インタビュー内容

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第32回 2012年5月8日
日本音楽財団 理事長 塩見和子

塩見和子
プロフィール
1965年、国際基督教大学在学中より通訳として活躍。卒業後、米国を中心に、国務省、カナダ政府と契約して、政府交渉及び国際会議などの同時通訳を務めた。1979年に帰国して、世界最大・最古のオークション会社サザビースの日本代表に就任。1989年にはサザビース・ジャパンの社長となり、1992年に退社後、1995年から日本音楽財団の理事長に就任。
まだ女性が勤めることが一般的でなかった時代、戦後の日本を作っていった素晴らしい能力を持った方々からは人間的にも学ぶことが多く、持ち合わせの野次馬根性があったおかげでまず卒業後ICUで習得した同時通訳の技術を介してたくさん学ぶことができました。
渡辺
本日はお忙しい中、お時間を割いて頂いて有難うございます。いきなりジェンダーどころか年齢の話を申し上げるのは失礼なんですが、本当にお若くていらっしゃいますね。
塩見
今年の10月で私70歳になるのですよ。
渡辺
...お若くいらっしゃれる秘訣は、何かおありなんでしょうか?
塩見
そうですね。もし若いといわれるのであれば、いまだに「野次馬根性」を捨てずにいるのですが、その色々なことに関心がある意欲を満足させてくれる仕事に就いてきたからじゃないかしら。例えば私の場合、まずまだ同時通訳という概念が定着していない1965年にICUを卒業して、通訳のために経団連のお手伝いにも呼ばれていたりしていたのですが、当時「女・子供に経済が分かる訳はない」と財界の男性達は公言しておられた時代でした。ですから資料を配ったり、鉛筆を削ったりするのは良いが、最先端の同時通訳者として来ているのに「マイクからは何も言うな」なんて言われたりしましてね(笑)。今では内容さえ分かっていれば、女性の声の方が聞き易いと言われていますから進歩したものです。亡くなられましたがICUの齋藤美津子先生は、同時通訳の草分けで第一人者でした。その斎藤先生の元、同期で卒業した門下生7人が多分日本で初めての同時通訳のグループを作りました。そしてその夏、斎藤先生とアメリカから帰国され同時通訳の神様と評判の村松氏や國弘氏が立ち上げたサイマルに吸収されました。アメリカ式に「契約をしましょう」と7人一人づつに声を掛けて貰いましたが全員が断りました。女性が社会に出て勤めることがまだ余り一般的ではなかった当時、学校を卒業すると女性は花嫁修業をすることになっていましたので、我々は名目的にICUの恩師の斎藤先生の「お手伝い」をしているということで家が同時通訳をすることを許して貰っていたのです。 その2年後の卒業生からは最低限の文化的生活は憲法で保証されているのだから雇用契約を結ぶべきという要求がでて、雇用契約をサイマルとしました。しかし今思い出しても同時通訳を通して学んだことは、毎回わくわくするチャレンジでした。国際会議で扱われていたトピックスは医学分野であれ、技術分野であれ、最先端の情報を専門家達が交換するのですから勉強も大変でした。  またビジネス関係の通訳は何か問題が起こったときに招かれる場合が多く、まるでMBAのケーススタデイをしているようで、日本や国際的企業のトップの経営者の方々の問題解決方法を、通訳だからこそ「台所に入って」目の当たりに見ながら学ぶことができました。 当時の経団連の方々は戦後の日本の国造りをされた方々でしたから、人間的にも学ぶことが多かったです。でも新しい未知の分野ばかりでしたので「髪振り乱して!」徹夜続きで本当に勉強しました。
思春期を海外で過ごし、学校では常に「日本人の代表」として頑張りました。海外にいながら「日本」を見ることができたからこそ、日本人として自分を卑下することも偉ぶることもないのだと学びました。
渡辺
塩見さんはどんなお嬢さんだったのでしょう?
塩見
私は自由奔放な性格で、長所と短所の出方具合が激しかった女の子だったと思います。小さい頃から一貫してキリスト教系の学校に通いましたが、特に寄宿生でもあった小林にある聖心女子学院時代には、修道女の方々がカソリックの洗礼を受けるようにと一生懸命改宗させようとされたのが印象的です。(笑)
齋藤
小林聖心のご出身ということは、関西のご出身なんですか?
