INTERVIEWS

第19回 清水 康之

NPO法人自殺対策支援センター「ライフリンク」代表

プロフィール

清水康之
1972年 東京生まれ。高校時代に渡米し、その後国際基督教大学へ編入。卒業後、NHKに入局、「クローズアップ現代」などを担当。2004年 NHKを退職し、NPO法人「ライフリンク」を設立。以来、代表を務め自殺対策に取組み、「自殺対策基本法」成立の原動力にもなった。

 

齋藤
今日はよろしくお願いします。今回は渡辺真理さんが清水さんのご活躍を知っていて、「是非清水さんのお話がお伺いしたいです!」と、持ちかけてくれたのです。その渡辺さんが、実は急用で参加できなくなり大変残念ですが、私も楽しみにしてまいりました。早速ですが、清水さんが代表をされているライフリンクはどのようなことをやっておられるのでしょうか?簡単にお伺いできますか?
自殺は人の命に関わる極めて「個人的な問題」であると同時に、過労や貧困、いじめや介護疲れなどとも関連する「社会的な問題」であり、セーフティーネットのあり方とも密接に関わる「社会構造的な問題」です。ライフリンクは自殺対策の実践を通して、誰もが自分自身であることに満足しながら生きることのできる「生き心地のよい社会」の実現をめざしています。
清水
はい。宜しくお願いします。ご承知の通り、日本では年間自殺者が3万人を超えるという異常な事態が12年間も続いています。一日あたり、80〜90人。この十年間で32万人。盛岡市や那覇市に暮らす全住民が、たった10年間で忽然とこの世から姿を消したことになります。諸外国との比較で言えば、自殺率はアメリカの2倍。イギリスやイタリアの3倍という高さです。
ライフリンクは、“個人の問題”と捉えられがちな自殺を“社会の問題”として捉え、社会全体で自殺対策に取組むための仕組みづくりを行っています。民間のボランティアによる電話相談や精神科医による診療、弁護士の法律相談や行政の各種支援など、様々な現場で行われている自殺対策(=生きる支援)がスムーズに連携できるような仕組み作りです。
齋藤
“仕組み”、ということですが、それはどんな仕組みですか?仕組みが必要ということは、上手くいっていないところがあるということだと思いますが、そもそもなぜ現場の対応はスムーズにいっていないんですかね?
清水
端的に言うと、仕組みが施策者本位になってしまっていて、当事者本位にはなっていないからです。
自殺で亡くなった人は、私たちが行っている調査によると、平均4つの問題を抱えています。例えば、失業者でいうと、1)失業し、収入が絶たれて、2)生活苦に陥る。ただお金がなくても生活しなければならないのでお金を借ります。銀行は貸してくれないので、消費者金融から借りる。仕事が見つかれば返せると思って借りるわけですが、仕事が見つからない中で返済日がやってくる。そうすると別の消費者金融から借りて返す、ということを繰り返すようになる。3)多重債務に陥っていくわけです。それで精神的にも追いつめられて、4)うつ病になる。そうした状態になっても事態が改善していかないときに、自殺へと追い詰められていくのです。
つまり、自殺はひとつの要因で起きているのではなく、複数の要因が連鎖してプロセスで起きているということ。ですから対策も、ひとつの分野による「点」の対策ではなくプロセスで行う「線」の対策が必要です。ところが、これが十分にはできていない。
行政は見事なくらい省庁ごとに縦割りになっていますし、行政と民間との間にも深い溝がある。また民間の間でも、医療や法律などといった専門分野の間にも大きな壁が存在しています。一つひとつの要因に対しての対策はあっても、それらが自殺の連鎖にあわせる形で連動できていないために、問題を複数抱えこんだ当事者を総合的に支援することができないのです。
齋藤
自殺の原因というのは、ひとつのことではなく、だいたい4つぐらいの分野からなるということなんでしょうか?
