インタビュー内容

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第22回 2010年9月6日
劇作家 平田オリザ

 平田オリザ
プロフィール
1962年11月8日東京生まれ。1986年ICU人文科学科卒業。劇作家、演出家、劇団「青年団」主宰、東京・こまばアゴラ劇場支配人。大阪大学コミュニケーションデザイン・センター教授。四国学院大学客員教授・学長特別補佐。内閣官房参与。
渡辺
今日はお忙しいなか、ありがとうございます。私が1年生の時、平田さんをよくD館でお見かけしました。 本当に有名な存在で、D館の主なんだ!って、その年のFrはみんな認識してました。ICU生でオリザさんの名前を知らない人はいなかったんじゃないかな。なのに、今と同じく威圧的な感じが全くなくて飄々としてらしたのを鮮明に覚えています。
齋藤
今日は平田さんの「なんで今みたいになれたの?」というところをお聞きしたいんです。16歳で自転車で世界一周されてるんですよね!?そういうことは、思ったとしても実現させるのはなかなか難しいと思うのですが、どうやってそういう発想をお持ちになったのか、ということも含めていろいろお話を聞かせてください。 
僕は今でもそうなんですけど、先々の計画を立てるのがすごく好きなんですね。で、中学2年の時に、次の夏休みの計画とか、高校に行ったらとか、いろいろ先々の旅行の計画を立てていると、「最後は自転車で世界一周だな」と気付いたわけです。そうすると高校に行くとか、大学に行くとかっていう「途中」にそんなに意味があると思えなくて。それで高校に行くのをやめて、世界一周することに決めたんです。
渡辺
劇作家、演出家、青年団の主催、そして教授でいらっしゃるわけですよね?変な言い方ですけど、平田さんはご自分で言うと「何屋さん」になるんでしょうか?
平田
劇作家のみですね、基本的には。父が作家だったもんで、子供のときから作家になると思っていました。父はシナリオライターをやっていて、家で仕事をしていました。母は当時はカウンセラー、その後は大学で教えていました。母がICUの大学院出身なんです。心理学を専攻していました。
渡辺
例えば、商社でも魚屋さんでも、お父さんの仕事に反発するケースと同じ道に進みたいと願うタイプに乱暴に言うと大別されるかと思うのですが、 平田さんはどうでしたか?
平田
男親って子供に趣味を合わせないじゃないですか。子供の遊びをしないでしょ。だから3歳から原稿用紙に色々書かされていました。例えば、何か物を買う時は、企画書を書いて提出しないといけないんですよ(笑)。父親の名前入りの原稿用紙に。なぜ買いたいか、買ったらどうなるか、とか。遊びは書くことばかりでした。
齋藤
それはすごいですね〜!3歳から企画書を出すなんて、初めて聞きました。
渡辺
書くことはお好きでしたか?
平田
好きだったんでしょうね。今も書くことで苦労することは、あまりないですね。すごくスピードが早いんだと思います。ものを書くことに関しては、星飛雄馬のように育てられたので。
渡辺
英才教育ですね!
平田
そうです。でも不幸なこともあります。音楽とか、将棋とか、絵画とかだと、比較的早めに才能が分かりますよね。それと比べると、もの書きが一番分かりにくいんですよ。ただの”こまっちゃくれた子”に見えるわけなんですよね。やたらボキャブラリーが多いというだけで、どうにかなるわけでもないし、女の子にもてるわけでもない。しりとりは子どもの時から、負けたことがないですけど、そのくらいにしか役に立たない。自意識だけがパンパンに膨らむので、とても大変な子だったろうなと思います。
渡辺
学校の作文で困ったこととか、ありませんでしたか?
平田
基本的にはないですね。たくさん書いて怒られたことはあります。小学2年の時に、原稿用紙15枚くらい書いて、「多く書けば良いってもんじゃない!」と先生に怒られました。でも父親はたくさん書けば喜ぶので、たくさん書いていましたね。
渡辺
物語のようなものはいつ頃、書き始められたんでしょうか?
