インタビュー内容

本文印刷

第26回 2011年4月8日
G&S Global Advisors Inc.代表取締役社長 橘・フクシマ・咲江

橘・フクシマ・咲江
プロフィール
1974年−1980年  ハーバード大学東アジア言語文化学科日本語講師。1980年−1984年  ブラックストン・インターナショナル株式会社。1987年−1990年  ベイン・アンド・カンパニー株式会社。1991年−現在   コーン・フェリー・インターナショナル株式会社。2000年より日本支社 代表取締役社長。 2009年5月より2010年7月まで日本支社の代表取締役会長。またシニア・クライアント・パートナーとしてリクルーティングを含む上級管理職並びに社外取締役等ガバナンスに関する人財コンサルティング業務を行う。1995年より2007年まで米国本社取締役を兼務。2010年より現職。2010年より、アジア・パシフィック地域 最高顧問。2010年8月にG&S Global Advisors Inc.を設立し代表取締役社長に就任。人財のグローバル化に向けたコンサルティングを行う。
齋藤
本日はお忙しいなかどうもありがとうございます。よろしくお願い致します。この「今を輝く同窓生たち」も今まで25名の方々にお話を伺ってきたのですけど、数えてみると女性はたった10名!しかもビジネス界の人はゼロだったのです。“次回はぜひビジネスの世界で活躍している女性にインタビューをしてみたいね縲怐hと渡辺真理さんからのお話もあり、有名なエグゼクティブサーチのコン・フェリーの会長を務められたフクシマさんにお願いすることにしたのです。お受けいただいて感謝しています。
フクシマ
そうなんですね。よろしくお願い致します。私、実はICUには縁が深いんです。兄も従姉妹もICUだったんですよ。
齋藤
そうだったんですか〜!フクシマさんのご経歴を初めて拝見した時、最初は清泉女子大学の英文科、次にICUの大学院で日本語教育、その後ハーバードで教育学の修士。そこまでは一貫しているように見えるのですが、その後全然違う分野に進まれてますよね!?スタンフォードの経営学修士(MBA)、ブラックストーン、ベイン。どうしてこのような道を歩まれたんでしょうか?
主人はいずれ学者になると言っていました。ということは私が稼がないといけないのですが、英語もできない、仕事の経験もない人間にアメリカで何が出来るか考えました。当時は、清泉の指導教官だったアメリカ人の先生に誘われて英語の教育教材を作る会社で働いていましたが、そこでお会いした大学の先生から「日本語を教えたらどうですか」とアドバイスを頂きました。
フクシマ
なぜかという根本的な理由は、主人と結婚したからです。私が大学3年生の時、スタンフォード大学で開催された日米学生会議に参加したんです。その時、主人はスタンフォードの学部の学生でした。そこで出会って、翌年に主人が来日し日米学生会議の実行委員を一緒にやりました。そして卒業と同時に23歳で結婚しました。その時、主人は日本で2年働いて、いずれ学者になると言っていました。ということは私が稼がないといけないのですが、英語もできない、仕事の経験もない人間にアメリカで何が出来るか考えました。当時は、清泉の指導教官だった先生に誘われて英語の教育教材を作る会社で働いていましたが、そこでお会いした大学の先生から「日本語を教えたらどうですか」、とアドバイスを頂きました。うちは父も源氏物語の学者だったので、その話をしたらすごく喜んでくれました。当時は、まだ日本語教授法が今ほどまで普及していない時代で、ICUは先端的研究で知られ、専攻のコースもありましたし、兄も従姉妹も卒業した憧れの大学でしたので、ICUの大学院に入りました。当時、学問として外国人向けの日本語教授法を教えているところはICU以外にはあまりなかったんですよ。研究生は5人で皆さん大変熱心でしたから、大学時代とは比較にならないほど熱心に勉強しました。今でも覚えているのですが、ちょうどそのころ授業料値上げ反対の学生運動があり。活動家の学生が、日本語教育の先駆者でいらっしゃった小出先生の授業に乱入し、「こんな大学存亡の危機に授業をしているなんて許せない。中止しろ!」という発言をしたんです。その時、小出先生が「私はこの授業に命をかけているんです!!出て行きなさい!!」と言われてその捨て身のお姿に感銘を受けました。日本語を教えるということは「日本人としての使命感を持ってすべきことなのだ」と心に刻む経験でした。こうした良い緊張感の中、良い先生方の元で勉強させて頂きました。ちょうどプログラムの修了時に、主人がハーバードに行くことに決めたので、小出先生にご挨拶をしに伺いました。そうしたら、ハーバードで教鞭をとられているICUの第一期生の方から先生にその日の朝に連絡があったとのことで、、「日本語の先生が必要だから誰か推薦して欲しいって言われたけど、あなた行く?」って(笑)。
渡辺
え〜!すごいタイミングですね!