清水
その通りです。しかも、自殺要因の組み合わせには、ある一定の規則性があります。自営業なのか、失業者なのか、労働者なのか。その属性によって特徴があるのです。ですから、それぞれの規則性に合わせた「当事者本位の連携」をはかりながら包括的に支援する必要があるのですが、これができていないということです。
支援策はたくさんあっても、それらがパズルのピースのように散在してしまっているので、当事者にとっては、ものすごく辿り着きにくくなっているのです。もし問題をひとつしか抱えていないのであれば、その問題に対応する支援策を探すことはできるでしょう。でも問題を4つも5つも抱え込んだときには、その状態にあるだけでいっぱいいっぱいになってしまって、それら一つひとつにあった支援策を自力で探し出して自力でそれらに辿り着くなどということは至難の業です。結果、問題を多く抱えている人ほど、支援策から遠ざかるという社会的ジレンマが生じてしまっているのです。
私たちがやろうとしていることは、こうしたジレンマを解消すること。個々人の問題解決にかかるコストを個々人にばかり押し付けるのではなく、もっと地域や社会で負担していこうということです。誰もが、生きる意志さえあれば、もっと容易に問題解決策に辿り着けるようなセーフティーネットを、社会が負担して作っていくということです。
齋藤
色々な分野の人が出てくると、それをまとめていくことが難しいですよね。誰がイニシアチブを取っていくのですか?
清水
やはり政治がイニシアチブをとる必要があります。官僚は法律や法令に従って動くわけですから、縦割りになるのは不可避です。行政が勝手に縦割りを超えて動き出したら、それこそ大問題です。縦割りの中で調整がつかない部分に関しては、政治が決断して、物事を前に動かしていかなければならないのだと思います。
ライフリンクの果たす重要な枠割りは、上から目線で自殺対策を考えるのではなく、まず現場で“何が起きているのか”、また“どういう対策が求められているのか”を知ることで必要な対策を提案していくことなのです。つまり、支援者本意から当事者本意にシフトしくことのイニシアチブを取っているのです。
齋藤
清水さんたちのネットワークがあったことが、このような取り組みを動かすうえで具体的にはどんな役割を果たしたのでしょうか?
清水
政治主導を発揮する際、現場のことを知らないで思いこみだけで決断していったら、それこそ現場は混乱します。ですから、現場に近いところで活動しているNPOが「現場で何が起きているのか。それに対応するにはどういった対策が必要か」を明らかにすることだと思います。例えば年末に行った「ワンストップ・サービス」も、元々は緊急雇用対策の枠組みで、ハローワークにおいて就労支援と生活支援をセットでやる話だったのですが、我々が現場を見ていて、失業した人は生活苦の次に多重債務に陥り、うつ病にもなっているかも知れないということが想定されていましたから、相談のパッケージに弁護士や保健師も加えるべきだと大臣に進言し、実際にそうした枠組みを作ってもらいました。
齋藤
政治主導を発揮する際、現場のことを知らないで思いこみだけで決断していったら、それこそ現場は混乱します。ですから、現場に近いところで活動しているNPOが「現場で何が起きているのか。それに対応するにはどういった対策が必要か」を明らかにすることだと思います。例えば年末に行った「ワンストップ・サービス」も、元々は緊急雇用対策の枠組みで、ハローワークにおいて就労支援と生活支援をセットでやる話だったのですが、我々が現場を見ていて、失業した人は生活苦の次に多重債務に陥り、うつ病にもなっているかも知れないということが想定されていましたから、相談のパッケージに弁護士や保健師も加えるべきだと大臣に進言し、実際にそうした枠組みを作ってもらいました。
清水
そうなんですよね。よく聞かれます。“何をやってるんですか?電話相談とかですか?”って、自殺対策の枠組み、問題解決の方法論を変えるための取り組みをしているのですが、説明しにくいんですよね(苦笑)。単に自殺対策の分野においてのみの課題ではなくて、これまでの日本社会の縦割り、分野ごとの壁、専門家意識によって形成されてしまった様々な壁を乗り越えていかないと自殺の問題は決して解決しません。支援者本意から当事者本意にシフトし、それぞれが何をやりたいかではなく、現場で“何が起きているのか”、“どういう対策が求められているのか”、を対策立案の出発点に据える必要があります。
そうやってニーズを的確につかまないと、効果もでないし効率も悪いということで、「自殺対策基本法」という法律を議員たちと一緒につくって社会全体で取組める基盤をつくりました。その後は自殺の大規模実態調査をし、どのように自殺が起きているのか、どのような連鎖があるのか、地域にどういう特徴があるのかを明らかにし、具体的な政策の提案を試みています。
齋藤
清水さんの話は非常に共感できます。ビジネスと同じでまさに「問題解決の考え方」をしているんですね。
単純にいうと、“息苦しくてここ(日本)を何とか出たい”と思ったんです。一流大学に入って、一流企業に入って、結婚することが幸せに繋がるとは全く思えない。漠然と日本社会の価値観に“違和感”を感じていたんです。
齋藤
では、ちょっとさかのぼって清水さんのこれまでについてお伺いしたいのですが、ご経歴を拝見すると、面白いことにといっては何ですが、高校をやめて渡米されているんですね。それは何故ですか?