平田
台本は中学1年生の時に初めて書きました。学芸会のために書いたんですけど、登場人物が全員死んでしまうすごく暗い話だったので、上演出来ないと先生に言われてしまいました。結局、その時は私の書いた台本はボツになって、既成の台本を使って演出をしました。その時の主演が、デーモン小暮さんだったんですよ。
渡辺
同級生でいらしたんですか!ちなみに、演劇を観る側のわたし達も”演出”という言葉はよく聞きますが、実際どういうことをするのが演出なのかという中身については、あまり分かっていない気がします。例えば、既成のものを演出するというのはどういうことなんですか?
平田
今やっている仕事は非常に分かりやすいので、ひとつ例に出すと、現在、僕は大阪大学でロボット演劇というものをやっているんですが、その話のなかに働けないロボットが出てくるんです。それで、「働けないんです、私、どうしても。」という台詞があるんですけど、「働けないんです」と「私」の間にあと0.2秒間をあけて、「私」と「どうしても」の間をあと0.2秒縮めて下さい、というような指示を出すんです。そうすると、格段に、その世界がリアルになる。そういうことを僕はやっています。何故リアルになるのかを話し出すと、二時間くらいかかるんですが。
渡辺
そういう仕事をその頃からやろうと決めてらしたのですか?
平田
それはないですね、漠然と、作家という感じだったので。演劇!というわけではありませんでした。でも、舞台は小さい頃からすごく良く見ていて、あと叔父が映画監督の大林宣彦なので、映画の現場もすごく身近にありました。大林さんのおかげで、今の僕は存在していますね。
渡辺
叔父様だったんですか!存じ上げませんでした!平田さんが育った環境、ご家族はどんなだったんでしょう?
平田
愛情たっぷりに育てられました。父親は僕を作家にしたくて、母親は学者気質だったので学者にさせたかったんですね。父親は古い考えなので、司馬遼太郎さんや松本清張さんがそうだったように、大学出たら新聞社に勤めたらどうかと言っていました。母親は大学院に残ったらどうかと言っていいました。結局両方選ばなかったんですが、今は両方になっているので、とても親孝行だと思っているんですけど(笑)。
渡辺
ご両親はスパルタという感じではないんですね。
平田
そうですね、それは全くありませんでした。うちの母親はカウンセラーで、当時は東京都の教育研究所にいて、不登校や自閉症の問題を扱っていました。まだ自閉症が、病気なのか精神疾患なのかも完全には分かっていない偏見の強い時代にそういう人達と日常的に接していた。だからかどうか、私が少しくらい変わっていても、あまり気にせずに、本当に自由に育てられました。塾にも一度も行ったことありませんでした。
渡辺
塾に行かなくても成績良さそうですよね。
平田
申し訳ないですけど、成績で苦労したことも、あまりないですね(笑)。
渡辺
すごい…!成績も良くて、中学校の時には世界一周を計画なさっていた?
平田
そうですね。もとから旅行が好きで、中学校1年生くらいから一人旅をしていたんです。僕は今でもそうなんですけど、先々の計画を立てるのがすごく好きなんですね。で、中学2年の時に、次の夏休みの計画とか、高校に行ったらとか、いろいろ先々の旅行の計画を立てていると、「最後は自転車で世界一周だな」と気付いたわけです。そうすると高校に行くとか、大学に行くとかっていう「途中」にそんなに意味があると思えなくて。それで高校に行くのをやめて、世界一周することに決めたんです。さらに色々調べるうちに、中卒って大変だぞ、ということに気づいた。今はそうでもないですけど、当時の中卒って本当に大変で、何にも身分がなくなっちゃうんです。15歳だから免許もとれないし、身分を証明するものも何もなくなる。それで、定時制高校くらいは行っておいたほうが良いかもしれないと思って、定時制に行ったんです。中学2年生の頃から親にも話してはいたんですけど、当たり前ですが、最初は信じていなかったんですね。 中学3年の三者面談の時にやっとまともに話をしました。ただ、その時は、親はどうせ勉強の世界に戻ってくると思っていたらしくて、定時制に行って1、2年働いてみるのは、人生の一つの選択として良いんじゃないかと思ったみたいです。僕は小さい頃はすごく体が弱かったらしく、親は小学校入学を1年遅らせようかと考えたくらいなので、1、2年遅れるのは良いんじゃないかと思ったらしい。そうして1年間働いてお金を貯めました。親としては反対するタイミングを失ったんですね(苦笑)。
齋藤
その働いている間は具体的にどんなお仕事をされていたんですか?
