INTERVIEWS

第18回 池上 清子

国連人口基金東京事務所所長

プロフィール

池上 清子(いけがみ きよこ)
国際基督教大学大学院で行政学修士号を取得後、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)定住促進担当、国連本部人事局行政官、ジョイセフ(JOICFP)、国際家族計画連盟(IPPF)を経て、2002年9月より国連人口基金東京事務所長。開発途上国での女性の健康、性と生殖に関する健康/権利(SRH/RR)、人口と開発、HIV/エイズなど諸問題に取り組む。外務省ODA評価有識者会議委員、内閣官房長官諮問機関アフガニスタンの女性支援に関する懇談会メンバーなどを務める。

 

齋藤
今まで「今を輝く同窓生たち」のインタビューシリーズで、国際機関に務めている方は初めてで、今日は池上さんにお話を伺えるのをとても楽しみにしてきたんです。
渡辺
群れないICUは素敵なところではあるものの、「先輩方には素晴らしい人がたくさんいるのに、どのような人がいるかということを知らない」、と強く思ったことがあり、ICU生からのつながりのきっかけになればと思い、齋藤さんとこの企画を始めました!今日はどうぞ宜しくお願いいたします。
池上
こちらこそ、どうぞよろしくお願いします。
齋藤
能力のある人がいるのに、自分が何をしたいのかも分からずに、ありとあらゆる良さそうな会社を漫然と受ける状況だともったいないと考えているんです。今回のインタビューでは、ご活躍されている卒業生の、「なぜそのように感じたのか」、「何を思ったのか」ということを知ってもらうことによって、 ICUを卒業した人の生き方を真似しようということを考えるきっかけになればと思っているんですよ。
国連人口基金は、地球的規模の人口問題を、単なる数の問題ではなく人間の尊厳の問題として取り組んでいる国連機関です。
渡辺
池上さんは、国連人口基金(UNFPA)ではどのような仕事をなさっているのかというところから聞かせていただけますか?
池上
国連人口基金は国連機関の1つで、地球的規模の人口問題を、単なる数の問題ではなく人間の尊厳の問題として取り組んでいる国連機関です。特に開発途上国の人口問題に対し、各国政府やNGOとともに取り組み、貧困削減や持続可能な開発、女性の健康、また国勢調査などの支援活動などを行っています。本部はNYにあり、158の国・地域でプログラムを実施して活動していますが、実はついこの10年前までは開発途上国にしか事務所がなかったのです。でも、資金拠出国に対して「UNFPAの活動や活動理念、ODAを通して税金が国際援助にどのように使われるかれているかというアカウンタビリティ、つまり説明責任がある」という声がこの10年程の間に高まり、新たにコペンハーゲン、ブリュッセル、ワシントンDC、そして東京にも事務所が設立されました。日本はアジアで唯一、支援額が多い国、90年代はずっとトップドナー国でした。そのため、日本にもきちんと活動方針を伝えていくべきだという考えで新設されたのです。 *コペンハーゲンに作られたのは、北欧諸国が人口問題・女性問題への支援が大きいためであり、ブリュッセルはEU対策として、またニューヨークにUNFPAの本部はありますが、アメリカの国内政治にも対応するために連邦議会のあるワシントンDCに事務所が作られました。
齋藤
そうなのですか、ところで日本はなぜトップドナーになり得たのでしょうね?
