりました(笑)。
渡辺
わーーーー!(笑)素敵な先生ですね〜!かっこいい!映画の1シーンみたいですね!そういえば赤城さんはICU在学中は何を勉強なさっていたんですか?
赤城
ICUの最初の2年間は、親父と一緒でキリスト教の牧師になろうと思ってたんです。神学からコロっと哲学に変わりました。
齋藤
それはなんで哲学に変わっちゃったんですか?
赤城
早い話、無神論者になったからです。それまでずっとキリスト教信者だったのに、ある日突然それが崩壊して。担当だったスイスからの客員教授に、「そこまで疑うなら徹底的に疑ってみろ」と言われ、それで哲学の方にうつったんです。哲学の担当の先生は、スコットランドからの客員教授で、「もし哲学を続けたいなら、日本の大学院ではなくてアメリカかイギリスに行った方が良いよ」と言われたのでアメリカに行きました。
齋藤
なんで無神論者になっちゃったんですか?
赤城
何かあったわけじゃなくて、子供の頃からずっと信じていた宗教ってものは信仰の世界のものとして教えられたわけではなくて、事実の世界として教わってるわけですよね。信仰の世界のものと、事実の世界のものは必ず衝突します。衝突したときに、そこで信仰で押し通すのか、「あ、これは全然違うものなんだな」って0に戻って考え直すか。僕の場合は牧師になるということまで考えた人間なので、それが崩れた時には、尋常な崩れ方ではなかったわけです。極端に、完全にラジカルになったんです。その時どっちかというと左翼的な考え方に進むきっかけにもなりました。それが上手い具合に、自分が経験していた音楽の崩壊と一致したんですよ。だから色んな意味でこれは全部つぶれる必然性があったのかなーと思いました。
齋藤
なるほど。その時お父様はなんとおっしゃいましたか?
赤城
休みになってうちに帰って親父に「俺はもうクリスチャンじゃない!」って言ったんですよ。そしたらニコっと笑って、「お前もやっと自分で考えるようになったか」って言われましたね。親は見守るというスタンスでしたね。
渡辺
お父様かっこいいですね〜!ご両親から、ピアノ以外に「これしなさい、あれしなさい」と言われたことはありましたか?
赤城
大学に入るまではすごく厳しく言われました。大学に入ったら自分の責任で、という感じでした。そう考えると、両親はとてもwesternizedされていたのかなと思います。親父はPh.D.をアメリカでとっているし、二人ともクリスチャンなので、日本のあの世代のクリスチャンっていうのは普通の人とは違う経験をしているんですね。うちの親父は大学を卒業して2週間後に徴兵されちゃったんです。口頭試験で「イエスキリストと天皇陛下とどっちが大事か」って聞かれて、ガハハと笑っちゃったそうです。だから親父は結局上等兵になって終わっちゃって、命は助かったんです。
渡辺
そのお話は、赤城さんがおいくつくらいのときに聞かれたんでしょうか?
赤城
10歳くらいのときかな。一家そろってアメリカにいたので、戦時中の話を2人から聞かされました。敗戦国の日本人がアメリカで生活するにはそれなりにプレッシャーがあるわけですよ。アメリカの普通の学校に行くわけですから、歴史の授業では「日本という悪い国が・・・」っという言い方をされるわけですね。僕もそれでいじめられるわけです。だからいつも「自分は何なんだ?」って考えていました。「今日また日本は悪い国だって先生に言われた。」そういうことを親に聞かざるを得ないわけですよ。そこをどう説明するか、きっと苦労していたと思います。
齋藤
赤城さんは青森の高校に行かれたと伺いましたが、これはご両親のご都合だったんでしょうか?
