インタビュー内容

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第40回 2013年10月28日
ハーバード・ビジネス・スクール教授 竹内弘高

有馬利男
プロフィール
1969年、国際基督教大学卒業。71年に米カリフォルニア大学バークレー校で経営学修士(MBA)、77年に博士号を取得。ハーバード・ビジネス・スクール、一橋大学商学部の助教授を経て、87年、一橋大学教授に就任。一橋大学大学院国際企業戦略研究科の立ち上げに尽力し、10年までの12年間、研究科長を務めた。一橋大学名誉教授で、2010年から米ハーバード・ビジネス・スクール教授を務める。
ボストンへ呼び戻してくれたのはマイケル・ポーター教授です。彼とは今同じ授業をチーム・ティーチングしているし、いろいろとお膳立てもやってもらいました。
渡辺
お忙しいなか、貴重なお時間を割いてくださってありがとうございます。いつ竹内先生に登場していただけるかと、とても楽しみにしていました。
齋藤
いやーほんとタイミングがよかったですね。
渡辺
ボストンに完全にお移りになって何年になりますか?
竹内
2010年の3月31日に一橋を終えて7月1日からハーバードにいってもう3年半です。早いね〜。
渡辺
今の生活には、もう慣れられました?
竹内
良いことにボストンは子どもたちが育ったところで、そこに彼らにとって拠点となるものがないといかんと思って、コンドミニアムをキープしていたんですよ。大学まで歩いてすぐいけるところに。それまで学生とか学生の知人とかに長年貸してたんですけど。アメリカにはジャパン・ソサエティというのがいくつかあるんです。ボストンにはその最も古いソサエティがあって、そこのプレジデントも住んでいたりしました。彼も追い出されがっかりしていましたけどね(笑)。それで家もあるし、向こうへ行くうえで特に困ることはそんなになかったかな。あと、ボストンへ呼び戻してくれたのはマイケル・ポーター教授です。彼とは今同じ授業をチーム・ティーチングしているし、いろいろとお膳立てもやってもらいました。
齋藤
ポーターさんといつお知り合いになられたんですか?
竹内
1976年にはじめてハーバードに行ったときに、当時はファカルティ用の建物がちらばっていたんですけど、その中に学生寮を改装した建物があって、そこのオフィスで彼と隣同士だったんです。セクレタリーを共有していたんです。彼はストラテジー(戦略)のエリアで2年前に入ってきていて、僕は当時マーケティングの分野で新米でした。そこで7年間一緒に過ごしたんです。その間に、海外に一緒に教えにいったりして、けっこう馬があったんですよ。それで、彼の理論は戦略的ポジショニングでしょ。これぞ、ほんとのポジショニングだと思いませんか。僕は最初3年で日本に帰りますって生意気なことを言ってたんだけど、最終的には7年いました。それで、僕が日本に帰るという時にポーター教授から「ヒロ、そのマーケティングとか理論的なフレームワークのないものなんてやめて、もっとインパクトのあることやれよ」と言われ、戦略に移ったんですよ。おかげで、二人で安倍首相に対して日本の競争戦略について提案する機会にも恵まれました。この12月5日のことです。
渡辺
ハーバード大学とビジネススクールは同じ場所にあるんですか?
竹内
チャールズ川を挟んで、ボストンに向いて思想的にも地理的にも左なのがケンブリッジ。ここにハーバード大学があります。それで、思想的にも地理的にも右なのがビジネススクール。右にはビジネススクールしかないんですよ。あと、スポーツ施設があります。だから、チャールズ側が完全に大学とビジネススクールを分けていて、今のDeanになるまで交流はほとんどなかったですね。お互い ”those guys across the river”って呼んでましたよ。(笑)今度のDeanがそれを融合しようといってますけどね。
渡辺
近年、留学する日本の学生が減っているというデータを見ますが、ハーバードに行く留学生も少なくなっているかと。実際、どうなのでしょう?