清水
そうですね。単純にいうと、“息苦しくてここを何とか脱したい”と思ったんです。自分自身であることに制限がかかるというか、同調圧力を受けている感じがあったので。単純にいうと、私が高校の頃は、男の子は、良い大学に入って、良い会社に入って、優しい奥さんをもらって幸せな家庭を築くというのが時代と社会に叩き込まれた「幸せになる道」とされていました。でも、高度成長期にはそうだったのかもしれませんが、自分が高校から大学に入る頃はその化けの皮がはがれてきたころで、一流大学、一流企業、結婚。そんなことが幸せに繋がるとは全く思えなくて。漠然とその価値観に“違和感”を感じていたんです。高校の時の目の前にいた先生が実際に幸せそうには見えない。だったらそれって正しいのかなって。
齋藤
そうなんですか。確かにそういう頃だったかもしれないですね。でも、そういった考えは子供のころからあったんですか?何かご家族の影響とかがあったのでしょうか?
清水
僕は3人兄弟末っ子、姉兄私でした。上二人はそれなりに勉強ができて、運動が出来て、だから3番目の自分はそれほど道を外さなければいいかなと思って、ほっとしたのかもしれないですね。親に厳しく言われた覚えはないです。間違ったこと、道をはずしたことをしなければいいだろう、自分で判断しなさい、という環境だったから、高校を辞めるときもそんな感じでした。アメリカの高校は、父が大学院時代に留学していたこともあり、その当時の友人を辿って行きました。
齋藤
ではお父さんが留学してなかったらアメリカにも行ってなかったですか?
清水
そうかもしれないです。ただ、アメリカというより、今の高校が嫌だったからやめただけなんです。父親の友人が、たまたま「それならアメリカにきたらどうだ」と言ってくれたので、単純に「アメリカは自由そうだ」と思って渡米したんです。1988年でした。
その後、アメリカの大学で2年間過ごして、当時は国際政治で博士をとろうと思ってました。高校の時、日本が嫌いで出てきたのですが、アメリカ人に「日本は不公平だ」と言われると、本当にそうなのか?と気になって。情報が正確に共有されてないがゆえに、お互いにいがみ合うというのは決して建設的ではないし、そういったことで摩擦が生じる現状を自分も肌で感じていたので、そういうことが少ない世の中にするためには、国際政治について勉強して、研究者になろうと思っていました。
当時ICUの教授だった姜先生が出演していた日本のテレビ番組のビデオをアメリカで見て共感しました。「是非ゼミに入れて下さい」と手紙を書いて、ゼミに入れてもらいました。
ICUは雰囲気が一番自分にあっていると思ったんです。高校時代に体感したような、理由が分からないこと、理由が十分に説明されてないのに存在する価値観やルールを一方的に押し付けてくることがないと感じました。「自分らしさがそぎ落とされないところ」でした。
齋藤
でも、なぜそこから日本の大学に転入しようと思ったのですか?
清水
アメリカに留学中に祖父が亡くなって、祖父母孝行をしたいと思って帰ることにしました。
齋藤
へぇ、そうなんですか。それは驚きです。大学生のころにそういう気持ちを持っていることって、すごく珍しいと思うのですが。
清水
そうですか?自分と祖父母の関係が近かったこともあるかもしれませんが、祖父が亡くなった時はアメリカにいて、葬式にさえ出られなかったんです。当時は連絡もほとんど取れないし、簡単に帰ることも出来ない。電話も1分200円300円、メールももちろんありませんでした。祖父の死も後で知らされたんです。そのことで親を責めたのですが、親は親なりに気遣ってのことでした。しかし、祖父にお礼も言えずにお別れになってしまったのは辛かったです。アメリカで大学院をと思っていたのですが、大学3,4年を日本で過ごすのも良いかなぁと思って。それで、当時ICUの教授だった姜先生に「是非ゼミに入れて下さい」と手紙を書いて、ゼミに入れてもらいました。
齋藤
なぜアメリカにいた清水さんが姜先生のことをご存知だったのですか?