フクシマ
そうなんです。それでご紹介頂いて、夏にハーバードに行きました。そして9月からバタバタと教え始めました。アメリカでは、学者は終身雇用資格の“テニュア”がとれるまで、いくつかの大学を経験します。当時主人は学者になる予定でしたから、アメリカの色々な大学を回って教鞭をとることが予測されました。私も日本語講師として州立大学で教えるにはアメリカの大学の修士が必要でしたので、主人が州立大学に行っても日本語が教えられるよう、アメリカの大学で修士をとろうと考え始めました。ちょうどその頃、異文化間コミュニケーションに興味を持ち始めたので教育学の修士を取得することに決め、ハーバードから奨学金をもらって教育学大学院の修士過程に入学しました。本当は異文化間コミュニケーションの領域で研究がすすんでいたスタンフォードに行きたいと考えていて、運よく合格し奨学金も頂きましたが、まだ当時は主人と離れて2つの家計を持つということに自信がなくて、ハーバードに決めました。ハーバードでは教育学全般を勉強しましたが、中でも面白かったのは、言語習得過程に関する授業で、日本人の子供の英語習得過程について論じた「“うぐいす”のケース」と言う論文でした。それまでは「アメリカの中の日本社会」という、周りが日本人か日本語の話せるアメリカ人ばかりの環境で生活していたので、突然アメリカ社会に入り、英語で発言も思うように出来ないし、大変でした。なんとか卒業して、教壇に戻りました。大学院に通っていた間は、ハーバード大学が提供していた夜のエクステンション・コース(社会人向けコース)で教えました。これがとても楽しく、学生が大学に申請してくれて同じ学生を教えるコースが毎年更新され、大学院卒業後教壇に戻ってからも継続し、合計で4年ほど教えました。
渡辺
その教えるというのは、どのように教えてらっしゃったんですか?
フクシマ
工夫することとしては、ドリル形式だったのでそのストーリーを面白くする、ということですね。彼らが知っているJapanese Englishを使ったり、生徒さんの名前や身近な建物の名前を使ったり。
友達の友達が連絡をくれて、ブラックストンという戦略コンサルティング会社で国際部門をつくるから来ないか、と誘われました。学問の世界でずっと生きていくんだ!と思って投資もしてきたのですが、主人に「やってみないと分からないよ。」と言われて、転職しました。
齋藤
普通は、それまでに投資してきたことを活かすためにも教育の仕事をずっと続けるところですが、また全然違う方向に進まれていますよね?そのような一大転換を行った理由はなんだったんですか?