竹内
実は今学部に来る若い子はどんどん増えているんですよ。4年生は1人だけなんですけど、3年生は4人ぐらい、2年生は8人、1年生も8人ぐらい。増えてはいるんです。これは小林亮介君という学部の5年生(インターンシップを1年間したので)がH-LABを創設したからです。Harvard Liberal Arts beyond Bordersというプログラムで、ハーバードの学部生が日本へ行き、日本の高校生に対してマイケル・サンデル教授流の白熱教室を合宿形式で一週間行うプログラムです。日本の高校生は結果として「ああいうお姉さん、お兄さんになりたい」と思い、ハーバードを含むアメリカの大学を受験し始めているのです。
ICUに決めたきっかけは、高校の時の通訳活動。そこでICUの先輩と出会って、「ああいうお姉さん、お兄さんになりたい」と思ったんですよ!
齋藤
竹内さんはインターナショナルスクール出身なんですよね。他の記事を読ませていただいたんですけど、ご両親は海外の大学に行けといっていたのにICUに入学したということですよね。それはどうしてICUだったんですか?
竹内
今、考えてみるとセレンディピティ(偶然)ですね。たまたま高校の時、1964年に東京オリンピックがあったんですよ。 それで僕はその時に年をごまかして通訳の応募したんです。 当時、僕は高校3年の17歳だったんですけど、公募は18歳からでした。でもこんな機会二度とないと思って応募したんです。大学ごとに各種目を担当するんですけど、ICUは馬術の種目の通訳でした。そこには全員で20人ぐらいの通訳がいて、2ヶ月一緒に生活していたんですけど、当時の僕はとても衝撃を受けました。彼らをみて「ああいうお姉さんお兄さんになりたい」と思ったんですよ!
渡辺
なるほど〜!そのICU生は、どんな方々だったんですか?
竹内
彼らはね、帰国子女ではないんですけど、インターナショナル・スクールにいった僕と同じぐらい英語が話せるわけですよ。それは驚きでした。 馬術は軽井沢でもやっていて、そこのホテルに滞在中に先輩たちと話していると、その内容がこれまた驚きなんですよ!ハイデガーやニーチェがどうとか初めて聞くような内容で、驚きと憧れを抱きました。ひとりひとりが個性をもっているわけですよ。帰国子女もいれば全くの純ジャパもいる中で、話している内容のレベルの高さに本当に驚きでした。そこで、もうICUしか受けないと思ったんですよ。12年間インタナショナル・スクールの学費を払っていた親父は、僕が当然アメリカの大学に行くだろうと思ってましたけど、僕はアメリカの大学には願書を1通も出さずにICU1本ですよ!親父にはすごく怒られましたね(笑)。
渡辺
竹内さんがインターナショナル・スクールに通われたのはお父様の方針ということですが、お父様はどのような方だったのですか?
竹内
親父は商売人でした。装身具のデザインをやっていた人です。親父がデザインをして職人につくらせて、自分の店を持ってたんですよ。兄貴もデザイナーだから、血筋的にはアーティステックなところがあるんですよ。その親父がハイカラ思考でね、「これからは英語や」ということで当時唯一英語で授業をしていたセント・ジョセフに通うようになったんです。
渡辺
セント・ジョセフでいらしたんですよね!私は横浜雙葉で小中高だったので、お隣りなんです。
竹内
え、そうなの!憧れの雙葉だね〜!
渡辺
いえいえ。サン・モールとセント・ジョセフのカップルは本当にかっこ良くて!
竹内
言わせてもらうとね、私の初恋の人から高校3年まで何人かつき合ったけれど、全員雙葉の生徒でした!高校では1年半つき合った人がいるんです。彼女は湘南に住んでいてね、その人のお父さんは実業家だったんですよ。それでお母さんが僕にその事業を継いでもらいたかったみたいで、僕の18歳の誕生日にお母さんが「たけ、ワーゲンがいい?ターラスがいい?」って聞いてきたんです。つまりね、車をプレゼントでくれるということだったんです!