塩見
そうです。父は銀行員で、仕事で転任が多く、まだ小学生のときでしたが寄宿舎に入りました。それまでは、男の子と一緒に近所の川で魚や川エビをつかまえたり、田んぼで蝶やトンボを取って遊んでいるような自然児だったのですが、寄宿舎に入るとラジオも当時やっと出た白黒のテレビもなく、新聞も読める状況ではありませんでした。手紙を親や友人に書いても、封を開けたままで検閲がありましたし、もちろん受け取る手紙だって封を切った状態で受け取りました(笑)。私はとても活発でしたから、修道院の寄宿舎の結構窮屈な生活はとても大変で、沈黙順守のルールを破っては、 監督のマザーにカスタネットで「お静かに」という合図を送られていました。学校から同じ建物内の寄宿舎に戻り一人一人ちょっと距離をおいた勉強机で勉強をしていて、トイレに行きたくなっても、まず勉強部屋の監督のマザーに1,2,3,4と6カウント往復数えながら丁寧に深いおじぎをして、’May I go to the bathroom, please.’ と英語で言わないと、お手洗いにも行かせて貰えない環境でした。でも英語の授業は小学校の時からありましたから、英語を勉強できるのは嬉しかったですね。まだ充分に英語で話せないので、日本語を英語のように抑揚をつけてしゃべって得意でした。(笑)。未知の世界に新しい「窓」が開いたようにわくわくしましたね。 また礼儀のうるさい学校でしたから敬語は徹底的に指導されましたね。 今では私の大きな財産です。
渡辺
聖心をご卒業になってから、ICUにいらしたんですね?
塩見
いいえ。実は中学1年のときに父がインドのカルカッタに転任になり家族で行くことになりました。当時の日本はまだまだ経済的に貧乏で、殆どの会社では海外勤務は5〜6年も単身赴任で家族も一緒に海外へは行けませんでした。私たちは幸いにも家族で行くことができました。ところがカルカッタでは、日本人の子供は良い学校になかなか入れず いつもウェイティング待ちだったそうです。でも聖心からの紹介状で「聖心のマザーには昔お世話になったから」という理由で、即ロレットというマザーテレザが御自分の修道会を作られるまでおられたカソリック系の学校に入学できました。学校に入ってからはとにかく日本人として頑張りました。学校では何をやっても「塩見和子が。。。」ではなく、「日本人が。。。」という風にジャッジされました。西ベンガル州女子ジュニア陸上競技会では授業をさぼっても良いからと言われ2週間練習した槍投げは2位、走り幅跳びは3位、そしてハードルリレーはアンカーで優勝し、学校を運営している修道院の院長さまに大変喜ばれました。 でももし私に運動神経が無かったら「和子の運動神経は悪い」ではなく、「何て日本人は運動神経が鈍いのだろう!」というふうに判断されます。英国のギルバート&サリヴァンのオペレッタ「ミカド」の主役ヤムヤムを演じた時も、もし私が「音痴」だったら、「和子は音痴だ」ではなく「日本人は音痴」なんだと判断されます。 学科ではやはり応用問題の英語は最初良く分かりませんでしたが数学で点数をとりました。 英語は日本の小学校でやった位の程度では、最初とても英語の授業についていけませんでしたが 半年過ぎる頃から授業のノートを取っていました。何せ教科書には日本髷を結った振袖の女性が鍬をもって畑を耕す絵が載っていましたし、私の母は日本髷を結っているだろうから見に来たいという、まだ日本のことが国際的に良く知られていない大変な時代でした。結構感じやすい年代に何かにつけ「日本人として恥じることのない行動」を、プライドを持って実行する努力をする毎日でした。日本人として「卑下することも偉そうにすることもない」という感覚で育ちました。
渡辺
中学1年生でインドにいらした後も海外に滞在されていたのですか?