平田
一番長く続いたのは新聞配達ですね。一番お金が稼げて、一人暮らしに慣れるという意味でも住み込みは良かったですし、自転車で配るのでトレーニングにもなりました。当時の金額で100万円くらい貯めました。
渡辺
ご両親は反対なさいませんでしたか?
平田
最後は泣き落としですね。ただ、僕は行くことは決めていたので、「ここまで準備したのに今まで反対しなかったでしょ!」って(笑)。
もちろん不安はありました。ICUに入って3年の時に韓国に留学したのですが、そのときも現地に着いた時、「うわ、1人になっちゃったよ!」っていう喪失感がすごくありました。ICUでの生活がすごく楽しかったので特に。でも世界一周の時と、韓国留学の時の2回の経験はすごく大きかったですね、今思うと。幸福に感じている生活の中でも、仲間と離れて次の世界へいくということが、本来、とても大事なことなので、すごく良かったと思います。
渡辺
お友達の反応はどうでしたか?駒場東大前にお住まいだったんですよね?例えば、成績が良い子はそのまま東大に行かれるのが普通な感じの空気が街にはあったとか。
平田
そうですね。あの辺りは東大シティーなので、そういう街になりますね。子どもの頃からちょっと成績のいい子は、普通に当たり前のように東大に行くんですよね。今考えると、それも世界一周をしようと思った理由のひとつにあったんだと思います。本当に後付けですけど、私たちの時代って、親が苦労なしに子供を育てられるようになった最初の年代なんですね。逆に言うと、親としても育て方が良く分からなかった世代なんじゃないかなと僕は思います。オウム事件を起こしたのも同世代ですね。しかも駒場のエリート社会の中で育って、このまま行ったら、社会的にはエリートになるかもしれないけど、頭おかしくなるんじゃないかって、漠然と思ってたんだと思います。息苦しいな、ずっとこの競争が続くのはって感じ。親は自由でしたが、周りがそういう雰囲気でしたね。
渡辺
でも、東大にそのままいらしても青年団を立ち上げたり、脚本を学ぶこともできないわけじゃなかったですよね?もし東大に行っていたら、っていう質問もおかしいですけど、違っていたと思いますか?
平田
もし東大に行っていたらとか、早稲田に行っていたら、ということも考えますね。芝居の質が変わっていたんじゃないかとか。でも、今ほどの仕事の広がりにはなっていなかったと思います。
渡辺
そんなふうに感じてらっしゃるんですね。世界一周なさったころって、「友達のつながりが切れちゃったらいやだな」とか、周りの反応をどうしても横目で追ってしまう年齢だったと思うんですけど、そのあたりはどうでしたか?はぐれちゃうかなという不安は?
平田
みんな応援してくれてましたね。大丈夫でしたが、不安はありました。ICUに入って3年の時に韓国に留学したのですが、そのときも現地に着いた時、「うわ、1人になっちゃったよ!」っていう喪失感がすごくありました。ICUでの生活がすごく楽しかったので特に。でも世界一周の時と、韓国留学の時の2回の経験はすごく大きかったですね、今思うと。幸福に感じている生活の中でも、仲間と離れて次の世界へいくということが、本来、とても大事なことなので、すごく良かったと思います。
齋藤
なんで韓国に行こうと思われたのですか?