齋藤
その頃めちゃくちゃかっこ良かったんですね!
竹内
でもそれは結局お断りをしましたけどね。僕は三鷹にあるICUに行くからと訳分からないこと言って(笑)。でも僕は彼女に「次に付き合う人と結婚します」って約束したんです。それでその後出会ったのがワイフの信子(ノブ)だから。本当に約束は守ったんです(笑)。
渡辺
信子さんとはICUで出会われたんですね?
竹内
うん、入学して初日に出会ったんですよ。セント・ジョセフからは12人ICUを受けて僕だけ受かったんですよ。落ちた仲間はみんな上智に行きました。当時ICUに9月入学したクラスは30人いて、そのうち25人が女性で5人が男性でした。その中にノブもいたんです。実を言うと、最初にデートしていたのは、ノブではなくて、ハワイからきた16歳の女の子(笑)!飛び級でICUに入った子でね。でもこの子とずっといたらハマっちゃうなと思って身を引きました。僕はクリスチャンだから、自分の理性というか、ヤバそうだなと思ったらそこでブレーキをかけることころがあります。
渡辺
クリスチャンということは幼児洗礼を受けていらしたんですか?
竹内
14歳の時に自分の意志で洗礼を受けようと決めて15歳で実際に洗礼を受けました。最初は親父にすごく怒られましたけど。でも最終的には、「お前みたいな“はちゃめちゃ”なやつはキリスト教でもいいかもしれん」と言われて(笑)。
渡辺
そうだったのですね。なぜご自分の意志で受けようと思われたんですか?
竹内
中高がカトリックのインターナショナル・スクールで、高校3年の時には神父にならないかといわれたくらい当時はホーリーだったんですよ(笑)。その頃は悪ガキでもあったんですけど、ホーリーなところも結構ありましたね。
渡辺
お父様からみても“はちゃめちゃ”だったのにホーリーでもあったというのは、どうゆうことなんでしょうか?(笑)
竹内
親父は僕が悪ガキだったことは知ってるけど、別の面ではやっぱりホーリーなところもあると思っていたみたいです。やっぱり人間は両方の側面を持っているという感じですかね。親父には、「お前は、悪党になったら一流の悪党になれる」と言われたんですよ(笑)。それと同時に、「でも、そっちの道には進むな!」とも言われました。ルパンになるかホームズになるかってね。結局、親父は「だめっと言ってもお前は教会行くし、まあ実験的にやってみよう」という感じでした。それで15歳の時に洗礼を受けることを許されたのです。
渡辺
その時の洗礼がICUに入ってからの理性というか、竹内さんの倫理観につながっているのですね。
齋藤
大学時代はどうゆう生活を送っていたんですか?
竹内
大学時代はさっきの続きになりますが、クリスマス・パーティーの時にノブを誘ったんですよ。僕は青山で彼女は原宿に住んでたんですよ。そこで帰りが一緒でね。仲が良かったんです。
渡辺
生粋の江戸っ子でいらっしゃる。
竹内
そうだね〜。(笑)これもある意味ポジショニングでね、通学が毎日一緒で授業も一緒でした。みんながフレマンとってるときに僕と彼女は一緒にスペ・ジャパをとってたんですよ。
渡辺
信子さんと話していらっしゃるうちにこの人だ!と思われたんですね?