塩見
インドの後、父は香港に転任になりました。 香港でもインドの時と同様にウェイティングリスト入りだった所が、そのメリーノールという学校とインドでの学校との間に縁があったおかげで「明日からいらっしゃい」と言われました。最近は海外等異なった環境に即応できないかもしれない子供の「トラウマ」を注意するようにと言われていますが、私の両親はそういうことは全く気にせず、すぐ新しい環境に馴染むことを当たりまえと思っていたようです。飛び級して転校した1年後に英国系の公的高校卒業試験がありました。香港で戦後はじめてこの公的卒業試験を受ける日本人でした。通常2年かけて試験に臨むのを1年で受けようというのですが、落っこちるのも恥ずかしいから頑張って無事パスしました。英国式の試験はいわゆる「マルチョイmultiple choice」ではなく、全て文章での回答ですので答える方も大変ですが、点数を付ける方も大変です。
渡辺
私たちの時代だと「英語が出来ない、どうしよう」となるのが一般的でしたけれど、塩見さんが海外にいらした頃は必然的に日本を背負うことになる分、まず「やらなきゃいけない」という環境だったんですね。
塩見
確かにそうでしたね。でも決してイヤだとか、重荷だとか思ったことはなくて、結構チャレンジ精神で乗りきっていました。
齋藤
ご兄弟はおられるのですか?
塩見
弟がいます。弟は私と比べておとなしくて、小さい頃は女の子みたいでした。勿論今は変わりましたが。昔「塩見イ〜!」って乱暴に言って家に遊びに来たのが私の友達で男子達、「しーおみさ〜ん」と穏やかに言いながら遊びに来るのが弟の友達の女の子達だったのです(笑)。
齋藤
塩見さんはご両親のどちらかに似ておられるというのはありますか?
塩見
特別に両親のどちらかに似ている訳ではないと思うのですが、強いて言えば父の「凄い」姉達に似ているのじゃないでしょうか。街を肩で風を切って歩いていたと言われた叔母達です。母方の祖母もお姑さんにはずっと自由奔放な嫁でやってきました。
齋藤
そうなんですか。豪傑な女性って当時少なかったでしょうね〜(笑)!
塩見
そうね。だから午年ですが、一頭だけサイクルの違う丙馬が生まれたのねって時々言われます。野次馬根性は今でも旺盛で、とにかく新しいこと、珍しいことに今でも興味津津です。
ICUの願書に書かれた「あなたはこの学校にどんな貢献できますか。」という一文で入学を決意。在学中には齋藤美津子先生に誘われて京都で通訳をしたのが通訳キャリアのきっかけです。
渡辺
とてもCuriousでいらしたんですね。香港の学校を卒業なさった後、ICUへはどのような経緯で入学されたのですか?
塩見
実は卒業試験に受かってしまい16歳で香港の高校を卒業しました。その後は香港大学の聴講生として単位を取得したりしましたが、日本に戻り今と違い18歳にならないと大学に入れないので、もうひとつ他所の学校に通ったのちにICUには編入しました。ICUに入学したいと決定的に思ったのは、当時のICUの願書に「あなたはこの学校にどんな貢献ができますか。」という設問があったからです。ICUへの推薦状は当時香港大学で教鞭を取っておられた日本でも著明な英文学の大家ブランデンBlunden教授が書いて下さいました。聖心時代の同級生たちは殆ど関西から皆東京広尾の聖心女子大学に入りましたが、仲の良い同級生からも「一度自由の空気を吸った貴女は聖心より絶対ICUよ」と薦められました。卒業して47年ですが、校門からの桜並木もまだ木が小さかったですし、ゴルフ場になり今は原っぱになっている所にあったキャンピング・グラウンドは、秋になると膝のすぐ下位まで落ち葉が敷き詰め、カサコソと落ち葉の音の中歩くのは素敵でした。理想的には全ての学生は寮に入ることという学則でしたが、その落ち葉をバケツに何杯も集め、ストームと称して男子寮に夜撒きに行ったことも楽しい学生生活の思い出です。 ICU在学中はLinguistics言語学専攻でした。学部生がいなくて、音声学などは大学院の講義しかなかったのです。 ヨーロッパからエゲEge先生が教えに来られていました。「大学院の授業に来なさいよ」と薦められて、専攻分野の授業はいつも夕方から大学院の人達と一緒でした。大学院生と一緒に試験も受けましたが、どんな参考書を持ってきても良いと言われたのには驚きました。そう言われたもののどんな参考書でも間に合わない程 難しい試験だったのです。でも卒論を書いている時はいつもお宅に呼んでくださって、奥さまの焼かれたクッキーなどをご馳走になりながら指導して頂きました。大学を卒業した時には先生から今度は「これから自分はカリフォルニアの大学に行くことになったから一緒にいらっしゃいよ」と誘われましたが、残念ながらお断りしました。私は「言葉」を言語学の音声学のような機械的な分析の仕方があまり好きじゃありませんでした。異文化に触れて育った中で、色々な言語の持っている独特な言葉の意味や感情がびんびんと感じる人間になっていたので、言語に関して音だけで分析しようという機械的なことが嫌だったのだと思います。
齋藤
なるほど〜。ICUでは何か課外活動はされていましたか?