池上
2つ大きな理由があります。まず1つ目はUNFPAを支援する仕組みを確立できたからです。自民党議員が会長で、民主党議員が副会長という国際人口問題議員懇談会という国会議員の団体があり、そこが人口問題を重要視していたため、非常に協力的で後押しが強かったのです。また、もう一つの理由は、この分野が日本独自の経験を活かせる領域だったためです。第二次世界大戦後、日本は妊産婦死亡率や乳幼児死亡率が高い時期がありましたが、それを解決してきたノウハウがあったのです。なぜ解決できたかというと、日本経済が急激に発展したということもあるのですが、日本には当時「愛育班活動」というような自発的な地域参加型の活動が盛んでした。第二次世界大戦後、母と子の健康を守るために、各村からボランティアが1名選ばれ、トレーニングを受け、妊産婦の健康状態の管理やケア、予防接種や家族計画の啓発活動など、村の住民の健康を見守る世話人のような役割を果たしていました。これは村の「名誉職」だったようです。
齋藤
なるほど、昔、日本には町内会など、お互いに面倒を見たり協力をしていた時期がありましたよね。池上さんが行かれた開発途上国にも日本のノウハウが利用されているということでしょうか。
池上
そうですね。日本の経験を途上国に持って行って、保健ボランティアの形で定着した部分もありますが、もともと開発途上国には「子どもはコミュニティで育てる」という共助の考え方があるのです。 ただ、現在問題になっているのは、貧しい農村から都市への人口移動です。人口が集中する都市では、HIV感染率が高く、特にサハラ以南のアフリカが突出しています。途上国の場合、HIVに感染すると大半が2〜3年で亡くなります。でも、HIVに感染した母親から生まれた子どもの約80%は感染していないものの、親は先に死んでしまうために、結果的にその子どもたちはストリートチルドレンとなってしまいます。国連やNGOはそのような都市の孤児達を、もともと親が暮らしていた田舎のおじいさん、おばあさん、おじさん、おばさんなどの親戚の元に帰しているのです。しかし今、その方法も限界に達し、村にエイズ孤児が溢れているのが現状です。
渡辺
伺っていて、開発途上国の過酷な状況はニュースなどを通して何となく頭では分かった気になっている・烽フの、生命の危機に晒されていない住みやすい世界に住んでいる私のような人間は、実際のところを正確には理解できていないのだと改めて思います。
「良いことしてそう」という漠然としたイメージだけで国連に入るのは、私はお薦めしません。自分のやりたいことが出来る場所を探すことがとても重要です。
渡辺
国連の中で、ご自分が所属する機関に関する希望は出せるのでしょうか? 希望が出せる場合、どのようになさったのでしょうか?
池上
国連機関にはそれぞれミッションがあり、その「何をするか」に対してその人が共感出来るかどうかが大事になります。例えば「どの地域に何人子どもがいて何人分のワクチンが必要なのか」という開発計画を進めていくためには、人口調査に基づくデータが必要となってきます。そういう数字を扱う技術を持っているからUNFPAに入りたいという人もいます。しかし、何よりも重要なのは、自分のやりたいことが出来る機関を探すことだと私は思います。ただ「国連は良いことしてそう」という漠然としたイメージだけで国連に入るのは、私はお薦めしません。
渡辺
池上さんとお話していると「国連人口基金についてもっと知ってもらいたい!」というモチベーションがビシビシ伝わってきます。ご自身が本当にやりたいことを今やっていらっしゃるのですね。
池上
そうですね、今ハッピーです!・・・が、疲れますね(笑)。
学部時代は遊びました。でも、遊んだことは無駄になっていません。 ただ、私の経験から言えるのは、大学時代に将来の選択肢を広げておくことは本当に大事だということです。
池上
学部の時は勉強もせずに本当に遊んでいました(笑)。でも、遊んだことは無駄にはなっていないと思います。 私は、卒業してから大学の教授の紹介で出版社に勤めました。でも入社後、「きっと何年やっても同じことをしていくだろう」と感じたのです。「10年後、20年後も自分は同じことをやっていてハッピーなのか?」と・・・。 それで教授に大学院に入ることを相談しました。教授には「ちゃんと勉強しなさい!」と言われ、ICUの大学院を受験しました。大学院を受ける段階になってわかったのですが、当時ICUの院を受験するためには第二外国語をとっていることが条件で、私は第二外国語なんてとっていなかったのです。なので、入学試験も受けさせてもらえない状態だったため、嘆願書を書いてやっと認めてもらいました(笑)。その後大学院に通いながら、6歳下の新入生達とフランス語をとらなければなりませんでしたけれど(笑)。いかに大学院進学を視野に入れていなかったのか、よく分かりますね。 そんな私の経験から言えるのは、選択肢をいつも広げられるようにしておくことはとても大事だということです。学部の時は将来のことを考えもせずに過ごしていましたし、まして、大学院進学なんて考えていなかったのですね。ICUだから嘆願書を書いて許されましたが、他の大学なら出来なかったかもしれません。 大学院に行けるような準備をしておくのと同様に、自分の将来に向けての選択肢を広げることはとても大事なことだと思います。
たまたま知り合いからUNHCRのお誘いをもらったり、その後にJPOというシステムを通してNYにある国連本部の人事局からお誘いをもらいました。私はラッキーだったと思います。
齋藤
ICUの大学院を卒業された後、どこを志望されたのですか?