平田
世界一周した時はまだ冷戦下だったため、ほとんどが欧米だったんですよね。だからアジアのどこかに行きたいと思っていたことと、あと、当時ICUの交換留学先でアジアといえば、他は香港とフィリピンだったんですね。その2つって英語じゃないですか。僕、英語は苦手なんです。今も苦手なんですけど。それと、せっかく行くのに英語だったらアメリカでも良いなと。もともと日本語に興味があって演劇も始めたので、日本語に近い言語を習得しておこうと思い、韓国にしました。言語の問題が一番大きかったですね。 このことは、正解だった。今でも、ものすごく役に立っています。僕が90年代にメジャーデビューした時に打ち立てた演劇理論というのは、ほとんどが22、3歳の時の1年間、韓国留学の時に考えたものです。それは、言語学や日本語学のある種の流用なんですけど。ごくごく簡単に説明すると、日本で、一般の方が「演劇はわざとらしい」「芝居臭い」と思う1つの大きな原因は、強弱アクセントにあるのではないか、ということです。日本語の一番大きな特徴として、「語順が自由である」、「繰り返しを厭わない」、「強調したいものは前にもってくる」というのがあるんですね。 例えば、ある演劇の教科書に「この竿をたてろ」という例文がある。で、「竿」を強調したいときには、「竿」に力を入れなさい。「立てろ」と強調したいときには、「立てろ」に力を入れなさいと書いてある。でも、日本語の特徴から言うとそうはならない。「この竿を立てろ」という時に「竿」を強調したり、「立てろ」を強調したり強弱アクセントを置くことはないわけですね。竿を強調したかったら、「竿、竿、竿、竿、この竿を立てて!」って言えば良いわけですし、「立てろ」を強調したければ「立てて、立てて、立てて、この竿!」となるわけです。 でも多分、ヨーロッパから演劇を輸入する過程で、間違って余計なものも輸入しちゃったんですね。フランス語なんて繰り返しをものすごく嫌うので、日本語とは強調の仕方も違います。言語の特徴を無視して、そのままヨーロッパ流を日本の演劇に取り入れたので、わざとらしいと感じさせるものになったのではないかという仮説をまず立てた。韓国語は、文法構造が日本語に近いので、その習得の過程で、日本語を相対化して見ることができた。また外国人用の寮にいて、様々な言語が飛び交う生活環境にあったので、その韓国での生活の中で考えた理屈だったんです。 日本語教育界で大変有名な牧野誠一先生という方が、プリンストンにいらっしゃるんですけど、1980年くらいに、牧野先生が「繰り返しの文法」という有名な本を出されています。僕は、当時、その本は読んでいなかったんですけど、そこに書いてあることは僕の考えとほとんど一緒だったんですね。だから、おそらく僕は、牧野先生がお書きになった本に影響を受けて書かれたエッセイか何かを読んで、こういった理屈を考えたのではないかと、いまになって思うんですけど、本当はどうか分からないんですよね。ただ、22、3歳のガキが、自分一人で考えた理屈にしては出来過ぎているとは思います。 昨年、プリンストン大学で特別講演とワークショップをする機会があって、牧野先生が私の理論や、日本語教育に対する応用について、とても褒めてくださって、今年も他の日本語教育の学会の基調講演に呼んでくださいました。人生、長くやっていくと、すべてのことがつながっていきますね。
渡辺
平田さんはそうやって考える時間をときどき持たれるように感じますが、韓国だったり自転車旅行だったり、1人になる時間、考える時間を持つこと、幸せな場所から出ることって平田さんにとって大切ですか?
平田
そうですね。演劇は楽しいですけど、そこでやっぱり作家とか演出家として、プロとして続けていくなら、全てのことをシャットアウトして1人で考える「言語的孤立」は必要だと思います。
渡辺
すごくお忙しいなかで、どうやってそういう時間をつくられるんですか?
平田
そんなに忙しくないですよ(笑)。昨日フランスから帰ってきたんですが、向こうでは、稽古時間は13時から19時、それ以外はアパートで自炊したりしているので孤立状態ですよ。
齋藤
稽古時間というのは、稽古をつけているということですよね?その時、言葉はどうされているんですか?