塩見
在学していた頃は全学生が何かのクラブに入ってクラブ活動をしなければいけないという校則がありましたので、グリークラブに入りました。 それまではずっと女子校ばかりだったのでICUの混声合唱の黒人霊歌の声がハモッた時は気持ちが良かったですね。 また府中の刑務所の近くに国際アジア犯罪研究所があって、そこで通訳のアルバイトをしました。そこでは国連関係の犯罪学のゼミが定期的に開催されており、時代の先取りで同時通訳が使用されていました。同時通訳の実地練習にはもってこいの環境でした。犯罪学も沢山独特の専門用語あります。自分達の単語帳を持ち寄って小さな辞書を作りました。アルバイトだというのに学校まで車が迎えに来てくれて、アルバイト代も普通以上に支払って貰いながら、実地で学べる恵まれた環境でした。
齋藤
通訳をなさっていたということは、齋藤美津子先生の授業を受けられたりしていたのですか?
塩見
齋藤美津子先生は同時通訳の日本での第一人者でいらっしゃいましたけど、実は先生の授業を受けたことはありません。ICUにはアドバイザ−制度があって齋藤先生は入学当時から私のアドバイザーでした。ある時先生のオフィスに行った所、「塩見さん、あなた、シャネルのお洋服欲しくない?」と聞かれ、勿論「いいなあ!」と思っていたら「欲しかったらあなた、夜行汽車で京都へ行ってらっしゃい」と言われ、通訳をいきなり実践したことが始まりでした。それまでは同時通訳の経験ゼロでした。京都の会議場では通訳ブースに直行、私は国際会議でスピーカーが英語で発表されていることは皆理解できたので 「フム フムなるほど」とにっこりしながら頷いていたら、一緒にブースに入っていたパートナーの上級生に「あなたにっこり笑ってたってダメよ!マイクから何か言わなきゃ!」って言われて、大変な同時通訳事初めでした。「聞くこと」、「聞いたことを訳すこと」、「訳したことを話すこと」の3つの作業を同時に連続してやるという人間の生物学的には多分やってはいけないことをする同時通訳を、1965年春に卒業した7人が日本で初めてグループを作って斎藤美津子先生門下生として生業にすることになりました。
渡辺
ひとつの言語でインタビューするよりも難しいですよね。”インタビュアーは相手の言うことを最も聞かない職業”とお叱りを受けることもありますが、確かにインタビューでは、相手が答えてくださっている間に「そうか。ということは、それはこうなんですか?」と考えつつ、次の質問にうつることができます。でも、通訳の方は考えることと話すことを同時にしなければならないわけですから、感服します。
塩見
でも同時通訳の技術さえマスターしたら、同時通訳よりも実は逐次通訳の方が難しいのです。逐次通訳は相手が例えば3分間話したことを、自分の中で文章を言われた通り再構築して、筋を通して同じように3分間話さなければならないのです。相手の話を聞きながらノートに必要な点を自分なりの記号も使って書いて、内容を頭の中で全部再生出来るようにして、通訳するのです。知っている分野だと、ノートのメモの内容はシンプルなのですが、知らない分野の通訳だったり、数字が沢山でてくると、必死でずっと何枚もメモを取りっぱなしです。
齋藤
それは通訳の学校でそのような技術を習ったんですか?