池上
偶然、私の友人が国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)に勤務していたのですが、その友人が結婚をすることになり「後任に来ませんか?」とお誘いを頂いたのです。それで、面接を受けて入りました。そして、UNHCRの仕事の途中に、JPO(Junior Professional Officer)というシステムを通じてNYの国連本部人事局からお誘いを頂いたのです。JPOとは若い人を2年間国連機関に派遣し、その間に能力を評価され、職員として採用されて仕事ができるようにするシステムです。結局、これはお断りしたのですが、1年後、もう一度空席 ポストの面接というチャンスがありました。修士論文を書いている時に国連用の履歴書を外務省の国際機関人事センターに提出していたため、それがNYに送られて、私の名前が登録されていたのです。その中から「女性である」、「日本人である」、という二つの理由で、応募してから2年を経て、国連本部人事局の行政官に選ばれました。800人の応募の中から3人残り、ある日突然「東京にいるから来い」と人事局長に直接面接されました。あまりに突然だったので、電話を頂いたときは “Who are you?” と聞いてしまいました(笑)。
齋藤
選考には池上さんが書かれた修士論文の内容は関係なかったのですか?
池上
ありました。私は論文で、国連の職員の労働条件が一般的に良いものなのか悪いものなのかを調べるために、国連の行政裁判所の判決を読み、それから何が問題で、どういう改善が必要なのか、ということを書いたのです。国連職員が、労働者としてどのくらい人権が保護されているのか、ということについてです。私が応募したポストというのが国連本部の人事局で、そこの主な仕事の一つは、国連の職員協会への対応でした。もう一つは、国連職員から苦情やクレームが来た時に対応するために、事務総長に代わって返事のドラフトを書くことでした。なので、修士論文で国連の行政裁判所の判決を読んでいたことは、このポストに就く際にはすごくプラスだったのです。
渡辺
国連の入り口はインタビューだけなのですか?
池上
国連の入り方は大きく3つあります。一番一般的なのは、空席のポストに向けてインタビューを受ける方法。もう一つはJPOのシステムを利用して、2年もしくは3年間、国連で働く間に空席を見つける方法。もう一つはCompetitive Examinationと呼ばれる競争試験。この三番目の方法は、拠出の割に職員数が少ないという国を対象とした方法で、指定したポストに応募者を募集し、試験と面接を行うやり方です。日本はその「お金を出している割には職員が少ない」という“Under represented country”なのす。日本人にはもっと国連に入ってもらいたいですね!
国連に向いている人は、自分の意見をはっきりと言える自己主張型、つまり自分の「軸」を持っている必要があります。国連の上位ポストにいく人は、よく人の話を聞く人が多いですね。あと、最後の一つは、組織がやろうとしているコミットメントに対して「やりたい!」と共感することです。
齋藤
国連に向いている人ってどんな人ですか?
池上
まず一つは、国際社会では常に自分の意見を求められるので、自分の意見をはっきり持って、はっきりと言える自己主張型ではないかと思います。そのためには、自分の「軸」を持っている必要がありますね。今思うと、ICUの教育は日本社会向けというよりも、国際社会にピッタリしているのではないかと思います。国連では各機関のミッションの枠内であれば、そして自分の軸を持って主張すれば、何を言っても頭を叩かれることはありません。逆に、主張しないとやっていけないくらいです。また、国連の上位ポストにいく人を見ていると、自己主張型ではあるけど、とても良く人の話を聞いているなと感じますね。そしてもう一つ大切なことは、その組織が持つミッションに関し、自分が「やりたい!」と思えるかどうか、そういう共感を持てるかどうかがとても重要です。
渡辺
池上さんは、大学院に入られる前から、国連でなくとも似たような仕事をしたいと思っていらっしゃったのですか?
池上
漠然とは思っていました。人生一回しかないじゃないですか。どうせ生きるなら、やりたいことをしようと思いました。私は28歳のときに父親を交通事故であっという間に亡くしたのです。大学院を卒業して、UNHCRで仕事を始めたところで、やっと親孝行が出来るという時でした。今まで全部お金を出してもらって、勝手なことをさせてもらってきて・・・。朝、父は「行って来ます」と言って出て行ったのに、夜はもういなかったわけです。父親の死はすごくショックでしたね。そのショックから立ち直れたのは、人生一回しかないし、明日は生きていないかもしれないということに気付いて、「だったら、やりたいことを毎日やろう!」と思えたからだと思います。
ICUでは、一方向だけではなく、多方向から物事をみるということを学びました。
渡辺
勉強はお嫌いではなかったのでしょうか?
