インタビュー内容

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第25回 2011年1月18日
東京大学大学院教授 姜尚中

 姜尚中
プロフィール
1950年、熊本県熊本市に生まれる。 早稲田大学大学院政治学研究科博士課程修了。旧西ドイツ、エアランゲン大学に留学の後、国際基督教大学助教授・準教授などを経て、現在東京大学大学院情報学環・学際情報学府教授。専攻は政治学、政治思想史。
齋藤
今日は本当にお忙しいなか、お時間をいただきありがとうございます。今回は同窓生ではなく、初めてICUで教えておられた方でTVや若い女性向けの雑誌にも出ていらっしゃるということで、お話を伺えること本当に楽しみにして来たんです。政治学者という硬そうな仕事をされているのですが、姜先生がどのようにして今のように人気学者になられたかお話を伺えればと思います。早速ですが、先生は熊本出身でいらっしゃるんですよね?熊本から早稲田大学に行かれているわけですけど、初めから政治学者になろうと思って行かれたんですか?
医者になるために熊本大学の医学部に入ろうかなと考えたこともあったのですが、結局、小さいころからやっていた野球への夢が捨てきれず、野球部に入りたくて早稲田に行ったんです。
僕は、はじめは野球部に入りたくて早稲田に行ったんです。当時、王さんが早実のピッチャーで、母にも「とりあえず野球をやれば生計がなりたつ」と言われ、プロになれなくてもノンプロくらいになれればなと思いました。だから野球ばっかりやっていました。
齋藤
野球はもしかして小学校の時からやっていらっしゃったんですか?
そうですね、小学校の時からやっていましたね。僕がマザコンだったのもあるんですけど、勉強してると叱られていました(笑)。ステージママみたいな。
齋藤
高校に入るのも、野球で選んで行かれたんですか?
家に近かったことと、熊本で初めて全国制覇した学校だったということから選びましたね。野球で名を成せば色々な障害が乗り越えられると思ったこともありました。一面ではお医者さんになろうかな、とも思っていたんです。熊大の医学部にでも入ろうかなと。ハンセン病の世界的権威のある先生が僕のすごくご近所に住まわれていて、彼の姿をみて医者になろうかなと思っていたのですが、結局野球への夢を絶つことができなかったのです。高校3年くらいから、ものすごく引っ込み思案になってしまったんですね。学校に行くのも何もかも嫌になって、どうしようどうしようと思っていたのですが、そこでもう一度「野球で食っていければ」と思って早稲田に入りました。
渡辺
その高校3年くらいの時、どうして引っ込み思案になられたんでしょうか?その高校3年くらいの時、どうして引っ込み思案になられたんでしょうか?
それはですね、河合隼雄さんという心理学者に聞いてみると、「17歳の男の子は丸太の上を歩くようなものだ」と言われました。その丸太は深い谷にかかっているのですが、深い霧がかかっているので大抵普通に渡ることができる。でも、人によっては、霧が少し晴れて下を見てしまうと渡れなくなってしまう。17歳の男の子はそういうのですごく危ないそうなんです。17歳で色々と犯罪が起こった時期もありましたよね。僕はその時、色んな深刻な悩みを抱えるようになりました。でもその時に日本文学、世界文学など色んなことを学びました。学校の授業はバカバカしかったですけどね。多分、自分の城をつくったんでしょうね、内面的な世界の。親の期待を裏切ったという気持ちはありましたね(笑)。
「世界はこんなに変わって疾風怒濤のように変わっているのに自分は何もできない。アイデンティティが見つからない」と自分を情けなく思っていました。自分が避けていたことに目を向けたら、本当に単純ですけど、人間はどこにいても人間だったということが分かりました。
渡辺
その時のお母様の反応は?
やっぱり息子は能力がないと思ったんじゃないですかね(笑)。でも、僕は大学に入るより前に一回東京に来ているんですよ。中学2年の頃に友達と家出してきたんです。芦花公園の近くの読売新聞で働いていた友達の兄を頼って、汽車に乗って24時間かけて熊本から東京に家出しました。
渡辺
家出!?なぜ家出なさったんですか?