塩見
習ったというよりは、自分の脳との兼合いを見つつ何をメモするか決めます。例えば、私は様々な場でご挨拶をする機会があるのですが、今でも挨拶文の一言一句下書きしたことはありません。用意はメモに簡単な要点を書く程度で済ませて、その要点をたどりながら膨らませます。
渡辺
まるで政治家のようですね。今までのお話のなさり方も構築が早いですものね。
塩見
同時通訳の経験が活きていると思います。同時通訳のきっかけは齋藤先生の上手な「シャネルの洋服欲しくない?」という勧誘でしたが、東京オリンピックでは馬術の通訳を担当する経験も出来ました。ICUは水泳と馬術の学生通訳を派遣する担当だったのです。ICUは英語の通訳ができる学生は沢山いるけれどフランス語はなかなかいないから、やってみてはと言われました。 フランス語は実に実に未熟でしたが、馬の検疫の時の通訳、人参や敷藁の注文に始まり、最後には閉会式のすぐ前の馬術の大障害が行われた国立競技場では私の声でフランス語と英語のアナウンスがドンドン、と大きく響きました。こわいでしょ?(笑)
渡辺
数々のチャレンジをクリアなさって、それは大変なことだと思います。同時通訳をなさってから、どのようにして現在のお仕事に就かれたのでしょうか?
塩見
10年間アメリカに住み通訳の仕事をしていました。その間に最初の結婚をして、娘も生まれましたが、離婚して東京に戻ってきたので夏休みだけしか子どもに会えない時期がありました。子供には気の毒なことをしたと思いますが、再婚した父親と関係が悪くなってからは、アメリカ時代の知り合いの大変健全なご夫妻が面倒を見てくださったおかげで、不思議なほど真面目に育ってくれました。娘とはその当時常に離れて暮らしていましたから「何かあったら必ず思い出しなさいね」という合言葉がありました。 今でも別れる時には私が“Remember“ というと”Mina always tries her best.” また“ Remember”というと “Mommy always loves Mina’と未だに互いに合い言葉を言い合っています。娘は私がどこにいても「SOS」を出すとすぐに飛んで来てくれるということを確信していました。そして彼女に何かあった時にはいつも’I am on your side, right or wrong.’と言い聞かせていました。 実は娘はICUの夏の日本語講座を受けました。レベルが高くて結構苦労しましたが、その時一緒だった学生の数人とは今でも仲の良い友達です。姪もスペインでICUの学校案内を友達に見せて貰ったら「Auntieの写真が載っていたので驚いた!」と言っていましたが、帰国してICUを卒業しました。
渡辺
お嬢さんは塩見さんがいつも味方でいてくださる、ということを強く感じていらっしゃるんですね。
サザビース、日本音楽財団。美術・音楽とどちらも趣味から始めたのがきっかけで仕事になりました。けれども、新しいことを始めるのはロケットを一つ発射するくらいエネルギーが必要です。
塩見
1979年にアメリカから戻る際に、サザビーズという歴史的にも有名な美術品の老舗オークション会社の仕事を薦めてくださる方がいらっしゃいました。ロンドンの本社の財務担当の副会長との就職インタビューを受けました。通訳を通してビジネスの知識はあっても実際に運営に携わったことは無かったで、最初に「I know nothing about business.」と申し上げると「That’s good !!」と言われ、続けて美術を専門に勉強したことがなかったので「I know nothing about arts」と申し上げたら、独特のイギリス英語の発音で「That‘s even better」と言われて正式に雇われました。でもちょっと心配されたのか後で「But you DO like arts !!」とも聞かれ、勿論色々な分野の美術に見たり触れたりする機会が子供の頃から多かったですから、答えは「大好きです!」でした。サザビースの仕事を始め社内の沢山の色々な美術分野の世界的に権威ある専門家と一緒に仕事をしましたが、生半可な知識しかないのに「知っている」と言わなくて本当に良かったと思いました。