池上
「なぜ?」と考えることは嫌いではなかったですね。ICUで面白かったことは、一般教養の絹川先生の数学の授業の中で“ロバチェフスキーの世界”を知ったことです。SS(社会科学科)だから、この授業をとる必要はなかったのだけれど「大学の数学では何をするのか、今までやってきた数学は公式を覚えるものだったけれど、何か違うのかしら」という好奇心からとりましたね。「平行線は交わる」というところから授業が始まったので、「大学の教育は違う!」と思いました。「アメリカの教育とも違うし、日本の教育とも違う」と感激しました。要するに、その時学んだことは、『世の中には唯一の“Theory”があるのではなく自分でも“Theory”を提案できる可能性がある』ということでした。そういうことが数学の世界に限らず他の分野でもできるとしたらすごく独創的じゃないですか!「平行線は決して交わらない」と思っていた私は、それを否定するロバチェフスキーの考えにすごく驚きました。「もしかしたら、世の中には他にも違うことがあるかもしれない」と。こんな風にして、ICUでは一方向からでなく、いろんな面から物事を見ることの必要性について学ぶことができましたね。
渡辺
「考える」ということを学ばれるということですしょうか、それこそが無形の財産ですよね。
池上
そう、例えば、ある人のことを考えるときに、表面だけをみるのではなく、多面的に違う面をみないとその人ことを理解することはできない。それと同じように、「テレビのニュースで見ました。新聞で読みました」というときに、ほんとうにそれが事実を十分に伝えているかということについて考える。自分が大切だと思う事柄については、色々な角度からみる必要がある、ということを学びました。
渡辺
おっしゃるとおりですね。私の仕事を例にしてみますと、ニュースというのは主観を通して取材した素材なので、出来るだけ厳密に客観的に伝えたいと心掛けてはいますが、実は視聴者の方にはどこかで疑っていただきたいと願っているのですよ。
池上
でも、ほとんどの人はそう思ってはいないのではないでしょうか。
渡辺
たぶん、テレビが普及し始めたころよりは、私たちも疑っているのではないかと思います。インターネットの信憑性が問われる面はありますが、情報の選択肢も入手法もたくさんあった方が良いですね。事実を、伝えるために文字にすると同時に、文字にならなかった部分がある、という現実は多くの方々も認識しているのではないかと思います。
池上
そうですね。だからこそ、あのロバチェフスキーの世界はほんとうに面白かったんです(笑)。
渡辺
でもそこで、面白いと思うのも、一種の才能ではないですか。 最初に、大学では遊んでばかりだったとおっしゃっていましたけれど、やっぱり勉強なさっていたのですよね!(笑)
池上
遊んでいましたよ!授業だって全部出ていたわけじゃないですし。雪が降ればみんなで鎌倉に行ったり、授業に出ていない時は“バカ山”にいました(笑)。その頃のことは、すごく楽しい思い出です。ICUで仲良くなった人の何人かは、今でもすごーく仲が良いんですよ。
ICUに入学したのは、父の影響です。40年も前に、これからの社会は「ICT」と「国際関係」が重要になり、どちらかに携わる必要があると父に言われたのです。そこで、私は国際関係を選んだわけです。そういう意味では、私はいまだに父の手のなかで転がされていると感じることがあります(笑)
渡辺
もともと池上さんがICUにお入りになったのはどうしてだったんでしょう?