竹内
彼女は僕にないものを持っているんです。 彼女はとても社交的な人で、僕に対しては「あまりにも社交性が乏しい」って心配してるみたいです。僕は自分ではわりと社交的だと思うんですけど、彼女に言わせてみたらそうでもない、引っ込み思案なんだと。彼女の社交性は本当にすごい。だから彼女は日本に帰ってきたら飲み友達と会うために1ヶ月は必要なんだといつも言ってます(笑)。 あと、彼女と僕はバックグラウンドが違っていて、うちは商人で、彼女の父親は外務省だったんです。学生の頃は、将来僕も外交官がいいかなと思ってたんですよ。それで彼女の家に出入りしていたら、彼女の家族に「あなたの性格では外交官は絶対務まりません」と言われました。そのときご家族の方は僕の性格を知っていてか「あなたの思っているようなところではございません」と言われ、外務省はとてもきっちりしていてルールもたくさんあるから、あなたには向いてないと。
渡辺
竹内さんはきっと素晴らしい外交官になられたんじゃないかと思いますけれど…型破りではあったでしょうが。でも、きっとその言葉は竹内さんの良さが最大限、活かせないという意味だったんでしょうね。
竹内
でも彼女と出会ったのは僕の人生でとても大きいですね。卒業して4年目で結婚しました。留学中は遠距離恋愛をしてました。留学中は3日に1回は彼女に手紙を書いていて、彼女の父親には「こんなにまめなやつは将来出世する」と思われたみたいで結婚も認めてもらえました。
留学の目的はMBA。それもマッキンゼーに入るため。しかし、最終的には学者の道へ。上司に「お前が俺の夢をかなえてくれ」といわれ、もうこの道しかないと思い博士課程に入ったんですよ。
齋藤
学者になられたきっかけはなんだったんですか?
竹内
これは大間違いだったかも(笑)。マッキンゼーのおかげと言ってもいいかもしれない。でも、僕は今でも自分は学者だと思ってないですよ。
渡辺
いやいや歴然と学者でいらっしゃるのですが、ここまでスタイリッシュで“はちゃめちゃ”という点から言うと、確かに学者には見えないという気も。
竹内
もともと留学はすると親父と約束していたこともあって、 ICU在学中にバークレーに留学しました。当時学園紛争があって、その年に留学に応募したのは僕だけだったんですよ。それで運良く留学も行けることになりました。当時ICUの留学先にバークレーはなかったんですけど、バークレーに行っていいですかと聞いたら自分でやるならいいよと言われ、なんとか留学することができました。 その後、大学4年の時にマッキンゼーの東京オフィスがオープンというのが新聞にでたんですよ。それでおもしろそうだと思って手紙を書き、それで返事がきて、「うちはMBAを持ってない人はとりません」といわれて、じゃあMBAとってやるかとドライブがかかったんですよ。ICU卒業後は2年間マッキャン・エリクソン博報堂で働いて、その後バークレーに2回目の留学。目的はMBA、それもマッキンゼーに入るため。あとは、マスターとるまでは結婚は認めないと親父に言われていたので、そのためでもありました。それで、1年3ヶ月でMBAがとれちゃったんですよ。向こうにいる間、週2、3回はサンフランシスコにあるマッキャンでアルバイトしていました。それだけアルバイトをしながらMBAもやって、どれだけいい加減だったかと(笑)。勉強が1年終わったときに、マッキンゼーに、「あと3ヶ月でMBAとります」と2度目の手紙を書いたんですけど、”you are too young”って言われて断られたんです。それが2回目のお断り。そのときに野中郁次郎さんには大変お世話になりました。というのも、MBAの勉強をしている当時は日本人が2人しかいなかった。それで、奥様の幸子さんにはカレーをつくってもらったり、餃子をつくってもらったりしたんですよ。それが本当においしくてね。彼のうちにはよく出入りしていました。それで野中さんに「俺の後釜で博士課程を受けろ」と言われました。その時ちょうどマッキンゼーから2回目のお断りがあったし、マッキャンでニューヨークで働くという選択肢もあったんですけど、アメリカ人の上司にも「お前は学問の道に進め」と言われたんですよ。彼はもともと学者肌の人だったんですけど経済的な理由でその道に進めなかった人で、「お前が俺の夢をかなえてくれ」と言われたんです。それでいろいろ考えて、この道しかないと思い、博士課程に入ったんですよ。彼には感謝しています。
自分だけの判断だと変な方向に行ってしまうかもしれないですけど、いつもそばにグッド・メンターがいたんです。 周囲には本当に感謝しています。
齋藤
竹内さんは何人兄弟だったんですか?