フクシマ
学生が成長するのを見るのは楽しかったですし、コミュニケーションのツールとして語学に興味はあり、もっと勉強したいとは思ったんですけど、学問として言語学を究めたいわけじゃなかったんです。たまたま、日本語の学生の友達が連絡をくれて、ブラックストンというコンサルティング会社が国際部門をつくるために、日本に関する知識があって、日本語も喋れる人を探しているので来ないか、と誘われました。私自身は「一生日本語教師で生きていくんだ!」と思って投資もしてきたので、大変迷いましたが、主人に「やってみないと分からないよ。」と言われて、背中を押され転職しました。とても面白い会社でした。もともとの発想としては、ビジネスの経験はないが、日本の知識がある学問の世界の人達と、アメリカのMBAでビジネスは知っているけれど、日本に関する知識の無い人達を一緒にして「お互いに教え合おう」といういう発想だったんです。ハーバードやスタンフォードでMBAをとった人達と一緒に働いて、こういう世界もあるんだなと思いました。
渡辺
どんどん世界を切り開いていらっしゃった感じがするのですが、こういう世界とおっしゃったのはフクシマさんにとってどのような世界だったんでしょう?
フクシマ
切り開くというか、どちらかというと受け身だったので主人に背中を押されて“おっとっと”、という感じでしたね(笑)。初めは、疲れる社会だな、とは思いました。常に“元気!I’m fine!”と言っていなきゃいけない感じですよね。ただラッキーだったのは、日本のことを知っている日本語が話せるアメリカ人が同僚でしたから、自分の英語が不十分で通じなくても通訳してくれる。まだぬるま湯に浸かっている状態でした。後は、今まではビジネスとは無縁の世界で生きてきたので、「あ、ビジネスってこんなにシンプルに結論付けて良いんだ」ってとっても新鮮でした。学者の世界では、全て網羅していると示すために、誰がどういうことを言っているか全部文献を調べて、言及する必要がありますよね。ビジネスではその必要がないんですよね。最初のデータを8割みて、仮説を立てて、あとはそれに見合ったデータを収集する、と(笑)。元から教えるのは好きだったので、データを集めて、クライアントに説明して納得してもらって、というのは楽しかったんです。コンサルティングはセールスで物を売ることと違って多少頭でっかちでも良いわけで、全く違った世界に入ったと思っていましたが、実際には教師との共通項はありました。一番苦労したのは、自分がやったことを「私はこんなにやったんです!」って上司にアピールしなければならなかったことですね。最初の頃は違和感がありました。一度ワシントンD.C.にデータを集めに行ったんですね。自分が集めたいと思っていた量より大分少ない量しか集まらなかったのですが、上司に報告する時に、上司に「これだけしか集められませんでした」と報告したら、後で評価がその自己申告通りだったんです。同僚に話したら、「日本じゃないんだから、“これだけ大変なのにこれだけ集めたんです!”という言い方をしないといけない」と言われました。謙譲の美徳が通らないとの教訓でした。これは新鮮でしたが大変でした。そういうプレゼンテーションの違いなど、本当の異文化間コミュニケーションのギャップを当時感じましたね。
齋藤
それからスタンフォードにビジネスを学びに行かれたんですか?
フクシマ
コンサルティングはとっても楽しかったんですが、ビジネスの経験がないので全体像がつかめない。どうやったら一番短期間でビジネスのフレームワークを学べるか考えた時にMBAしかないと思ったんです。その時ちょうど主人がフルブライト奨学金で東大で研究することになったので、一緒に日本に戻ることにして、英語を忘れないように帰国してすぐにサイマルの同時通訳のコースで勉強を続けました。
齋藤
英語には苦労しているとご謙遜されてらっしゃいますが、ICUの後ハーバード、スタンフォード、と普通の人には超難関なコースですよね。どうしてそんなことができたんでしょうか!?