東京オリンピックの翌年で、東京を一回見てみようと。一ヶ月間、夏休みに親に内緒で家出をしました。着いて2週間目くらいで親に連絡しました。ちょうどチャブ台の上に少しお金があったので、それをもらって、おにぎりを自分でつくって家出しました。なので、東京に関してはその時のことで比較的印象が残っていました。
齋藤
そのときどういう思いでしたか?何が学ばれたことがありましたか?
中学の時から好きだった、夏目漱石の三四郎の話と一緒だな〜と思ったんです。八重洲に着いたとき、顔が煤で真っ黒だったんですね。当時は汽車でしたから。池袋に寄って、世田谷に寄ったんですけど、東京はどこまでいっても東京だったんです(笑)。東京はなくならないんですね。ありとあらゆるものが壊されて、作られて。もうひとつは、ものすごく自分がケシ粒みたいに思いましたね。自分のもっている考えがすごく不愉快で。なんで自分はこんなに矮小で、ケシ粒みたいなんだろうって。だから東京タワーに登ったとき初めて安心しました。上から下を見て。東京というのは、僕にとっては特別な場所になりましたね。一言で言うと「東京なにするものぞ」っていうすごい反発心、それから非常に磁力でひきつけられる感じがものすごくあって。大学もこちらに行ってみようって思いにつながりましたね。母が占いに凝っていて、僕は親元を離れた方が良いって言われたのもありました(笑)。兄は残って、僕だけ家を出ました。結局野球もダメになり、大学紛争がひどくて、「自分ってなんなんだろう」って大学に来てずっと考えていました。最近映画化された村上春樹さんの「ノルウェイの森」の舞台が僕の友人の家にすごく近かったんですね。そこに入り浸っていました。1年ほど放浪というか、「世界はこんなに変わって疾風怒濤のように変わっているのに自分は何もできない。アイデンティティが見つからない」と自分を情けなく思っていました。ノルウェイの森の主人公のようなことは出来ませんでしたけど。それで、1970年だったかな?一ヶ月くらい初めて韓国に行きました。僕の叔父が向こうで弁護士をしていて、彼が一ヶ月くらい来ないかと言うので。あの当時の韓国は、今からは想像できないくらい軍事政権でストリートチルドレンがたくさんいました。その中で僕は、一言で言うと「自然体」になりました。どういうことかというと、自分が避けていたこと、自分のルーツは何かということに目を向けないといけないということでした。何が分かったかというと、本当に単純ですけど、人間はどこにいても人間だったということです。僕は一時期、田園調布で家庭教師をしていたのですが、東横線に乗っていた時に夕日が落ちるところを見たんですね。東京が嫌いだったんですけど、その時初めて美しいと思ったんです。こんなに美しい太陽があるんだなって感動したんです。それと同じことがソウルでもあって、その時に「あー、これ東京で見たのと一緒だ」と思ったんです。自分のこだわりがバカバカしい、世界は広いんだって気付きました。何かが僕の中で変わったきっかけでしたね。
社会のセーフティーネットに頼ってもダメ。東大、早稲田、京大を出ても、家業を受け継いだ人、アンダーグラウンドの世界に入った人もいます。僕はどうしたかって、行き場所がなかったから大学院に行ったんです(笑)。
齋藤
そうなんですか〜。姜さんは早稲田で博士まで行かれたんですよね?
僕は大学に残るつもりは全然なかったんです。学生時代は、韓国の民主化をどうするか考えるっていう韓国学生同盟に入っていたんです。そこには北と南の両方からアプローチがあったのですが、熾烈な争いをしていましたし、実際に韓国に行って韓国のひどさを目の当たりにしていたので、自由のない社会はおかしいんじゃないかと思っていました。それと、叔父の影響もあったのかな?それで、その団体に所属していました。金大中拉致事件の時は、多分4年生だったんですけど、数奇屋橋でストライキをやったりしました。夜はこそこそ抜け出して、銀巴里に行ってたんです(笑)。そこで初めて美輪明宏さんにも出会いました。その頃に、僕は内面世界から社会に目をむけるようになりました。それまでは、問題を全て自分の内側で受け止めていましたが、そうじゃなくて、内面の問題ではなくて今私達が生きている社会がこの問題を作り出している、社会に目を向けないといけない、と考えるようになって、政治学に目を向け始めました。朝から晩までその学生団体の運動をやって、勉強どころじゃなかったです。数寄屋橋から韓国大使館の近くの公園に入り浸って、夏は必ず色んなところで合宿をやっていましたね。同じ境遇の人達と勉強会をして、自分達のルーツ、韓国社会と日本との関係、こういうことを勉強しながら、男女の色んな関係もできつつ・・・僕はなにもなかったんですけど(笑)。その時初めて友人もできて、先輩からものの見方を教わりました。彼らは自立ということを教えてくれました。結局、マイノリティーだけど、我々は社会のセーフティーネットに頼ってもダメなんだ、有名大学を出たからってそれが社会に出てそのままステイタスに繋がるとは限らないと。東大、早稲田、京大を出ても、家業を受け継いだ人、アンダーグラウンドの世界に入った人もいます。僕はどうしたかって、行き場所がなかったから大学院に行ったんです(笑)。
渡辺
へ〜、でも政治学をやってみようと思われた時期はあったんですよね?