平田
フランス語は通訳をとおしています。英語は、無理すれば出来ないわけではないですけど、何せ苦手なので英語も通訳をつけています。どうしても英語で講演とか、授業とかをしないといけない場合などはするのですが・・・できるだけ避けています。韓国語での演出は、自分でやります。
渡辺
苦手というお話を聞くと、何だかほっとしますね。平田さんにも苦手なことがあるんだって(笑)。
借金を返すことを通じて、中小企業の経営者的なことを経験出来たので良かったと思います。なんでかというと、今色々なものに携わっていますが、助成金とか科学研究費をとってくることは、銀行からお金を借りるのに似ているんですよね。銀行っていうのは貧乏な人にはお金を貸さないので、威張っていないといけません、いくらお金がなくても。本当は大変だけど、「経営は大丈夫ですよ、でも貸したい?」ってくらいの態度で、「借りたらこれくらい事業が伸びますよ」というプレゼンテーションをきちんとしないといけないんですよね。それを20代で、実践で学んだのです。
渡辺
今日はあまり質問なさってませんけど、普段は齋藤さんが半分くらい質問なさるんです。経営者の視点とかご専門の「問題解決」のモノの考え方とかから。
齋藤
そうなんですよ。実は、平田さんに関してのインタビュー記事をいくつか事前に目を通していたのですけど、“平田さんの生きてこられた演劇の世界ってなんなの?ぼくが経験したことのない世界やんか”とびっくりしてしまったんですよ。僕はどちらかと言うと経営の世界が中心で、数字を分析したり論理的に考えたりすることが多いのであせっちゃったんです(笑)。
平田
でも経営学的なものも、演劇にはあるんですよ。私は大学では、アートマネジメントも教えていますし。 父がすごく変わった人で、僕が大学生の時に木造2階建ての家を壊して、劇場にしちゃったんです。全部、銀行からの借金で。ただ経営のセンスは、あまりない人だったんで、赤字続きで借金ばかりが膨らんで、どうしようもないな、という感じでした。結局、それで、自分があとを継ぐことになったのですが、23歳の時、バブル前で1億円以上借金がありました。これはもう人生諦めるしかないわけですよ、だって一生働いたって返せないわけですから(笑)。 ただし、僕は20代の時に、その借金を返すことを通じて、中小企業の経営者的なことを経験出来たので良かったと思います。なんでかというと、今色々なものに携わっていますが、助成金とか科学研究費をとってくることは、銀行からお金を借りるのに似ているんですよね。銀行っていうのは貧乏な人にはお金を貸さないので、威張っていないといけません、いくらお金がなくても。本当は大変だけど、「経営は大丈夫ですよ、でも貸したい?」ってくらいの態度で、「借りたらこれくらい事業が伸びますよ」というプレゼンテーションをきちんとしないといけないんですよね。それを20代で、実践で学んだのですが、助成金も同じなんです。 日本の演劇界はずっと貧乏で、とにかく「貧乏だから助成金をください」ということしか言ってこなかった。これはだめだと思って、「助成金なんて要りませんよ。でも出したいんですか? 出したいなら出してもらっても良いですよ。出してくれたら、私達はこういうノウハウを持っているので、教育に役立ったり、福祉に役立ったり、国際社会において日本のプレゼンスが上がったりしますよ」というプレゼンを、多分日本の演劇人で初めて、体系的な形でやった。それは、20代の経営のところから学んだことですね。
齋藤
すごいですね〜!そういう経験が出来たのは本当に良かった。あんましマイナスのところからスタートするという人はいないから、余計に真剣に考えるようになったんやろうね。
渡辺
今までのお話を伺っていると、すごく論理的というか、理系な印象を受けるのですが…?
平田
両親は元々理系だったようですね。僕は、そんなに血統とか血は信じない方ですが、我が家に関していうと、父親も理系から作家、祖父は医者で詩人で高村光太郎さんたちの、戦前の最後のパトロンだったようです。理系から文転する家系なんですかね。僕はそうじゃないんですけど。やっぱり父親が企画書を書くことを要求していたように、説明を求められていた環境で育ったせいもあると思います。
渡辺
なるほど。何だか身元調査みたいに遡って聞いてしまって申し訳なく思いつつ、どうやって平田さんはできたんだろう?と思って、うかがってしまいました。
齋藤
大阪大学でコミュニケーションデザインを教えていらっしゃるそうですが、自転車旅行や韓国留学のことは、今教えられていることに影響を与えましたか?