竹内
3人兄弟です。兄、姉と末っ子の僕。兄貴はアーティストで、姉貴が一番賢い。親父が亡くなったとき、姉が僕に対して「もうやめていいのよ」って言ってくれたんですよ。姉貴は僕の限界を知ってたんですね。学者をやめていいよと言ってくれました。実際、僕にとって親父の存在がエンジンになっている部分もあったんですけど、ずっとそれで無理しているんだと姉貴は思っていたみたいですね。
齋藤
竹内さんのその社交的で明るくて話し上手で、賢いところもしっかりあるというのはどこからきているんですか?
竹内
昔から計算高かったかも(笑)。天秤にかけるくせがありましたね。進路を決めるときも常に天秤にかけてかけひきする性格はあったかなと。マッキンゼーが3度目の正直でオファーをくれたときに、ハーバードからのオファーと天秤にかけました。マッキンゼーに対しては、「あなたのところには行かないで3年間ハーバード行ったらもう一度雇ってくれますか」と。ハーバードには、「3年間マッキンゼーに行ったらその後雇ってくれますか」と聞きました。マッキンゼーはyesと言って、ハーバードはnoと言いました。これはもうノー・ブレーナー。こんな感じで常に天秤にかけて考える癖はありますね。あとは、自分だけの判断だと変な方向に行ってしまうかもしれないですけど、いつもそばにグッド・メンターがいたんですよ。ノブとか先輩とか。小林陽太郎さんにはお世話になりましたね。マッキャンで働いているときに、小林さんと出会う機会がありまして、「これからMBAとりにいきます」と言っていろいろアドバイスをもらったんですよ。それからかわいがってもらうようになって、今でも大事な決断をする時に相談にいく3人のうちの1人が陽太郎さんですね。それから、麻生雪子さんのおかげで麻生家に出入りすることになったんですよ。1964年東京オリンピックの時、僕以外にいた唯一のnon-ICU通訳ですが、そこに僕と同い年の麻生泰という、麻生太郎さんの弟さんがいるんですけど、彼とすごく仲良くなりました。彼とは高校時代からのつき合いだし、ものすごく良いアドバイスをしてくれるわけですよ。例えば、「ひろ、上ばっかりみちゃだめよ」とかね。そういう意味では、僕は周りの人には助けられてますね。
渡辺
重要な決断をなさる時には、人生のキーパーソンがいらっしゃるということですよね。
竹内
そうですね。周りの方々には本当に感謝しています。ボストンからこっちに帰ってきたときは大前研一さんに、「一橋の給料で食えるわけないよ。もう3度目の正直でマッキンゼーにこい」と、ものすごくアトラクティブなオファーをいただいたんですけど、当時防衛大学校にいた野中さんに会いに行って相談したら、「一に一橋、二に一橋、三、四がなくても五に一橋だ」と言われました。「あ、そうですか。そんなに一橋いいんですか」と言ったら、「ヒロにはそこしかない」と言われましたね。それで、後でわかったんですけど、その時、野中さんは一橋からオファーをもらっていたんですよ。でも日本の大学の人事って絶対に事前に他人に言っちゃだめなんですよね。だから「俺も行くからお前もついてこい」とは言えなかったんですね。それで結局一橋に行きました。
渡辺
そうだったんですね。普通なかなか誰に相談していいかわからなかったり、相談できる相手やタイミングを計れなかったりすることも多い気がします。竹内さんの場合は、きちっと頼るべき方に頼って、そこがぶれないというのがすごいです。
竹内
でもノブは「そうやって相談するけど、どうせ最初から決めているんでしょう。わかってるわよ。」と言いますけどね。(笑)
齋藤
勉強とか遊び以外などではどのように自分を豊かにしてたんですか?