でも素人の私にも「どう思う?」と必ず意見を聞いてくれました。例えば中国陶器の世界的権威者のThompson氏と染付のお皿を見ていて「どう思う?」と聞かれ、「この間見た染付の壺よりコバルトの色が滲んでいるし、色も違う。」と答えると、「そう。その当時中国に質の良いコバルトが入ってこなかったからだ」という具合でした。サザビースでは、頭でっかちになるのではなく、自分の目を信じることを教えてもらいました。同時通訳でそれぞれの分野の最先端の仕事をしておられる専門家の通訳のお手伝いをしていた時も、いかに知らないこと、分からないことが多いかを痛感させられ、「どうしてですか? なぜですか?」と疑問はすぐ教えて頂くことが習慣づいていたことが幸いしました。 まだオークション会社は全く日本に進出していなかったので、最初は電話番でもして オークションのカタログの定期購読を薦めれば良いかなと軽い気持ちで引き受け、ゼロからのスタートでした。それまで日本での古美術の値段は全く公表されていなかったので 売買される美術品の値段が全て公表されるのは古美術の業者の間では「黒船」再到来と話題になりました。西武百貨店と提携してからはニューヨークやロンドンで実際にオークションにかけられる出品物を東京や大阪での展示、さらに浮世絵のオークションや日本最初のワインオークションなど多忙になりました。バブル時代の日本の寵児でもあった美術品のオークションの売上も天井知らずで、セリをお手伝いした絵画の最高値はRenoirの「Moulin de Gallet」 7800万ドル、当時の円換算で手数料も入れ118億円でした。「ひとこえ」100万ドルでセリの値段は上がって行きました。
渡辺
どのようなお仕事をなさるにも全て現場からといいますか、とても実践的でいらしたんですね。
塩見
サザビースの業績はゼロからのスタートとは思えない盛況ぶりで、年間売上は最高で5億ドルほどありました。しかしバブルがはじけ、ビジネスが低迷し始めた新しい環境で再度ビジネスを新しく構築するにはロケットをまた一つ発射するくらいのエネルギーが必要だと思いました。私は当時50歳。でも、「まだロケットが発射できる」と思っていました。その頃本社が老舗のイギリス経営からアメリカ経営に移りました。アメリカ人の社長が来日し、これからの経営の話をした時、それ以前のイギリス経営では戦略も戦術も日本に任せて貰って成功してきましたから、戦略は本社と詳細に練りますが、目標を達成するための細かい戦術は日本側で考えさせてほしいと交渉しました。するとそのアメリカ人の社長は何を思ったか「What you have done, anyone could have done it貴女がこれまでやったことは誰でもできた」と言われました。「If you say what I have done, anyone could have done it then I don’t have to do it again now. もしこれまで私がやってきたことを誰でもできたと言われるのであれば、これからあえて私がやることはない」と答え、その日の5時に13年勤めたサザビーズを辞めました。 1979年に帰国してサザビースの仕事を始めてからも、「ぜひ」と頼まれた同時通訳はいくつか続けていました。その中に日本財団の笹川良一会長がおられ、なんとなく気に入いってくださって、外国にいらっしゃる度に通訳として同行させて頂いていました。サハラ砂漠以南での食糧増産、世界各地のらい病撲滅行脚など、お手伝いしなければと思うプロジェクトが多かったです。サザビーズを辞めてから、その当時日本財団の笹川陽平理事長に「クラシック分野の事業をやりたい。特に音楽家の手が届かなくなった弦楽器を購入して貸与する事業をしたいが、今の財団の中に適任者がいないから来てくれないか。」とのお誘いを受け、当時「日本国民音楽財団」という名前で休眠中の日本財団の下部組織にはいりました。 今春公益財団法人になった「日本音楽財団」です。
渡辺
ずっとお忙しくされていたのですね。日本音楽財団はサザビースを辞められて、すぐだったのですか?