赤城
弘前市にキリスト教の女学校があって、うちの親父がそこの学長として行くことになったんです。
齋藤
なるほど。ということは青森の高校からはじめは東京神学校に行かれる予定だったけど、お父様にも勧められて横のICUに来られたんですよね?とするとICUを受験したのは軽い気持ちだったんですか?(笑)
赤城
ICUっていうのはどういうところか全く知らなかったんですよね。ただ、日本の大学とは違う入試のシステムが存在するということは知っていました。大学受験勉強はさせないというのがうちの親の方針だったんです。あんな無駄なことはない、と。「そんなことでせっかくの高校の時間を無駄にするくらいなら、アメリカに戻るか?」とまで言われました。塾に行ったり、そういう余分な事は一切やらせないという考えでしたね。だからうちの姉は高校終わってすぐアメリカに行っています。僕はせっかく4年間も日本にいたし、日本語話せるようになったし、もうしばらく日本人でいたい、と思って日本に残りました。そしたら受験勉強を普通にしなくて良いところ、となり、ICUを受けました。
僕は寮に住んでいたので24時間ICUにいましたね。1人で物事考えたいと思えば森の中に入って行って、大声で歌いたければバカ山に行きましたね。D館に忍び込んでピアノをひきにいったり。自分1人で何かをやってみたいってことが出来るところでしたね。だから周りからのプレッシャーというのを感じたことがありませんでした。
齋藤
そうだったんですね〜。さっきお聞きしましたが、ストレートAだったんですってね。そういう人ってあんまりいないのですが、もっとびっくりしたのはうちの家内が「確か古屋先生のめちゃくちゃ難しいIntroduction to the ChristianityでAは赤城さんだけだったと思うわよ」と言っていたんですよ〜!ちなみに、ぼくはDだったんです(笑)
赤城
インクリは難しいですよね。でも僕の他にもう1人Aの方がいらっしゃいました(笑)。
渡辺
すご〜い!読むことも小さい頃からお好きだったんですか?
赤城
英語で読むというのを初めに学んだので、日本にきてから読むものがなかったんです。だから中学の時に読書のブランクというのがありました。ICUでまた本を読むということを教えられました。すごくその点に関しては感謝しています。
渡辺
おかしい話ですけど、普通ICU受かりたいとか東大受かりたいとか、Aを取りたいって気持ちってありますよね。Aをとることを目標にした場合、どうやったらとれるんでしょうか…?(笑)
赤城
先生10人いたら全部違いますよね。例えば僕はアメリカで作曲を教えていますが、A+,A,A-,B+,B,B-とあってそれ以下もありますよね。僕は学生になんていうかというと、普通の仕事やって、作曲やって、僕のいうことをフォローしたらB+あげるといいます。人一倍に優秀なものをつくったとすればA-。録音されて世の中に出されても大丈夫な曲っていうのはA。そして僕が演奏したいと思ったらA+。と言う風にしています。
齋藤
なるほどなるほど!それは良いですね〜!
渡辺
赤城さんはレポート出す時に、「これはAだな!」って思って出していらっしゃいましたか?
赤城
難しいですね〜その質問。まず何を勉強したのか・・・・(笑)。でも確か、ひとつBとって、日本民族舞踊はCだったんですよね。あとギリシャ語はB-でしたね。ファイナルテストに寝坊しちゃって・・・笑)。
齋藤
覚えているのがさすがですよね。ほとんどがAだとそんなもんなんでしょうね。ところで、MMSにはいつ入られたんですか?
赤城
気付いたらいつのまにかって感じですよね・・・。1年生の2学期目からです。ピアノ練習したいけど、するならクラブに入らないといけない、と。
齋藤
MMSにいる間に学んだこととはありますか?何かのちの人生に影響を与えた、っていうインパクトのある思い出など。
赤城
MMSに入って、デートの仕方は学びましたね(笑)。MMSに限った事ではないと思うのですが、あの頃ICUではひとつの世代の交代っていうのが現れつつあったんですよね。僕が1年生のとき、先輩達は世の中に対して厳しく、僕らの下の代はもうちょっと裕福な、戦後立ち直った日本からでてきた人達っていう印象を受けましたね。僕たちはそのちょうど間っていう感じでしたね。MMSっていうのも色んな人間が集まっていました。キャバレーに行って明け方まで酔っぱらいに演奏して、お小遣い稼いでいた人もいましたし、純粋に変な音楽やりたいっていう気持ちで入った人もいれば、セクションメイトが入るっていうからくっついてきたっていう人もいて、色々です。色んなそういう人間の集まりがあったと思うんですね。僕が入学した時と卒業した時のICUっていうのは全然違ったと思います。でも、やっぱりすごく楽しかったです。MMSも寮も。色んな人達に出会えました。こういう人間もいるんだなって。ICUは変わっているじゃないですか。構造的にいって、所謂Liberal ArtっていうのはICUだけですよね。発想も違うんです。大学のあり方も。そこから色んな人が生まれるのは当たり前なんですよね。
齋藤
大学時代、お金を稼ぐためのアルバイトは何をしてたんですか?