池上
高校の留学制度であるAFSでアメリカの留学から帰ってきた時に、父に「これからの世界は21世紀に向けて二つ重要なことがある」と言われました。40年も前に、父は「ICT(情報通信技術)」と「国際関係」の必要性を教えてくれたのです。父は絹を作るための蚕の遺伝子研究をしていたので、当時の衰退産業の中にいる辛さを感じていたのでしょう。子どもには成長産業で仕事をしてもらいたいと思っていたのだと思います。また、女の子だから、男の子だから、という区別を全くしない人でした。 その時、私は自分の能力や適性を考えて、「ICTというと数学が重要だけれど、自分には無理だな・・・」と判断し、国際関係の勉強が出来る大学を探したところ、当時はICUと東京大学しかなかったのです。カリフォルニア州の高校を卒業し、帰国してから東大受験のために10教科以上の勉強は難しいと思い、ICUを受験しました。
渡辺
お父様は大変な観察眼を持っていらっしゃるのですね。
池上
私はいつ父親に追いつけるのか、と時々思うのです。 結局、今の私は父親が言ったことを辿っているだけではないか、と思えてなりません。私は娘に対して、父親が言ったことと同じことが言えるか、というとまだ言えない。やっぱり、父親を超えられていないと思うと悔しいですね。
渡辺
でも、今池上さんがなさっていることは、遠くから見つめたり守ったり、誰かを守る手のひらのように体温を伝えるお仕事ですものね。離れてはいても、地球上の誰かに、気づかれなくても温かい体温を送り続けていらっしゃる仕事という気がします。
池上
そうですね、そうありたいと思っています。素敵な表現をありがとうございます。 国連で働き始めた頃を振り返ると、UNHCRから一度国連本部に入るのですが、大きな国連という組織の中で、「私は何をやっているのだろう」と思って、一度国連を辞めたのです。
渡辺
どういうことですか?
池上
国連という大きな組織の本部、それも人事部の仕事をしていた時に自分が何のために仕事をしているかわからなくなってしまったんです。その時、上司が“Leave without pay”という形で、無給の休暇を取らせてくれました。 実はそれに先立ち、私はNYで子どもを産んだのですが、その出産がすごく大変で、帝王切開で本当に辛い思いをしました。その時「命はこうやって続いていくんだ。祖母が母を産み、そしてその母が私を産み、その私が娘を産む」と、つくづく実感しました。と同時に「もしアフリカにいたら、自分も娘も完全に死んでいたに違いない」ということも感じました。産まれてくる場所や出産する場所によって、こんなにも女性の価値や命の重さが変わって良いのか、こんな不公平なことがあっていいのか、そんなのおかしいのではないか、と思い、加藤シヅエさんが会長をされていたNGOに「なんでもいいから、人のためになることをしたい」と、飛び込み、現場の経験を積みました。今、途上国のお母さんを助ける活動をしているのも、「自分の命が助かったのだから、他の人の命も助けたい」と思ったからなのです。本来は、途上国のお母さんたちの99%は助かるのですから。ただ、知識がなかったり、医者が不足していたり、助産師のトレーニングがされていなかったりという理由で、助かるはずの命が失われているのです。NGOでの仕事は、給料は安く、労働時間も長かったのですが、自分のやりたいことだったので苦ではありませんでした。
渡辺
そういう途上国の現状って、今知らなくても日々を過ごしてはいけますが、知らないままでいると、きっといつか地球規模で困ったり、大きな悲しみが身近に襲ってきたり、自分でなくても自分の子ども達や大切な人達、次の世代の人たちが悲しむことになるのだと思います。「今知らないと後悔する」、そのくらいの実感しか持てないかもしれないけれど、その萌(きざし)を見過ごしたくないですね。池上さんは例えば金銭面や環境で仕事の条件が良くなくても、「これをしたい!」「これをしなきゃ!」というご自分の声にすごく素直ですよね。それが、社会と自分が向き合うことなのだと、すごくはっきり意識なさっている気がします。この先進国の中で、そんな自分の声を素直に聞いて行動なさるところを尊敬します。
「神様は乗り越えられる試練しか与えない」、「自分は不完全な人間だから神様がこの試練を与えてくださるのだ」。私はクリスチャンではないのですけれどね、そう自分に言い聞かせていました。
池上
でも、娘や家族や周りの人にとても迷惑をかけてきたんですよ。
渡辺
お嬢さんが小さいときに、ということですか?