それは、僕の周りで大人達が南北の議論をしていました、北と南をどうするかという話です。日本と韓国の根本的な違いは何かっていうと、韓国は政治の桎梏の軛から解放されていないということなんですよ。だって、今東京に住んでて横浜で砲弾が落ちるということはないじゃないですか。でも東京とソウルは同じように変わりなく動いている。市民社会や経済、都市、開発、繁栄の裏に戦争があるんです。すごく近いところに。日本でいうと沖縄のような状況が東京にある感じです。そういうような状況のなかで、僕達の時代はちょうど日本の社会が政治から撤退した時代だったんです。70年前後の時にコマーシャルで、「常識っていうやつとおさらばしたときに、自由という名の切符が手に入る。ハッピーじゃないかマイカップヌードル」っていうのがありましたね。すごく時代の雰囲気を表していました。ところが、僕の親達の国はそれどころじゃなくて、政治のど真ん中で生きていました。その飛沫が、次の時代にかかっていました。あの時代、就職内定の得られた学生たちは帝国ホテルとかで食事していました。ハワイまで旅行に行ったり。僕の周りの学生達は「今日はニューオータニ、明日は帝国ホテル。」そういうことをしていました。でも僕たちには職がない。全然。それは当然のことだと思っていました。我々はいつまでたっても政治の頸軛から解放されない。日本の社会は政治からは解放されているけど、企業の中で「企業戦士」としての人生を送っていけば良いじゃないか、という感じでした。
齋藤
そういうことだったんですね。その時、何か将来こういうことしてやろう!というのはありましたか?
ありました。やっぱり、僕はどこかで大人達がなぜこんなに政治の話をしていたんだろうという気持ちがあったので、日本と韓国のブリッジになりたい、と切実に思っていました。これを阻むものは何なんだろう?これが自分の桎梏になっているわけですし、何なんだろうと色々やってみても上手くいかない。それと同時に南北は分断されてるし、そこでもやっぱり政治の桎梏があって。その時に指導教授から「外に出てみたらどうだ?外から自分と日本をみた方が良いのではないか?」と言われました。
渡辺
だからドイツだったんですね〜!
そうです。ドイツに行って、向こう岸から日本を見られました。その時はモスクワ経由で行きました。インターナショナル空港のトイレに行って、ひどかったんです、トイレの紙が。多分この国はダメになると思いました。その時初めて僕は左翼にならなくて良かったと思いました。思考は左翼だったんです。まだ社会主義っていうのに対してほのかな夢も持っていましたけど、その時に社会主義の終焉を感じました。次にドイツに行ったらイラン革命が起こりました。周りのイランの留学生と喋って、イスラームに気付いたのもそのタイミングです。それまでイランとイラクの区別もついてない頃でした。
齋藤
ドイツを選ばれたのはなぜだったんですか?