赤城
何にもしてないです。本当に困った時は三鷹駅前のパチンコ屋で稼いでました。粘って稼いでましたね、たまに(笑)。
齋藤
そうですか〜!ICUの素晴らしさってどこですかね?
赤城
まず、キャンパスがすごかったと思います。あれだけ広い土地があって、ゆとりがうまれますよね。僕は寮に住んでいたので24時間ICUにいましたね。1人で物事考えたいと思えば森の中に入って行って、大声で歌いたければバカ山に行きましたね。D館に忍び込んでピアノを弾きにいったり。自分1人で何かをやってみたいってことが出来るところでしたね。だから周りからのプレッシャーというのを感じたことがありませんでした。
渡辺
赤城さんはAのためにガシガシ勉強したというわけじゃなかったんですよね。ご自分なりになさった結果がストAだったんですよね。当時、自分にはこういう才能がある か、これでやっていけるとか、ご自身で感じられたことはありましたか?
赤城
感じてない。全然感じなかったですよね、そんなこと。正直言って、なんとなく感じるようになったのは40代になってからです。それまでは、才能がないと思ってやめようと思ったことが何度もありました。最後に本当にやめようと思ったのは40歳の時です。サンフランシスコで演奏があったのですが、ホテルでその日起きたら「自分の中に音楽が一切残ってない。これ以上音楽できない。やめなきゃいけない。」と思ったんですよね。
齋藤
それはきっかけがあるんですか?
赤城
きっかけはないんですが、ある日突然そう思ったんですよね。空っぽになっちゃったって。何か別の仕事ないかなって必死になって考えて。ちょうどその頃、翻訳などを友達の紹介でやっていたので、思い切ってそっちにしようかなと。でも今夜の演奏もあるしそれはやってみよう、と思って、それでまた続くようになったんですよね。
渡辺
赤城さんでもやめようと思われたことがあったんですね。それは、「こうやって乗り越える」とかではないんですよね?
赤城
そうではないですね。単純にそこで続けるかやめるかですよね。どっちに決断するとしても、そこに到達するまでの長いプロセスっていうのはあるんですよね。実際にその決断の場になってみると、人間はすぐ答えを出すんじゃないかと思うのです。
赤城は日本人だから下手で嫌いなんだって言われるのは絶対に嫌だったんです。僕の音楽だから嫌いなのは別に良いのですが、赤城日本人だから下手で嫌いとは絶対に言わせないという気がありました。だからそういう意味では人一倍勉強したと思います。
齋藤
24歳でプロを決意したってことは、お金を払ってもらわないといけないでしょう?どうやってやったんですかね?
赤城
アメリカの場合は事務所って概念がないので。どういう仕事、どこで演奏できるかっていうのを考えて、こういうバンド組んでみようって行動するんです。Funk band組んでみました。当時色んなところで演奏出来ましたし。
(注釈:Funkとは音楽のジャンルの1つで、アフリカ系アメリカ人起源のソウルミュージック。)
齋藤
売り込みはどうしてたんですか?
赤城
色んなクラブに行って、僕こういうことやってるんですけど〜って売り込むんです。それで仕事をとって。当時は80年代だからライブ音楽っていうのは主流だったんです。仕事はたくさんありました。
渡辺
そうだったんですか。プロになるんだ!と思って実際にプロになった時のことは覚えていらっしゃいますか?
赤城
それはないですね。それまでやっていたことをひとつのstructureのなかに入れてformalizeされたという感じなので、初めてのことを始めるわけではなかったんですね。
渡辺
プロになってから、挫折などはありましたか?