フクシマ
“Right place, at the right time.” というのはあったと思います。ちょうどスタンフォードは経験の多様性を重要視しますので、何人かはちょっと変わった経験の学生を選考するということもあったのと、アメリカが日本的経営に関心を示していた時期だったんですよね。多分ちょうどタイミングが良かったんだと思います。私は日本人でハーバード大学で日本語を教えていて、戦略系コンサルティングにいて、と経歴も面白かったんですね。きっと。MBAに入った時、周りの平均年齢が27.5歳というなかで私は35歳で、上から4番目に年をとっていたことも有利に働いたのかも知れません。スタンフォードは環境がとても良かったんですよね。当時のスタンフォードはランキングもNo.1で、倍率はハーバードより高く、トップ10のビジネス・スクールでは一番入学が困難でした。そしてその教育哲学が「ハーバードを蹴ってスタンフォードに来ようとしている生徒達だから、どうせあなたたちは競争心が激しい。あなた達(アメリカのビジネス)が学ばなければならないことはチームワーク」という時代でした。なので学ぶ時はなるべくstudy groupで勉強したり、成績もグループ単位の授業もあり、周りがとってもsupportiveでした。
渡辺
今のお話ではご主人さまが優秀でいらしたことに加え周りがsupportiveで、ということでしたが、複数の難関大学に合格なさっているのはご自身のお力ですし、やはりフクシマさんの能力が高くていらっしゃるんですよね。ただ、おっしゃらないところがお人柄かと。
齋藤
そうなんですよね。次に聞こうと思ってたんですが、小学校の頃から成績は良かったですか?
フクシマ
いえ、全く。常に中の上位でした。勉強嫌いだったんです。勉強すれば100点はとれるんですけど、勉強しなかったんです。兄は成績が良くて同じ小学校に行っていたのですが、兄を受け持っていた先生が後で私の受け持ちになり「お兄さんほどできないね」って言われたんです。それがすごく記憶に残っているのですが、悔しいから勉強しようとは思わなかったんです。「ああ、そうか、出来ないのか、しなくて良いのか」となったんです(笑)。
齋藤
ということは、フクシマさんは興味のあることに集中して取り組むことが出来るということなんですかね?
フクシマ
どうでしょうか・・・。決して頭が人より良いとは思わないし、学生時代に勉強した時は、100点が取れたのに、そのための努力はしませんでした。でも、仕事では努力はしましたね。私は「兄ほど勉強できないね」と言われたのもあるのですが、そういう人間だと思っているので自信がなかったんですね。自信がない分、努力しないといけないとはいつも思っていました。でも初めて一生懸命勉強したのはICUの大学院に入ってからですね。大学の頃はどちらかというと学生会を一生懸命していました。
仕事というものは、自分では「無理だ」と思うことをやらされている内に、いつの間にか出来るようになっているんですよね。若い人には、「会社に入社したら少なくとも3年は死にもの狂いで働きなさい。自分のキャリアは自分でつくるので、与えられた仕事は文句を言わず、とにかくその仕事のエキスパートになるようにやりなさい。会社に働かされていると思うのではなく、自分の力を付けるために働いていると考えて、若い時に自分のキャパを広げるべきです」と言っています。
渡辺
大学院にアプライされたりする時、勉強はかなりなさいましたか?