僕の研究テーマと、指導教授が半年くらいドイツに留学していたんです。他の知り合いも留学していたので、ドイツが良いのではないかと。
齋藤
なるほど。それで、ドイツの留学を終えられてからICUに来られたんですか?ここのきっかけはなんだったんでしょうか?すごく興味があるところなんです。
僕は日本の社会のことを本当の意味で知らなかったんです。目を凝らしてみると、なんて日本の社会は多様なんだと思いました。色んな人がいて、その中で出会いもあって、日本の社会のなかで市民は成熟しているんじゃないかと思いました。
僕が埼玉県の上尾市というところに住んでいる間に、教会からバックアップを受けていたのですが、その教会の牧師さんがSSの千葉先生とプリンストン大学で一緒だったんです。教会の先生は僕のことをサポートしてくれて、親が亡くなって、叔父さんも亡くなったので、受洗したんです。千葉先生と仲が良かったので、お話があって。Cコードはクリアしていたので、ICUに入ったんです。ICUに入って驚いたのは、「こんな大学あるんだ!」って(笑)。
齋藤
こんな大学!というのはどんな感じだったんですか!?(笑)
まずやっぱり英語。ノンジャパニーズの数が多い。広大なキャンパスがあって、とにかく人口が超密でない。それから、リベラルアーツがものすごくしっかりしている。学生がやっぱり普通の学生と違うんですね。なんとなく。就職した後の定職率がすごく低いでしょ?そこが良い点だと思っているんですけど。
齋藤
同窓会長の時に一度調べたんですけど、ICUの卒業生は人気のある企業にわーっと群がって就職しているわけじゃないんです。聞いたこともない小さそうな会社や先輩が入社していないような企業に、幅広く就職しているんですよね。有名どころじゃなくて。
そうなんですよね〜!ICUを離れてから、そのすごさを改めて確認しました。
渡辺
先生がいらっしゃったのは1988年くらいですよね?私は、その前の年に入学していて、セクメの親友から「ものすっごい素敵な先生がいるから見て!」って言われて、18歳の時に梅の木の陰からバカ山ごしに「あれが姜先生よ!」と教えてもらったのが先生をお見かけした最初でした(笑)。
何なんですかそれ(笑)。ICUって群れないじゃないですか。すごくドライなところありますよね。僕にとっては今までの雰囲気と変わっていましたよね。一言で言いますと、僕はやっぱりショーウィンドウに珍奇なのが1人くらいいたほうが良いんじゃないかという感じでやっていました。周りは自由にやってくれたので、僕にとっては過ごしやすかったし、あの時代がなければ今はなかったと思います。
齋藤
ICUの後はすぐ東大にうつられたんですか?
あの時ね、迷ったんです。ICUでサバティカルを1年、休職を1年、合計2年の休みをとっていて、移る気はなかったんです。ICUで骨を埋めようくらいに思っていたんですけど、やや閉塞感を感じたんです。もうちょっとオープンで、もう少し雑音が入るような大学で教えても良いんじゃないかと。ICUはIsolated Crazy Utopiaといわれるくらいですから(笑)。ICUは素晴らしい環境で、先生方との距離も近いのですが、僕はどうしてもなんか横着なところがあって、決まり事をやぶってみたいというのがあって。何人かの学者とアメリカに行く機会があって、その時に東大の教授から「姜さん、東大に移らないか?」と言われたんです。本当に迷ったんですが、東大から誘われて、12月に移ったんです。普通4月に移るんですが、迷ってたから言い出せなかったんです。ICUにも東大にも迷惑をかけました。
渡辺
そういういきさつがおありだったんですね。少し話は戻るのですが、上尾で何かが変わったとおっしゃっていましたが、何が変わったんでしょうか?ご結婚なさったとか?
それもありますし、僕は日本の社会のことを本当の意味で知らなかったんです。学生って地域社会に着床していないですよね。特に近所とのつながりもないじゃないですか。上尾に住んでみて目を凝らしてみると、なんて日本の社会は多様なんだと思いました。色んな人がいて、その中で出会いもあって、日本の社会のなかで市民は成熟しているんじゃないかと思いました。
齋藤
それはイメージ的には、昔の町内会的なつながりですか?