塩見
「忙しい」のと「慌ただしい」とは違うと思いますが、アメリカで仕事をしていた時は「忙しかった」ですが趣味の時間も取れて充実していました。でも日本での仕事は「慌ただしく」仕事を「処理する」と言う感覚です。いまだにそうですが、長期的な事を考えるのは、日本の慌ただしさから解放される海外出張中の時です。  サザビーズを辞めて1年間冷却期間を置きました。その間は時間を掛けてお料理をしたり、読みたかったのに読めなかった本を読んだり、昔からやっていた刺繍をしたり、充電という訳ではなかったですが、ノーマルなゆとりのある生活をして過ごしました。 
渡辺
先ほどおっしゃったように、ロケット発射のための充電期間だったのかもしれませんね。
塩見
通訳はICU卒業の時の副産物として始めましたし、サザビースでの美術の仕事も、日本音楽財団での音楽の仕事も趣味が仕事になりました。「好きだ!」、「嫌いだ!」でも趣味の間は結構無責任に楽しめるのですが、本職になってしまうと残念なことにその分野の物の見方が厳しくなり、欠陥を見るようになります。サザビース時代には美しい美術作品をただ美しいと観るだけでなく「どこか修理されているのではとか、何か欠陥があるのではとか」売買する場合の価値を基準に評価するようになりました。今はそのクリテイカルな目のギヤを緩めて美しいものを美しいものとして見るようにしています。日本音楽財団ではストラデイバリウス等世界的な弦楽器銘器を20挺所有していて、若い有望な演奏家に無償で貸与しています。目の方のギヤは緩めましたが、目下耳のギヤが相当きつくなってきていまして、楽器を貸与している演奏家に対する私の意見は結構厳しいんですよ(笑)。
齋藤
どのようなことをおっしゃるのでしょう?
塩見
そうですね。 財団は今18挺のストラデイヴァリウスを所有して貸与していますが、特にストラデイヴァリウスは楽器自体に鳴ってもらうよう弾かねばなりません。 自分の楽器で弾いている時、どうしても自分の思う音を出したいので「一生懸命」が行き過ぎて「乱暴」になっているままストラデイヴァリウスでも同じような演奏の仕方で音を出そうとする若い演奏家には「どうして楽器をレイプするような弾き方をするの?」「ストラデイヴァリウスは無理強いしても音は出してくれないのよ。Girl friendやBoy friendと同じなの。You HAVE to make friend with the instrument.」 私は楽器の専門家でも音楽の先生でもないですが、愛すべき聴衆の一人として300年も経っている弦楽器をこちらの体まで痛くなるようなガリガリと乱暴に弾いているのは、楽器の悲鳴が聴こえるようで御免です。
齋藤
それはすごい感性ですね!ぼくは知らないこと、特に相手がプロだとなかなかコメントできない。
塩見
私は日本音楽財団の理事長であるのと同時に実は太鼓財団の理事長も兼務しています。太鼓は最近本当に盛んで、太鼓財団のジュニアコンクールでは日本中から4000人以上の18歳未満の若い太鼓打ちが参加してくれます。 ジュニア部門ではジュニアらしさの中でも「元気」を評価していますが、「力一杯」と「力任せ」は違うと再三言っています。「太鼓が壊れるような力任せの打ち方ではなくて、一緒に音をだす友達だと思って鳴らさないといけない」とダメ出ししています。私の言うことは結構きついことが多く素直に受け入れるのは難しいと思うのですが、クラシックの演奏家たちや太鼓打ちに課した宿題が結構時間をかけたあと「出来た!」と言われるのは嬉しいことです。
齋藤
塩見さんは同時通訳の世界から人との関係を上手に築きあげられたと思うんですが、何か秘訣はありましたか?
塩見
同時通訳を使う方々は当時の各分野で日本のトップでいらした方々で男性が殆ど。 そういう優秀な方々の唯一の「弱み」が語学だったし、私は女だったから競争相手ではないということで本当に色々なことを教えて頂きました。でも実はICUを卒業して以来通訳でお世話した方々にも、アメリカから戻って新しい美術オークションの仕事をし始めた時 ご挨拶にも行かなかったし、絵画や古美術品を買って欲しいとお願いに上がったことも勿論一度もありません。関係は引きずらずに「どこかで見守ってくださっているだろう」と頑張ってきました。女性でそれもちょっと珍種というのは日本に新しく入ってきたオークションの広報には役立ちました。会社としては広報費がゼロだったのに殆ど毎週雑誌や週刊誌で取りあげて頂きました。時には会社の名前を書いて貰うという条件で仕事と関係ないファッションや化粧品の記事にも出ましたが。。。 勿論長いおつきあいをさせていただいている方も沢山いらっしゃいますし、お会いすると懐かしい消息を聞けるのは嬉しいことです。
渡辺
塩見さんはご自身の性格をどのように分析されますか?