フクシマ
そうですね、ICUのときは頑張りました。成績はそんなに良くなかったのですが、勉強したなって思いましたし、勉強することの楽しさもそこで初めて学んだように思います。一生懸命勉強して、自分の知識が増えていくっていうのは楽しいなって・・・遅いですよね!(笑)ICUの良いところってそこですよね。勉強せざるを得ない。そういうプレッシャーって若い頃に経験しておいた方が良いですよね、ここまでやれたんだっていうのは満足感に繋がります。今だとパワハラって言われますけど、コンサルティングという職種はとにかく“働かされる”んですよね。ベインでも夜中の2時までみんなで仕事して、2、3時間仮眠してまた出社するという生活をずーっとしていました。全く土日もなかったですし。みんな仲間だったのもあるし、常に働かされているというより、自分の限界を広げているので辛くないんですよね。コンサルは当時は「できません」とか言い訳が出来ない雰囲気でした。仕事というものは、自分では「無理だ」と思うことをやらされている内に、いつの間にか出来るようになっているんですよね。若い人には、「会社に入社したら少なくとも3年は死にもの狂いで働きなさい。自分のキャリアは自分でつくるので、与えられた仕事は文句を言わず、とにかくその仕事のエキスパートになるようにやりなさい。会社に働かされていると思うのではなく、自分の力を付けるために働いていると考えて、若い時に自分のキャパを広げるべきです」と言っています。若い時は世間のしがらみもないですし、家庭もないんですから、その時に自分のキャパを広げる方が良いと思います。 今は少しでも会社が「働け」というとパワハラと言われかねない雰囲気があります。でも、自分で力を付けておけば、その次の仕事は絶対に楽になります。家庭や子供を持って、ワーク・ライフ・バランスが重要になる頃には、かなりの仕事を効率よくこなす力がついているはずです。 一番私がガッカリするのは、若い人で、優秀で恵まれているのに、とても受け身の人が多いことです。「会社が英語を勉強させてくれない」と不満を言う人がいるのですが、英語の勉強くらい自分でやればいいじゃないですか!なんで会社がそこまで責任持たないといけないんでしょうか。会社は学校とは違って、仕事の対価として給料を払っているんですから、自己研鑽は自分ですべきです。 興味深いのは、今時の若い人達は、私がそう言うと「あ縲怐Iそうですよね!」と大変素直に納得してくれるんです。今まで、家庭でも学校でも「人」にしてもらうことが当たり前になり過ぎていて、そうした考え方をしたことがなかったのかと思います。とは言え、今回の東日本大震災では、「被災者のために何かしたい」、という若い人が多くいたことで、日本の若者は決して捨てたもんじゃないなと思いました。
渡辺
捨てたもんじゃない、ですか。今回の地震やその対応に対してはどのようにお考えですか?
フクシマ
そうですね、最近のデータによると、若い人達が日本の住み心地が良すぎて海外へ出たくないという傾向が強いようです。昨年のJTBの20代の若者の調査では、44%が「海外に行きたくない」と答えており、男性だけの統計では52%がそう答えているそうです。その理由として、「お金がない」、「英語ができない」というのは仕方がないですが、三番めの「海外に全く関心がない」というのは気になります。日本で過ごすのが食事も美味しいし、安全、清潔で、電車等も正確に走り生活しやすいので、外に行きたくないというガラパゴス症候群です。さらに一番気になるのは、「危険な目に遭いたくない、伝染病にかかりたくない」と言う理由も最後にあがっていたことです。若い頃に色々な経験をしたからこそ、日本が住みやすい素敵な国だということが分かるのであって、体力のある若いうちに海外へ出たくない、と日本にこもるのはどうかと思っていました。しかし、今回の大地震を経験し、被災地のために何かしたい、と思う若い人達がたくさんいたようで、あの気持ちが外に向いていくともっと良いなと思いました。
齋藤
本当その通りですね。ところで、MBAからベインに入られたのはどうしてなんでしょうか?
フクシマ
私がMBAを取り終わる頃、当時仲良くしていた友達で、夏のインターンをベインでした人が誘ってくれたんです。そこで私もインタビューを受けてみたらオファーをいただいたのですが、実は私はゴールドマンサックスのオファーを受ける予定だったんです。スタンフォードの先輩もひっぱってくれていたので。でも、ベインに断りの電話を入れた時、色々な話をするうちにやはりコンサルティングの方が良いかもって思い始めて・・・結局最後に心変わりしてベインにしました(笑)。そこでボストンで一年仕事をした後に、東京で仕事をしました。当時主人はワシントンの米国通商代表部で仕事をしていたのですが、民間に戻ることに決め、それまでは、日米の通商交渉で一カ月に一、二回来日して東京で会っていたのが、来なくなるということで、私がベインを辞めて、ワシントンに戻りました。その後、主人がAT&Tに入社、日本勤務で来日しましたので、私も帰国しベインの元同僚から誘われてコーン・フェリーに入社しました。人のご縁です、本当に。
とにかく働くことは24時間よく働きました。夜中過ぎまで。必ずクライアントさんの一歩前を行くということを心がけて、クライアントさんのニーズにあった人を探すための苦労は厭わなかったです。何が起こるか分からないビジネスなんで、とにかく準備をしました。
齋藤
良い人が周りにたくさんいらっしゃったんですね縲怐Iそういえば、コーン・フェリーに入られてわりとすぐに取締役になられていますよね?これってなんでそんなことできるわけ!?って思っちゃったんですけど、どうしてなんでしょう?