竹内
ぼくは中高サッカー部でICUでもサッカーやってました。足腰が鍛えられましたね。5歳からスキーもやってましたけど、その後いろんなスポーツをやってきてある程度できたのはサッカーのおかげかな。
渡辺
竹内さんの姿勢が良さとかスーツがお似合いになるのはスポーツをさなってて鍛えていらっしゃるからなんですね。
竹内
野球とかテニスとかもやってきましたよ。それで、今でもスキーは年に2、3回。テニスも年に4.5回。野球もOBチームで年2回、フットサルも年4.5回。ゴルフだけは年20回。イヤーラウンドで身体は動かしています。足腰は鍛えられてますから。最近ではトレンドマイクロという会社でオリンピックデイというスポーツイベントが台北であったんです。それに野中さんご夫妻と参加したんですけど、そのときにスティーブ・チャンというそこの会長に、「ヒロ、テニスやってたよな!開会式で僕と軽く打とう!」と言われて、ラリーみたいなものかと思ったから「いいですよ〜」と言ったらマッチだったんですよ!でもそこで僕も負けず嫌いだから頑張っちゃいました。ノブには後で「開会式で会長を負かしてどうするの」って怒られました。(笑)
大学は人格形成の場。ICUほど人格形成の場として良いところはないんじゃないかと思っています。4年間自己研鑽するにはとても良い環境だと思います。
渡辺
最後になりますが、ICUの学生、これからICUを目指そうを思っている学生のみなさんにメッセージをお願いします。
竹内
僕のメッセージはすごくシンプル。今振り返って何が今の僕をつくっているかというと間違いなくICUです。69年に卒業して時間が経っているんですが、プライベートな付き合いをしているのは半分以上はICUの仲間です。大学は学びの場でもあるんですけど、人格形成の場でもあると思うんですよ。そうやって考えるとICUは人格形成の場としてこんな良いところはないんじゃないかと思っています。メンタルな場も提供してくれますが、馬鹿山だとか、当時はゴルフ場というフィジカルな場も多くある。あと、上下の関係のゆるさのおかげで人が自由にコネクトするような場を提供していると思います。卒業生の会とかもあるし、フォーラム21みたいなビジネスのつながりをつくる場だとか、海外にも同窓会があったりとか、そうゆう人と人とのインターアクションが非常にすぐれていると思う。こうゆうのは若い頃はどうでもいいかもしれないけど、時間が経ってみるとそれが一番の財産かなと。ICUには場をつくる仕組みがあるんですよ。セクションとかコンボケ、部活や寮も、縦横斜めとリンクする場を与えてくれてる。それも海外とのつながりもあるし。今いろんな大学がインターナショナルをアピールしてるけど、 ICUは最初からインターナショナルという環境でもう60年です。元祖グローバルですよ!僕自身、このICUでの経験が今の人格形成に非常に大きな影響を与えていますね。あと、ICUのUの部分だけど、文系理系なんて分かれないでリベラルアーツであるという、欧米と競っても負けないプログラムを持っているんですよ。4年間自己研鑽するにはとても良い環境だと思います。

プロフィール

竹内 弘高(たけうち ひろたか)
1969年、国際基督教大学卒業。71年に米カリフォルニア大学バークレー校で経営学修士(MBA)、77年に博士号を取得。ハーバード・ビジネス・スクール、一橋大学商学部の助教授を経て、87年、一橋大学教授に就任。一橋大学大学院国際企業戦略研究科の立ち上げに尽力し、10年までの12年間、研究科長を務めた。一橋大学名誉教授で、2010年から米ハーバード・ビジネス・スクール教授を務める。専門はマーケティング・企業戦略など多岐にわたる。