清水
日本のビデオをたまに親に送ってもらって見てたんです。その中に「朝まで生テレビ」があって先生が出ていました。姜先生は在日で日本にいて、私は日本人でアメリカにいました。中間性というか、Betweenness、と先生は言っていたかと思いますが、狭間で物事を判断し、両者の間をつないで理解の断絶を少しでも弱めて緩めていく姿勢に共感するところがあったんです。だから姜先生のゼミに入り、国際政治を学び、卒論では「国家という枠組みの限界性と絶対性」という卒論を書こうと思っていました。実際には、「日本脱出マニュアル」という全然違う内容の卒論を書いたのですが。
齋藤
ICUでよかったこと、あるいはそうじゃなかったと思うことはありますか?
清水
編入先を決めるときには、慶応、上智など編入を受け入れる大学も選択肢にしていました。ただ、その時にICUは雰囲気が一番自分にあっていると思ったんです。あっているというのは、高校時代に体感したような、理由が分からないこと、理由が十分に説明されてないのに存在する価値観やルールを一方的に押し付けてくることがないと感じました。正直にいうと、積極的に何か得られるというより「型にはめられずに済むんじゃないか」と思ったんです。自分で考えて判断して、その分自分が責任を持つという、自分が主体的に行動することに制約をうけない環境なんじゃないかなと思いました。
ICUは「自分らしさがそぎ落とされないところ」でした。変な意味でまるめられない。人の尖った部分は尖った部分だし、良い悪いという価値判断の前に、そぎ落とされない。そう感じました。日本の社会では、大学の一気飲みのように服従することがメンバーになる条件という感じもあって、それが嫌で日本を飛び出したので、そういった感じのないICUが良かったんでしょうね。
そして、それなりに勉強している大学だなぁとも思ったからですね。実は子供のころはほとんど勉強なんてしてなかったんです。まともに本も読んだことがなくて、もちろん、勉強してないから成績もよくなかったですしね(笑)勉強を始めたのは高校からなんです。大学は勉強しに行く場所だと思っていて、そう思えたのも、自分は受験もしてなくて、疲弊してなかったからでしょうね。だから、ICUはちゃんと勉強できるところだと思ったことと、姜先生がいらっしゃったことも決め手ですかね。
小さい頃から子供ながらに、いろんなことを友達と議論していました。自分で考えて他人に委ねない、そのように考えることを小さいながら仲間同士から学んでいたのかもしれないです。自分の転機はオウム事件でした。自分が社会に対して抱いている漠然とした苦しさというのは、個人的な感覚ではなく世代が共有していることを知りました。だったら国際政治よりそれに取組んだほうが面白いんじゃないかと思ったんです。それでNHKに入ったんです。
齋藤
お話を聞いていると、やはりなぜそういった発想になるのかなあと興味があるのですが?
清水
う〜ん・・・あるとしたら、小さい頃からの幼馴染との関係かもしれません。彼らとは、小さいときから子供なりに議論していました。もちろん子供だから、拙いことだったりするのですが、それでも自分で考えて、他人に判断を委ねない、というのが小さいときに仲間との間で訓練されたのかもしれないですね。勉強する代わりに、そういうことばっかりやっていました。
齋藤
へぇ。それは面白いですね。いや、考えてみると、団塊世代の僕たちからすると、清水さんの言う“押し付けられるような社会”はある意味当たり前だったんですよね。押し付けられて息苦しいことがなくてよかった、ということですが、僕たちの世代はそれが当たり前だったので、ICUに入ったら勉強より羽を伸ばしちゃってましたね。
清水
それはきっと時代的な変化なんでしょうね。私たちの時代は、齋藤さんたちのように疑わなくてもレールに乗っていける時代ではなくなってたんです。物質的な所有が幸せの実感につながる時代でもなくて。パンは食べてるし、サーカスは見ちゃったし、その後どうする?って感じだったんですね。なぜこんなに息苦しいのか、と思っていました。国家、社会が提示していた大きな物語の中で生きられなくなったんですね。個人がどうすれば幸せで生きられるかを模索しないといけなくなった。レールの先に幸せがあることも信じられなかったし、信じられなくなったレールにさえ乗れなくなってきた。じゃあどうすればいいのか??と考えていたんです。