赤城
僕はどちらかというとコツコツという感じだったので、それはなかったですね。だんだんもっと良いミュージシャンに出会うようになって、今度は彼らが僕を雇うようになって、とネットワークが広がっていきました。僕の場合は。
渡辺
なるべくしてなったという感じですね。 (同席していたMMS先輩の木原氏のコメント:大学で日本にいる頃から日本のジャズのトップにいたので、周りから見ていると「あいつなんでプロにならないの?」って感じだったんです。這い上がる必要がなかったんです。スタートが違ったんです。ちなみにロックの世界に無理矢理引きずり込んだのも僕です・B彼は寮でとなりの部屋で、レコードプレーヤーは持ってたけどスピーカーがなかったからヘッドフォンで聞いていたんです。僕の部屋にジャズのレコードを持ってきてかけてくれって言うから、こっちのロックを一緒に聞いたら流してやる、と無理矢理洗脳したんです(笑)で、バンドやってみない?とロックバンドを組んでいました。)
渡辺
音楽でも勉強でも飛び抜けていらっしゃったわけですけれど、普通は偏差値でもアベレージに最も多く人は集まります。あえてうかがうと、日本語の勉強は別として、勉強ですごく苦労した!などは全く無かったですか?
赤城
今思えば、ICUの4年間は決してeasyではなかったですよ。授業は難しかったし、先生も質の高いものを要求してきましたし。アメリカで僕が接したミュージシャン達もそうでした。そういう環境のなかにいたので、やってこれました。
齋藤
でも普通は高い質を求められてもそれを極めようとしないんですよ。やめちゃおう!って。なんでそれが「よし、やっちゃおう!」ってなるんですかね?
赤城
あの時、Japanese musicianっていうのは少なかったんです。赤城は日本人だから下手なんだって言われるのは絶対に嫌だったんです。「赤城の音楽だから嫌い」なのは別によいのですが、「赤城は日本人だから下手で嫌い」とは絶対に言わせないという気がありました。だからそういう意味では人一倍勉強したと思います。でもこれがまた難しい話で、ちょうど僕が音楽をアメリカで始めた頃は、経済大国として、日本が海外進出してきたころなんです。今度は逆になったんですよね。「日本の車は良い、日本の電子製品は良い、赤城は日本人か、だから上手いのか」と。音楽は個人のものなので個人として見て欲しかったのですが、アメリカに住むアジア人は多かれ少なかれ、自国の代表にならざるを得ないんですよね。
渡辺
日本とアメリカの両方を経験なさって、赤城さんの目にはそれぞれの国はどんなふうに映っているんでしょうか?
赤城
両方良いところもあるし、良くないところもあります。僕はアメリカ生活の方が圧倒的に長いから、日本の方が外国なんです。10年くらいですね、日本にいたのは。アメリカも日本もここ何十年かの間ですごく変わりました。僕が日本に定期的にくるようになって、今年で10年目なのですが、それまでほとんど帰ってこなかったんです。だから最初に帰ってきた時は、僕の覚えている日本というのは大学時代の日本なんです。その日本はいったいどこに消えてしまったんだろう?ってすごく寂しかったです。
齋藤
それを特に感じられた大きな違いってなんなんですかね?
赤城
まず、日本語の喋り方です。今の若い人の喋り方は発音そのものが違うから分からないし、音楽に対して、お金、政治、社会に対してっていう考え方があまりにも違うんですね。僕が覚えているのは芸術に対しても建築に対しても、まだアバンギャルドっていうのが残っているときだったんですね、とても実験的であって。それでそういうところでアメリカに行ってしまったので、帰ってきた時になくなっていてびっくりしました。
渡辺
音楽、お金、政治、社会に対しての考え方が違うというのは、どのように違ったと感じられたんでしょうか?
赤城
アメリカみたいになっちゃったのかなーと。アメリカっていうのはバブルが崩壊してから最初はみんな大変だ大変だって騒いでいたのですが、次第に国民は「俺たちは無力なんだ。何言ってもだめなんだ」っていう諦めの姿勢に入ったんですよ。文化の一部として。幼少時代にそれを経験した人達は特にそうで、新しいことをやってみようという前に、安定したものをやってみようっていうのを強く感じました。ちょうどそれが音楽的に言えばWynton Marsalisと平行して出てきたから。彼が世の中に提供した保守的な音楽の見方と、安定といったものに対しての願望と、アメリカの政治的な右翼化、保守主義が全部合致したんですね。それが僕の経験した90年代なんです。それ以前の音楽の作り方を知っている人間としては、「世の中大変なことになっちゃったな」と思いましたね。日本はこんなになってないだろうなと少し期待していたのですが、同じ風になっていましたね。
渡辺
逆に良いところはありますか?