池上
娘に対してはいつも「自分でやりなさい」としつけてきましたし、私は離婚をしているので、『子どものお父さんを奪ってしまった』という罪悪感が常にあるのです。ある日、「あなたは産んだだけじゃないの」って娘に言われました。「そんなことない」って言っても伝わらないのですよね。娘が中学生の頃は毎日けんかでした。私は遅くまで仕事しながら家に帰ると、子どもとぶつかって…。
渡辺
私も母とよくぶつかりましたが…今思うのは、お嬢さんにとっても幸せなことだったのではないかなと感じます。壁のような存在があるということは、とても大切ことで、子どもが親にぶつかるというのは、甘えているということなのだと思います。私が高校生くらいの時も?、親にひどいことを言い始めると止められなくて、でも1人になると言ってしまったことに自分自身が落ちこんで、でもまた些細なきっかけでひどいことを言ってしまう。そういう甘えと自己嫌悪の繰り返しが結局、成長過程における発散の場であったと思うのです。
池上
仮に周りに「良い仕事をしてるね」と言われても、娘一人ちゃんと育てられなかったら、私がしているのは大したことではないとずっと思っていました。 娘との関係のことは、他の人に言っても仕方がないですし、誰にも言えないまま、光の見えない長いトンネルを何年かずっと通っているような気持ちの時もありました。
渡辺
お母さんとして、お辛かったでしょうね…でも、うかがっていて、神様は越えられる試練しか与えないというのは本当なのだなと思いました。
池上
私も、その時はそのことをずっと考えて自分を慰めていました。あともう一つ思ったのは、自分は不完全な人間だからこそ神様がこの試練を与えてくださるのだ、って。私はクリスチャンではないのですけれど、そう自分に言い聞かせていました。 でも、その娘も一昨年お嫁にいきました。寂しいけれどこれほど嬉しいことはありません。
一番大切なのは、人とのつながりだということを学生の皆さんに伝えたいです。自分を支えてくれる人、自分が支える人、情報をくれる人、情報を差し上げる人、同じ感情や価値観を共有できる人、そんな人の輪を大切にしてほしいと思います。
池上
ICUの人は変わり者だと思います。みんな水平思考をしているし、私は、「変わり者」といわれることは褒め言葉だと思っています、皆と同じである必要はないし、人は皆同じではないし、自分の軸を作るということは絶対に必要だと思います。
齋藤
ICUの学生やこれからICUに入ろうと思っている人達にメッセージをお願いします。
池上
一番大切なのは、人とのつながりだと思います。これを大切にして下さい。日本の「一期一会」って本当にいい言葉ですね。ICUで得た財産は、対外的にはヒューマン・lットワーク、対内的には水平思考かしら。小さな学校ですから、アットホームでファミリーみたいだったからこそ、人とのつながりができたのだと思います。自分の学年の上下では名前を知らなくても見たことがある人がほとんどだと思います、そのつながりを大事にしてもらいたいです。 例えばね、ある日NYから日本に戻るときに、機内の通路で「どっかで見たことあるな?」と思って挨拶をしてみたら、ICUの人でした。ご主人は新聞社を辞めて医者になり、奥様は出版社に勤めていて、これから私が一家の主になります、と奥様がおっしゃっていました。 こんな風に、いつどこでで誰に会うかはわからないけれど、人と人のつながりというのはすごく大事だと思っています。私の財産はそれしかないとも言えるくらいです。私を支えてくれる人、私が支える人、情報をくれる人、情報を差し上げられる人、同じ感情や価値観を共有できる人、そんな人の輪を大切にしてほしいと思います。

☆☆この記事を読んでくださった皆様☆☆
世界では、妊娠や出産が原因で今も1分に1人お母さんの命が失われています。そのうち99%は開発途上国で起きています。母親を失った子どもが幼い頃に亡くなる確率は、母親がいる子どもに比べて10倍高いといわれています。国連人口基金東京事務所では、2010年7月11日まで「お母さんの命を守るキャンペーン」を実施しており、世界のお母さんが置かれている現状について1人でも多くの人に知っていただくことを目的としております。キャンペーン終了後には、より多くのODAがお母さんの命を守る活動に向けられるよう、ご登録いただいたサポーター全員のリストを日本政府に提出いたします。皆様、御協力お願い致します!
お母さんの命を守るキャンペーン



プロフィール

池上 清子(いけがみ きよこ)
国際基督教大学大学院で行政学修士号を取得後、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)定住促進担当、国連本部人事局行政官、ジョイセフ(JOICFP)、国際家族計画連盟(IPPF)を経て、2002年9月より国連人口基金東京事務所長。開発途上国での女性の健康、性と生殖に関する健康/権利(SRH/RR)、人口と開発、HIV/エイズなど諸問題に取り組む。外務省ODA評価有識者会議委員、内閣官房長官諮問機関アフガニスタンの女性支援に関する懇談会メンバーなどを務める。保健分野NGO間のネットワーク構築にも寄与。2008年3月、大阪大学大学院人間科学研究科にて博士号取得。著書に「有森裕子と読む 人口問題ガイドブック」(2004年 国際開発ジャーナル社)、「シニアのための国際協力入門」(共著、2004年 明石書店)など。 http://www.unfpa.or.jp/tokyo/director/director.html