清水自分の転機となったのはオウムの事件ですね。信者だった井上嘉浩が書いた日記が朝日新聞に載ったのですが、それが自分が高校時代に書いた日記にそっくりだったんです。自分のじゃないかと、驚いたくらいです。「大人たちは満員電車に揺られながら、どこに連れて行かれるかも分からないままこれで良いのか」という大人社会への嫌悪感の塊みない内容で。ただ、同じことを当時感じていたなかで、自分はアメリカに行き、彼はオウムに入ったわけです。彼の日記を読んだ時、「もしかしたら自分がオウムに入っていたかもしれない」と、はっとさせられる感覚がありました。そして、自分が社会に対して抱いている漠然とした苦しさというのは、個人的な感覚ではなく世代が共有していることを知りました。だったら国際政治よりそれに関わっていっ・スほうが面白いんじゃないかと思ったんです。同世代の人と対話をしながら考えていければ良いなと思って。ただ自分は新聞もほとんど読まなかったので、だったらテレビかな、と。でもそれでバラエティー番組を作ってもしょうがないし、ディレクター志望でNHKにしたんです。
齋藤
でも、それこそ採用のときなんかにNHKは清水さんのように日本、海外と転々とされていることに疑問をもちませんでしたか?
清水
就職活動当時の細かいことは覚えてないですけど、当然高校を辞めたときの理由も聞かれました。ただ、質問してもらう機会を使って、その時に自分なりに説明した記憶があります。
齋藤
清水さんのお話を聞いていると一貫したものがあるので、話を聞いてくれる面接官であれば、清水さんの表面上の略歴とかではなく、そのしっかりした考えや話から魅力を感じたんでしょうね。
30歳を超えた自分が「生活があるから」といって自分を制御してしまうと、それは、自分が16歳のころに嫌だと思っていた人間になってしまうのではないか、と思ったんです。それは出来ないな、と。10代の頃の自分がなりたいと思っていた人でいたい。だからできることは全部やろうと思ってNHKを辞めました。
齋藤
NHKには7年いたそうですが、ずっといようとは思わなかったんですか?NHKを辞めてNPOを立ち上げようと思ったのはなぜですか?
清水
NHKはやめたいと思っていたわけじゃないですし、自分の感じる社会の問題点に自分なりに精一杯取組める状況があれば、辞めることはなかったと思います。ただ、NHKにいても自分の思うことはこれ以上出来ないだろうと思うようになったんです。もちろん会社に社会保障がくっついている日本では、会社を辞めることは社会保障がなくなるということなので、非常に悩みました。NHKにずっといたら安泰だろうとも思いましたし。
ただ、自分の個性をそぎ落とされる環境には居たくないと単身でアメリカに行って、英語も話せないなか這い上がってきた16歳の自分に対して、30歳を超えた自分・ェ「生活があるから」といって自分を制御してしまうと、それは、自分が16歳のころに嫌だと思っていた人間になってしまうのではないか、と思ったんです。それは出来ないな、と。今の自分は色んな人に支えられてあるわけなので、10代の頃の自分がなりたいと思っていた大人でありたい。多少道は険しくなると思いますが、妥協せずに進んだ方が必ず自分は納得するだろうし、選択した後に自分が良かったと思える結果を自分が出せばそれが良い道になるはずだと。その道が良かったか悪かったかは振り返って決まるものなので、判断した時に決まるものじゃないんです。渡米したことも、その後、頑張ったから良かったと思えるようになったわけで。仕事もそうだろうと思いました。迷いはしましたが、やはり現場に入らないと分からないことがたくさんあると思ったからチャレンジしました。もちろん、NHKでの番組作り、ドキュメントも大好きでしたから、めちゃくちゃ迷いましたよ。
齋藤
組織としてNPOにしたのは何か意図があってのことですか?
清水
活動する上では、プレーヤーとして共感してもらいやすいと思ったんです。言ってしまえば、器として使い勝手がよいということなのですが。つまり、NPOを立ち上げたいと思ってしたわけではなくて、自分がやりたいことが社会的軌道に乗るためにはNPOが一番あっているのではないかと思ったんです。
「あの大人、楽しそうに生きてるな」って思ってもらいたいですね。そのためには出来ることは全部やる。自分自身で限界は勝手に決めない、自分を制限させずに徹底的にやって結果をだす。そういう姿勢でやっていれば必ず結果はついてきます。
齋藤
清水さんがおっしゃるようなことを考える人は他にもいるのかもしれないのですが、大抵の人は途中でしんどくて諦めることが多いと思います。やり通すことの秘訣はあるのでしょうか?