フクシマ
私もびっくりしたんですけれど(笑)。私は入って2年でパートナーになったのですが、この間はとにかく働きました。エグゼクティブサーチの仕事は、コンサルに非常に似ているんですね。コンサルには3つの要素があるんです。1つはビジネスをとってくる。2つは分析をして良い提言をする。3つはクライアントさんとの関係づくり。どうやってクライアントさんを巻き込んでハッピーになって頂くか、ですね。この3つが主要なスキルなのですが、エグゼクティブサーチはこの2つ目の要素を「人を探してくる」に変えただけなんですね。分析能力では本当に優秀な閃きを持った人がいて、とても敵わないと思いました。でも、クライアントさんと一緒にお仕事をするのは大変楽しく、クライアントさんに理解して頂いて、我々のアドバイスを実行して頂いて、そのお手伝いをする。そういうのがとても楽しくて、そこは私のボスも大変評価をしてくれていました。そういうところがコーン・フェリーでの仕事に有効に機能したんだと思います。

とにかく働くことは24時間よく働きました。夜中過ぎまで。必ずクライアントさんの一歩先を行くということを心がけました。お電話がかかってくる前にかける、クライアントさんのニーズにあった人を探すための苦労を厭わなかったというのはあると思います。ぴったりの候補者がどんなに探しても見つからない時もありますが、とにかく市場を網羅して、その結果を整理してクライアントにご報告をする。市場の現実を理解して頂くことには時間を掛けました。その理由として、私はとても心配性なんです。何が起こるか分からないビジネスなので、とにかく危機対応の準備をしました。そういうのが幸いしたんだと思います。

一番最初にお手伝いをさせて頂いたクライアントさんが素晴らしいアメリカ人の方で、本当に一緒になってパートナーとして、仕事をしてくださったんですね。その時の案件が、コーン・フェリーの日本法人始まって以来の高コンサルティング料になり、入社当時は「女性にこの仕事がつとまるのか」と心配する向きもあったようですが、いったん実績をあげると男性女性関係ない世界なので、信頼を得ることが出来るようになり、アジアで一番の売上を上げるようになりました。ここでもまた良いメンターに恵まれました。創業者のリチャード・フェリーが、私がいずれ主人と一緒にアメリカに戻る予定であることを気にかけて、入社後間もない頃からアメリカの同僚に色々と私の話をしていたようです。また、当時の日本支社の社長が、私のパートナー昇格後に、アメリカのパートナー会議に連れて行ってくれました。その時にあるミーティングで日頃気になっていた「アメリカから日本までコミュニケーションが十分来ていない」ということを発言したんです。リチャードを囲む一部の人達は「彼女を黙らせないといけない!」と廊下の陰で言っていたのが聞こえましたが、拍手をしてくれた人がたくさんいたんです。その拍手してくれた同僚が、「彼女なら自分たちの意見を彼女自身のリスクで言ってくれるんじゃないか」と思ったんだと思います。

ある日突然リチャードから電話があって、「君の名前が(取締役を決める順位の)トップ3に入っている。選ばれたら引き受けてくれる?」と言われたんです(笑)。まだ入って数年で会社のことも何も分からない。”You must be joking. “という感じでしたが、リチャードはまたここで”You can do it.”と言ってくれました。主人に相談したら、主人も「やったらいいじゃない。日本人でアメリカ企業の本社の取締役はなかなか出来ないと思うので、すごく貴重な経験じゃないの。やってみなきゃ分からないよ。」と背中を押してくれました。そして1995年に選挙で選ばれて就任し、12年間務めました。本当に当時はよく働きました。
渡辺
お聞きしていると、ご主人さまが本当にサポーティブでいらっしゃるんですね。さっきからものすごいことをサラっとお話されているのですが、その秘訣っていうのはなんなんでしょうか?