赤城
ありますよ。やっぱり自分のことを追求してみたい、新しいことを始めてみたい、何でも良いから追求してみたいと思ったらアメリカは良い国だと思います。どういうことかっていうと、周りが完全にほったらかしてくれるんですよ。誰も何にも言わない。ICUみたいに(笑)。その代わりだめだったらお前一人の責任だぞ、ってことです。逆を言えば、個人的に伸ばそうと思えばすごく良い国ですが、失敗したらものすごく寂しい国です。日本は逆に周りの人が面倒をみてくれる国なんじゃないかなと思うのですが、あんまり突出したことはやりにくい。
齋藤
アメリカにずっと住み続ける理由はなんなんでしょうか?日本をわざわざ選んでみて、今日本にないものを与えられるかもしれないっていうようなことはありませんか?
赤城
そういうこともあって、日本で10年前にバンドをやって続けましたし、日本っていうのはモダニズムに対しての寛容性があります。アメリカは文化的に保守的だと思います、NYなど一部の場所を除いて。いわゆる古典的なモダニズムはやりにくいです。
齋藤
音楽を教えるっていうきっかけはなんだったのですか?
赤城
12年前に僕の友達がカリフォルニア大学で教えていて、演奏旅行で何日か休むからやらないかって聞かれたんです。で、やってみたら結構面白くてね。そしていつの間にか正教授になっていました。
齋藤
いつの間にかなれるもんじゃないですけどね!(笑)
渡辺
いえ、齋藤さん、赤城さんはレベルが違うんです(笑)。教える対象はどのような方なんでしょうか?
赤城
一般教養の科目として、音楽をやっていない人にもジャズの歴史も教えていますし、音楽をやっている人にも教えています。ヨーロッパ的な音楽の捉え方ではない、アメリカ独特の音楽の捉え方があるんだってことを教えていますね。アフリカ民族音楽でまだ残っているものはいったいなんなのか、それが今アメリカのラップなどにどう影響しているのか、など音楽と文化の関係みたいなことを教えています。もっと専門的な授業では、作曲と理論を教えています。
人間って言うのは自分が音楽を選んだって言ってる間はいつでもやめられるんです。でもあるところまできて、「音楽が自分を選んだんだ」って思うようになったら、もうやめるという選択肢がなくなるんです。
齋藤
マイルス・デイビス(Miles Davis)ってすごく有名な人と2年間お仕事してますよね?これはどういう経緯だったんでしょうか?
赤城
マイルスの前に、Al Dimeolaというギタリストのバンドに入っていて、彼のマネージメントとマイルスのマネージメントが仲良くて、マイルスのバンドからキーボードがやめた時に、「誰か良い人いないか」って話がきて、僕の名前があがったんです。マイルスの事務所から電話がかかってきて、音楽のサンプルはないか、と聞かれたからカセットテープをかき集めて送ったところ、3日後に「じゃあお願いします」と返事がきたんです。最初は断ろうかと思ったんです。というのも、それまで色んな人のバンドをやってきて、その時36歳だったので、「そろそろ自分の音楽をやりたいな」と。でも女房に「あんたマイルス断ったら一生後悔するよ」って言われたんですよね。だからまぁやってみようかと。
渡辺
なるほど〜!きっとそうでしょうね。40歳以降にやめようと思われなかったの なぜなんでしょうか?
赤城
これすごく比喩的というか、神秘的な言い方になっちゃうのですが、人間って言うのは自分が音楽を選んだって言ってる間はいつでもやめられるんです。でもあるところまできて、音楽が自分を選んだんだって思うようになったらもうやめるという選択肢がなくなるんです。それが40歳前半だったんですね。
渡辺
なるほど…その時に自覚はありましたか?
赤城
なかったです。あとになって、あー、そうか、変わったのか。と思いましたね。
渡辺
起こっているときは自覚ってないものなのかもしれませんね。
齋藤
マイルスのように非常に優れている人と一緒に音楽をやって、最終的にそう思えるようになったのは、「もうだめかもしれない」という落ち込んだ時があったからそう思えるようになったんですかね?