塩見
「はんさむウーマン」というNHKの番組に最多出演したと言われていました。サザビーズが西武百貨店と提携し始めた頃、社長の堤清二氏が700人ほどの方を招待してくださって「Woman of the Year」のようなパーテイーを開いてくださいました。その時に挨拶してくださった友人の作家 森瑤子さんが「一晩中考えたのだけれど、やっぱり ”はんさむウーマン”が一番似合う」と贈ってくださった称号です。彼女は「女を売らず、されど女らしさは失わずに」という私の日頃のモットーを高く評価してくれました。他人との付き合いでは、相手を傷つけないリミットがどの辺にあるのかを自然に察知し、余り踏みこみません。本当に身近な人達以外は、お互いの領域に踏み込まずに共通の第3の土俵で付き合いたいですね。同時通訳をしていた頃は、様々な交渉の場に立ち会ったので、交渉を活かすか潰すかは私に懸かっているとの思いから夜中に飛び起きることもありました。言葉の選択の中で「言葉の怖さ」は使ってみて始めて分かることだとしみじみ感じます。
「なぜ」と考える野次馬根性をもって、自分を確立していって下さい。
渡辺
では最後になりますが、現在のICUの在学生、未来の受験生へなにかメッセージをお願いします。
塩見
私の若かった頃と今は勿論違いがあると思うのですが、私が入った頃のICUの女子寮の本棚にはたくさん本が詰まっていて、みんな化粧気もなく本当に勉強やクラブ活動に時間を目一杯使っていました。2年位後から本棚に化粧品が並ぶようになりました。今は当たり前のようにエアコンの設備がありますが、その当時ICUでは図書館のみにエアコンがあり それはそこで勉強する学生のためではなく、所蔵されている本のためと説明されていました。今は情報社会になってたくさんの既成の情報が溢れているためか、「自分で考える」ことをしなくなったと思います。既成の答えのない問題解決には「自分で考える」ことが必要です。自分の目で観、自分の耳で聴き、自分で考え、考えていることを関連付けたり、裏付けするという行為が自然に身につくと自分の行動に責任が持てます。
渡辺
Brainstormingって言うくらいですものね。
塩見
自由で、自分で「考える」環境があったことはICUの大変良かった面だと思っています。コンピューターが普及し、マスメディアも情報氾濫で、既成の情報を簡単にいつでも入手できるので、必要になれば後で調べれば良いからと「なぜ」という新しいことや不思議なことに感動する感覚が鈍くなっていると思います。 例えば失敗したとき、既成の答えはありませんから、どうやって立ち直ろうかと自分に自答することが大切です。私は小学校低学年の頃から親元を離れ寄宿舎生活をしていましたから、何か問題を抱えた時、必然的に親に頼らず自分で考えて問題解決を一人でするようになりました。しかし最適な答えを出すには照らし合わせる事例があればあるほど答えの選択の余地がでてきます。また 落ち込む前に紙に「Count your blessings. 自分の恵まれている点を照れずに書き出してみなさい」と娘にも言っています。「頭も悪くない」「美貌ではないが結構見られる姿形」「カラオケでは褒められる」。。。何でも良いのです。しっかり考えて沢山書きだします。きっと思ったより長い「恵まれている」リストができるでしょう。 気を取り直して抱えた問題を「野次馬根性で身に付けた」色々な情報や可能性に照らし合わせて一生懸命考えると、その現状で一番適した解決方法をえることができるでしょう。
齋藤
大切なのは野次馬根性ですね!

プロフィール

塩見和子(しおみかずこ)
1965年、国際基督教大学在学中より通訳として活躍。卒業後、米国を中心に、国務省、カナダ政府と契約して、政府交渉及び国際会議などの同時通訳を務めた。1979年に帰国して、世界最大・最古のオークション会社サザビースの日本代表に就任。1989年にはサザビース・ジャパンの社長となり、1992年に退社後、1995年から日本音楽財団の理事長に就任。1997年からは日本太鼓財団の理事長なども務めている。