フクシマ
クライアントさんを喜ばせたいという思いがすごく強くありました。サーチコンサルタントとは、ある意味すごくわがままで、「一生懸命頑張る。でも、誰かに認められて、褒めてもらいたい」という気持ちが強い人が多いのだと思います。クライアントさんを喜ばせたい、喜んで欲しい。それがすごく私の性格にマッチしたんだと思います。あとは、本当に時間を惜しまずというのはあったと思います。やはり根本には「自分にできるはずがない」と思っているので、もっとやらなきゃ、と夜も寝ずにやりました。あとは、本当にラッキーなことに、そういうことを評価してくださる良いクライアントさんに出会えたことです。
もっとICUのような、ちゃんと生徒に勉強させ、国際的に通用する人間をつくるための基本的なトレーニングをする大学が日本に増えないといけないと考えています。ですから、そのような環境にいらっしゃる皆さんは本当に恵まれていると思うので、その機会をぜひ活かして自分をグローバル人財に成長させて欲しいと思います。
齋藤
ということは、フクシマさんの強みというのは、一生懸命努力するハードワーカーということは確実にありますよね。2つ目は人に恵まれているということなんでしょうね。もちろん、クライアント含めて人に恵まれるというのは、ご本人に実力がないと恵まれませんからね。それから3つ目はひょっとするとコミュニケーション力ですかね。コミュニケーションって人のことを随分気遣うっていうことですからね。
フクシマ
人に会うことを仕事としていて言うのも変ですが、私はすごく人疲れするタイプなんです。主人はパーティーなどでも色んな人と話して知識を吸収するんですけど、私は少ない人と深く付き合うほうが好きなんです。仕事上ではたくさんの人と関わりますよね。ですのでそういう意味では、人から学ぶことが好きな人間で、これは非常にラッキーだなと思っています。昔から、自分より優秀な人を沢山見て来たせいか、自分に出来ないことの出来る人は「すごいな」と単純に嬉しくなります。「嫌な人だな」と思っても、そればかり考えていると自分自身が嫌になりますよね。「自己中心的で、誠実さの無い人」は尊敬できませんが、その人のことを考えてまた不愉快になるのは、時間が勿体ないと思っています。今までに社内でもこちらが相手に何もしていないのに、業績が良いのを嫉妬されたりして、嫌な思いをしたことは沢山あります。自分がその人の数倍も働いた結果業績が上がったので、「働かない人に言われたくない」と理不尽だと思ったこともありました。でも、人それぞれですから、自分の期待するように他の人が動いてくれる訳がないと思うようにしています。それで、この人嫌だなって思っても、徹底的に嫌いって思わないようにしているんですね。
渡辺
お人柄なんですね。I’m fine! こんなに私は仕事したんだ!って主張していくのが普通の世界で、自分らしさを保っていらっしゃるフクシマさんのあり方は素敵だと実感します。
フクシマ
それは本当に良いメンターに巡りあえたからだと思います。主人のサポートも大きいです。本社の取締役会では、頑張って主張しなければいけない訳ですが、だからといって会議では様々な国の人達の英語が飛び交っているわけで、わー!!ってなるんですね。私はその流れの中には飛び込めません。そこでどうやって聞いてもらえるか考えたんですが、少し議論が落ち着いた時にいつも手を挙げて発言してきました。そうすると、皆私の発言を静かに聞いてくれました。リチャードもその後のCEOも、「君は話す機会は少ないけど、言うときには聞くに値することを言う」って言ってくれたのは嬉しかったです。そうやって周りが理解してサポートしてくれたから、自分らしくやってこれたんだと思います。
渡辺
最後にICU生や若い人達にメッセージをお願いします。
フクシマ