赤城
それは一概には言えないんですけど、僕の知っている優秀なミュージシャンっていうのは、何らかの形でそうやって「僕はもうだめだ。音楽をやる資格がないんだ」って落ち込んでそれで続けた人達ですね。
渡辺
全ての人に当てはまるわけではないですが、経歴を“豪華”にしようとする意識も人間、 働きがちです。赤城さんはこのマイルスの後に「より豪華に」しようと思ったりはなさらなかったんですか?
赤城
そうじゃないですね〜。経歴は結果であって、この先には自分の音楽しかないんですよ。結構みんな見落としがちなんですが、最後のStanley Turrentineっていう人のバンドに所属したのが1番長かったんですよ。9年間です。1991年から彼が亡くなる2000年まで。名声という意味ではマイルスの方が上かもしれないですが、僕はおそらく彼から一番多くのものを学んだと思います。スタンリーの曲ってギンギラギンのブルースなんですが、そんなバンドに9年間いて、僕やっとブラックミュージック弾けるようになったなって思ったんです。彼はジャズサーキットの中で活躍した最後の人だと思います。どっかの田舎町の黒人地区にいって、黒人以外は僕しかいない。その中で90歳くらいのおばあちゃんが僕のところに来てハグしてくれて、「あんたうまいねーっ!」って言ってくれて。「やっと俺もアメリカのミュージシャンになれたな」って思いました。
渡辺
それはご自身の音楽をやりながら、平行してなさったんでしょうか?
渡辺
なるほど…その時に自覚はありましたか?
赤城
そうですね。自分の音楽活動も始めた時でしたね。
渡辺
お休みって・・・あるんですか?色んなこと同時になさってるから。
赤城
休みってないね〜っていうか毎日が休みかな?(笑)まとまった休みはないですね。1週間くらいとったのは7年前ですかね?だから今年のクリスマスは絶対に家にいる!って決めているんです。
長い目でみれば、人生を本当に左右してしまう決断ってないんです。取り返しのつかない決断っていうのは、人生においてそこまでないです。もう何でも良いから、無茶でも良いからやりたいと思えばやって良いと思う。
渡辺
ご自分の60代、70代、80代を想像なさいますか?
赤城
時々自分はどんな音楽をやってるだろうかと思ったりします。でもそれはあくまでも、70歳になった時にこんな音楽をやっていたいな〜って思うだけで、今分かんないことは少なくとも70歳になった時には理解して出来るようになっていたいと思います。
渡辺
音楽が自分を選んだわけですから、もう音楽と距離は離れないんでしょうね。
赤城
距離というか、自分=音楽そのものなんですよね。だから逆を言えば音楽というのは僕にとって特別なことでもなんでもない。ご飯を食べるようにごく当たり前のことなんです。僕のところによく「ミュージシャンになりたいんです」って学生がくるんです。でも僕言うんですけど、ミュージシャンっていうのはそれ以外に何にも出来ないって人がやるもんなんです、音楽っていうのは。他にできることがあるんだったら絶対そっちにいった方が良い。 (木原氏:ミュージシャンになりたいっていってる人はなれない。なっちゃうんです。)
赤城
そうなんです。そしてなった時にはもう手遅れです(笑)。音楽をやらないと生きていけない人達がやるんです。みていたら、ミュージシャンになる人ならない人っていうのは分かります。そして多くの場合なって欲しくないです。なんでかというとね、才能の問題じゃなくて苦労がめちゃくちゃ多いから。「お前この苦労に耐えられるかどうか分からないぞ」って。だから生徒にも言います。「君は才能を持っているし、音楽に貢献しようと思ったらすごいこと出来るかもしれないけど、もしかしたら途中でつぶれるぞ」って忠告したことはあります。
渡辺
そうなんですね!じゃあ、これも足掻きみたいな質問になっちゃうのですが、赤城さんは仕事がなくなったり、つぶれるようなことありましたか?
赤城
はい、経験しましたよ。全財産17ドルってとこまでいったのを覚えています。34歳のときです。車にガソリンは満タン、冷蔵庫に3日分の食料だけがある状態だったのです。
渡辺
どうしてそういう状況になったんですか!?