清水
自分で納得がいかないと、結局自分の判断にも責任が取れなくなると思うんです。小さなことであっても、自分で考えて決断してそれが正しかったことを証明していくことが自分に対しての信頼感を高めるし、自分の人生を生きていると実感できることにもなります。そして、自分が選んだ道に対して納得す・驍スめには、それなりの結果を出さないといけないと思っているためかもしれないですね。NHKをやめて、お金もなくなり、後ろ支えもなくなり、それで自殺対策も立ち上がらなかったら、本当に自分はなんだったんだということになってしまうので、切なくなりますよね。支えてもらった人達に対しても申し訳なくなるし。全力を尽くしてだめだったら仕方ないと思いますが、やれることは全部やろうと。結果を出して行けば自分自身も納得するし、周りの人にも恩返し出来るし、息苦しくない、生き心地の良い社会を作ることが出来たらと思っています。
自分が10代の頃は、「なぜ大人はこんな社会を放っておくんだ!」と思っていました。そんな10代の頃の自分や同年代の若者に、「あの大人楽しそうに生きてるな」って思ってもらいたいんです。そのためには出来ることは全部やる。自分自身で限界は勝手に決めない、自分を制限させずに徹底的に結果をだす。そういう姿勢でやっていれば必ず結果はついてきます。私は、NHKに7年いて社会で自分がどれくらいのことができるのか、少なくともこれくらいはできるということはなんとなくわかっていたので、それを精一杯やるだけだと思ったのです。
齋藤
清水さんのお話を聞いていると一貫していているなぁって思います。普通は自分に厳しく出来ない。しかしそれが出来るのは軸足が定まっているからなんだろうなと思います。軸足が定まっている人には説得力があり、人がついてくる。一人ではしんどすぎてとても出来ないが、支えてくれる人が自然と集まってくると思うのです。
「自分の限界を自分で決めないでほしい。でも社会はやっぱり甘くない。だからチャンスがきた時に大胆に行動できるように備えてほしい。」
齋藤
最後になりますが、後輩へのメッセージをお願いします。
清水
自分の限界は自分で決めるべきではないですね。ただし、社会はそんなに甘くないのも確かなので、慎重さと大胆さという相反するものを持ち合わせていることが大事かと思います。慎重かつ大胆にというのは表裏の関係だと思っていて、慎重さがあるからこそ、大胆なことが出来ると思います。過信しすぎると何も出来ないので、色んな人生経験を積みながら慎重に物事を積み重ね、いざという勝負時にちゃん・ニ行動できるだけの力を培っておく。そうすれば自分が「これだ!」と思ったタイミングで自分なりの決断ができると思うんです。つまり、「限界を決めるな、でも社会は甘くないので、チャンスがきた時に大胆に行動できるように備えろ」ってことですかね・・・えらそうなことを言ってますけど(笑)。
最近聞いた話で、働き蟻の2割は働かないらしいです。怠け蟻です。でもそれにもちゃんとした理由があって、8割の蟻の一部が疲弊すると、その埋め合わせの役割を怠け蟻がもつんだそうです。それを聞いて自分は怠け蟻かなと思いました。僕はもともと本当に怠け者なんです。隙あらば怠けようかなとも思ってます(笑)。ただ、世の中が今の戦い方ではどうにもならなくて、みんな疲弊しているという中で、怠け者の自分としては今が頑張る時なのかなって思っています。


プロフィール

清水康之
1972年 東京生まれ。高校時代に渡米し、その後国際基督教大学へ編入。卒業後、NHKに入局、「クローズアップ現代」などを担当。2004年 NHKを退職し、NPO法人「ライフリンク」を設立。以来、代表を務め自殺対策に取組み、「自殺対策基本法」成立の原動力にもなった。著書に『「自殺社会」から「生き心地の良い社会」へ』(共著、2010年3月 講談社)、「闇の中に光を見いだす~貧困・自殺の現場から~」(共著、2010年3月 岩波書店)など。