私はICUの学生はとても恵まれた環境にいると思います。やはり日本の中の海外で勉強しているのと同じです。本来、もっとICUのような、ちゃんと生徒に勉強させ、国際的に通用する人間をつくるための基本的なトレーニングをする大学が日本に増えないといけないと考えています。ですから、そのような環境にいらっしゃる皆さんは本当に恵まれていると思うので、その機会をぜひ活かして自分をグローバル人財に成長させて欲しいと思います。

プロフィール

橘・フクシマ・咲江(たちばな・ふくしま・さきえ)
1974年−1980年  ハーバード大学東アジア言語文化学科日本語講師
初級および中級の日本語教育を担当。同時にエズラ・F・ヴォーゲル教授の日本語講師を務め、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の日本語訳に携わる。

1980年−1984年  ブラックストン・インターナショナル株式会社
米国系大手経営コンサルティング会社のコンサルタントとして、米国企業に対してコンサルティング・サービスを提供。製造業等の分野での企業の国際戦略の立案・実施を行う。
1982年以降日本にて情報収集等コンサルティング活動を行う。

1987年−1990年  ベイン・アンド・カンパニー株式会社
米国系大手経営コンサルティング会社のコンサルタントとして、米国および欧州企業に対してコンサルティング・サービスを提供。消費財・医薬品・製造業等の分野でM&Aを含む企業の国際戦略の立案・実施をボストン本社並びに日本支社にて行う。

1991年−現在   コーン・フェリー・インターナショナル株式会社
2000年より日本支社 代表取締役社長。 2009年5月より2010年7月まで日本支社の代表取締役会長。またシニア・クライアント・パートナーとしてリクルーティングを含む上級管理職並びに社外取締役等ガバナンスに関する人財コンサルティング業務を行う。
1995年より2007年まで米国本社取締役を兼務。2010年より現職。
2010年より、アジア・パシフィック地域 最高顧問。

2010年−現在   G&S Global Advisors Inc.
2010年8月にG&S Global Advisors Inc.を設立し代表取締役社長に就任。
人財のグローバル化に向けたコンサルティングを行う。

1999年4月より経済同友会会員。2003年5月より同友会幹事。2010年4月より副代表幹事。内閣府対日投資会議専門部会委員会委員、文部科学省科学技術・学術審議会、基本計画特別委員会委員、及び人材委員会委員、外務省「世界の中の日本・30人委員会」委員等を歴任。花王(株) (2002-2006年) 、ソニー(株) (2003-2010年、報酬委員会議長) 、(株)ベネッセホールディングス(2005-2010年) 、イー・アクセス(株) (2009-2010年) の社外取締役を歴任。2010年3月より(株)ブリヂストン社外取締役。 2010年5月より(株)パルコ社外取締役。日本取締役協会幹事。 全国社外取締役ネットワーク理事。2009年より日本政策投資銀行アドバイザリー・ボード委員。

人材・キャリア開発に関する執筆・講演多数。2008年1月ビジネスウィーク誌「世界で最も影響力のあるヘッドハンター・トップ50人」に唯一の日本人として選ばれる。著書に「人財革命」 (祥伝社)、「自信のなさは努力で埋められます」(フィールドワイ社)「40歳までの“売れるキャリア”の作り方」(講談社) ならびに「売れる人材」(日経BP社)、また「プラス思考のアメリカ人、マイナス思考の日本人」(ジャパンタイムズ社、共著)、「会社を変える・会社を変わる」(ファーストプレス社、共著)がある。現在、メイルマガジンを執筆中。