それもありましたし、埼玉の中にも色んな問題意識を持っている先生、役員、市民が数多くいて、障害を持っている児童を普通学校に入れるためにはどうすれば良いかということを考えたり、外国人労働者も増えていましたのでそれをどうするかとか、要するにボランティアで一般の地域の市民が集まって、その中で僕のことを支援したいという人ができたんです。
渡辺
だから離れがたかったんですね。
そうです。その人達を通じて、僕は日本に対する本当の見方を僕はしていなかった。日本の上っ面だけ見ていて、深いところに理解がなかった。国と国ばかりみていて。外に出ることで自分の足元を見ることになったわけですね。
渡辺
伺っていて、姜先生はドイツや上尾でも、もしかしたら子供の頃から周りを静かによく観察をなさっているように感じたのですが・・・。
観察もあったかもしれないのですが・・・・。僕は小さい頃から大人に可愛がられていたんです。生徒に対してもそうなんだけど、年齢が下の人よりは、上の人に可愛がられていたんです。大人に悪い人がいるって感覚がなかったんです。みんな可愛がってくれて、夜店に行ったら物を買ってくれたり、サーカスに連れて行ってくれたり。大人に可愛がられたから、信頼が持てたんですね、人に対して。だから母から「お前はどうも遠くをみすぎる。目線が遠い。もっと近くをみなさい。」とよく言われていました。だから今でも僕はすぐ人を信じちゃうんです。
答えのない問いを問い続けていって欲しい。今、日本の社会は変わらなければいけない地点に立っているのは間違いない。その時、ICUはひとつの大きな突破口になると思います。
齋藤
東大の話に戻って恐縮なんですが、ICUになくて東大にあるものってどんなものですか?
駒場はICUに近いと思うんです。本郷は完全なエキスパートです。ですから、政府との色んなプロジェクトで重要な役割を果たすんです。ICUはリベラルアーツですから、僕はICUの根っこにあるのは言語、ランゲージだと思うんです。もちろんNS、SS, ISもありますけど、リベラルアーツである限りはヨーロッパを見ていても、言語が中心になるのではないかと思います。本当はICUは人文が中心でしょうけど、東大をみると到底そうではない。東大は基本的にはエンジニアリングです。東京大学というのはもとはといえば、エンジニアから出ているんです。そこが違いますよね。ICUは言語を根幹に見据えて、そこから自分がやりたいことに向かっていきますよね。それは東大では駒場が引き受けますよね。
齋藤
そうなんですね。もうひとつ伺いたいことがあるんです。運転免許書を50歳になってとられたと伺ったのですが、なんでなんですか!?珍しいですよね?新たな目覚めがあったとかですか?
珍しいと思います(笑)。なぜとったかと言うと、僕の人生の親友が癌で死んだんです。その人も含め、ずーっと数えていくと大切な人は10人ほど亡くなっています。この歳になると、見送られる側より見送る側の方が辛いんじゃないかと。ある年齢に達すると、見送る側の方が辛くなる。だったら自分のやりたいことをもう少しやった方が良いんじゃないかな、と思って。
渡辺
そうだったんですね。最後に、ICUの在校生やこれから無限の可能性を持っている人にメッセージを頂けますか?それから姜先生の目に、今の世代の学生はどう見えていますか?
今の学生は草食系だとか、バブルボケの人達が批判していますが、バブルボケしている世代より、はるかに真面目で、はるかに着実で、はるかに全うだと思います。でも、余裕をなくしてきていますよね。就活もすぐに始まるし、4年制の大学を出た生徒の就職率が68%だと言われています。だから、答えのない問いを問い続けていって欲しい。問い続ける力ってリベラルアーツの根幹だと思います。専門家は答えのない問いしか用意しない。じゃないと専門家じゃない。リベラルアーツって人間とは何か、何を信じるか、何が正義か、どう生きたら良いかとか。だからちょうど今、マイケル・サンデル教授の話に人気が集まっているんですよね。それはずっとICUがやってきたことなんですね。リベラルアーツは今こそ必要なんじゃないでしょうか。それに飢えた人達が、ブームとして正義とか、そもそも論に走っている。それはICUがやってきたことなんです。ICUは自信を持って、それを後世に伝えていって欲しいと思います。今、日本の社会は変わらなければいけない地点に立っているのは間違いないと思います。その時、ICUはひとつの大きな突破口になると思います。リベラルアーツの良さはそこにあると思います。

プロフィール

姜尚中(カン・サンジュン)
1950年、熊本県熊本市に生まれる。 早稲田大学大学院政治学研究科博士課程修了。旧西ドイツ、エアランゲン大学に留学の後、国際基督教大学助教授・準教授などを経て、現在東京大学大学院情報学環・学際情報学府教授。専攻は政治学、政治思想史。テレビ・新聞・雑誌などで幅広く活躍。主な著書に『オリエンタリズムの彼方へー近代文化批判』、『マックス・ウェーバーと近代』、『ナショナリズムの克服』、『姜尚中の政治学入門』、『日朝関係の克服』、『在日』、『ニッポン・サバイバル』、『愛国の作法』、『悩む力』、『母〜オモニ』など。