赤城
仕事がなかったからです。
渡辺
赤城さんでもそういう状況があったんですか!?どうなさったんですか?
赤城
大変だった(笑)。
渡辺
でもそういう時と、やめようと思ったときは重ならなかったんですよね?
赤城
重なりませんでした。この時はなんとか頑張ろう!て思いました。やめようと思ったのは、仕事が安定した時でしたね。
渡辺
じゃあそういう苦しい経験を踏まえて、「覚悟してる?」と聞いてらっしゃるんですね。
赤城
そうです。だから「あんた貧乏に耐えられる?」って聞くんです。「周りから馬鹿にされて認められない、お金がないっていうのが何年も続くっていうのに耐えられる?」って。それが普通なんです。だから才能がある子に「君は才能があるからミュージシャンになってしまうだろう。でも本当ならばやって欲しくない」って言いますよ。
渡辺
赤城さんの授業でA+をとった生徒はいるんでしょうか?
赤城
いますよ。1人だけ。今NYで素晴らしいミュージシャンとして活躍しています。
渡辺
やっぱりミュージシャンになっちゃったんですね(笑)。
赤城
そうです(笑)。でもすごく苦労していますが、素晴らしいミュージシャンです。
齋藤
最後に聞き忘れた大事なことを聞いておかないと!先ほど、無神論者になった話をされてましたよね。今でも無神論者なんですか?
赤城
数年間続いたあと、またクリスチャンにもどりました。やっぱり音楽なしでは生きられないのと同じで、自分は神様なしでは生きられないと思って戻ったんです。40代に入ってからですね。
渡辺
ICUの生徒や、ICUを目指している学生にメッセージをお願いします。
赤城
学生時代には難しい決断をしないといけないと思ってしまうことが多いですが、もっと長い目でみれば、人生を本当に左右してしまう決断はそれほどたくさんありません。たとえば取り返しのつかない決断とか。もう何でも良いから、無茶でも良いからやりたいと思えばやって良いと思う。その結果、何か後始末しなきゃいけないことができたらそれはそのとき対応すれば良い話ですし、学生時代にそこまで気にしなくて良いと思う。 取り返せる時期はいつかくるから心配しなくてもいいんです。

後記:今回の赤城さんへのインタビューでは、元MMSメンバーで同期の木原茂夫君にお世話になった。また、インタビューの場を提供してくれた同期の鈴木洋樹君にもこの場を借りて感謝したい。鈴木君は現在、代官山にあるお蕎麦屋さん「ソバテリア」の経営を行っている。http://www.sobateria.com/ (斎藤)

プロフィール

ケイ赤城(けいあかぎ)
1953 年3月16日仙台生まれ。 4歳から12歳まで家族と共にオハイオ州クリーブランドで過ごす。 5歳からピアノを習い、音楽学校(The Cleveland Music Settlement)でピアノ理論、音楽史を学ぶ。帰国後、青森県下の高校在学中にジャズ音楽に接し、国際基督教大学(ICU)では哲学と作曲学を学ぶ。大学卒業後再び渡米し、カリフォルニア大学サンタ・バーバラ校の哲学科博士課程に入学。勉学の一方、大学のジャズバンドで作曲やオーケストレーションをやったりピアニストとしてブルー・ミッチェルやアート・ペッパーのピックアップバンドに参加するなどの演奏活動も経験。25歳の時それまで目指していた大学教授への道をやめてプロ・ミュージシャンとして歩み始める。翌年1979年アイアート・モレイラ&フローラ・プリムグループのピアニストになり7年間在籍し、その後アル・ディメオラのグループなどを経て1989年から1991年までマイルス・ディビスグループのメンバーとして活動。その後スタンリー・タレンタインのバンドに参加10年間在籍する。 音楽活動を続ける一方、1996年カリフォルニア大学アーバイン校で音楽講師として教鞭を執り始め2000年からは同大学芸術学部教授としてジャズ理論、歴史、実技などの講義を行っている。又大学近郊地域の文化活動の一環として各種コミュニティー、サークルなどでジャズの レクチャーや演奏活動も行っている。1998年からは日本人ミュージシャンとのグループを結成して毎年国内ツァーを行っている。 http://www.aomori-net.ne.jp/~yamagen/kei/profile.htm