平田
そうですね。少なくとも異文化コミュニケーションということに関して言うと、外国人と友達になるのは人に比べて早いと思います。今回のフランスでの1週間の稽古も、来シーズンのためのプレ稽古だったのですが、その一週間、正味五日間という短い期間で俳優からの全幅の信頼を得ないといけないんですね。そういうことに関しては、若い頃の体験が役立っているとは思います。
渡辺
信頼を得るって、乱暴に言うと・・・どうやるんですか?
平田
ひとつは、全面的に心を開いて、こっちが無防備な状態になる。それから、フランス人の俳優の場合には、徹底して理屈を喋る。ロゴスの国なので、彼らものすごく喋るんですよ。だから、こっちもとにかく、負けずに喋って、喋って、理屈を説明しますね。納得してくれれば、だいたい何でもしてくれます。
齋藤
平田さんの記事で拝見したのですが、「単にスピーチだけを学んだだけでは、コミュニケーションはうまくならない。単に喋るというのではなく、周りの設定を含めてコミュケーションという」ということに、なるほどね〜!と思いました。
平田
日本の国語教育の中でも、スピーチやディベートの教育は実施されてきたのですが、それをやる時期や目的が大切なんですよね。日本の教育学者が海外に視察に行くというのは、もちろん”良いところ”に行くんですよね。ご存知の通り、ヨーロッパの教育は、エリートコースと職人コースの2つに大きく分かれます。エリートコースの人達は、将来スピーチやディベートが、本当に必要だからやるわけです。それを視察してそのまま見習って、スピーチやディベートの教育を日本の小学生にやると、本当にこまっちゃくれた子ばかりになってしまうわけです。 とにかく、小さい頃はコミュニケーション嫌いにさせないことが大事なんです。一般の良き市民をつくるためには、コミュニケーション嫌いにさせない。その上で、必要な人達にそういうスピーチやディベートなどを階層化してやらせることが重要だと思います。 日本は戦後、エリート教育をしてこなかった。それはいい点もあったと僕は思っています。でも「エリート教育」というとアレルギーもあるかもしれませんが、「リーダーシップ教育」は、社会にとって、どうしても必要ですね。いま阪大では、そういったリーダーシップ教育のプログラムにも関わっています。 ただ、大学だけでそれをやっても間に合わない。
成長型の社会のときは、科目を細分化して、知識を効率よく詰め込んだ方が良いのですが、新しい成熟した社会、国際社会の中で生きていかなければならない子供達を育てるためには、もっと他の能力が必要になってきます。それをやっていきましょう、ということを政府の中ではやっています。こちらが、「よき市民を育てる教育」ですね。「シチズンシップ・エデュケーション」と呼ばれるものです。
齋藤
今のお話のとおり、コミュニケーション嫌いにならないように育てるというのはとても大事だと思うのですが、具体的にどのようにやるんでしょうか? 秘訣みたいなものは?
平田
いや〜これは、ちょっとずつやっていくしかないんですよね、小学校の時から。日本でも、幼稚園の時は言葉、体、心を含めたコミュニケーションをお遊戯などで自然とやっているのですが、小学校の段階から急速に、教員が教えやすいように教科で細分化しているんですよね。まずこれを出来るだけなくした方が良いと思っています。僕が提案しているのは、国語というのを解体して、「ことば」と「表現」っていう科目くらいに分けて、図工も音楽も演劇もダンスも、小学校の低学年くらいでは一緒に教え・ス方が良いんじゃないかな、と思うんですよね。よく講演会で説明するのですが、例えば母親の誕生日に絵が得意な子なら絵を描くだろうし、歌がうまい子なら歌うだろうし、兄弟でお芝居をする子もいるかもしれない。それをお母さんの都合で「今年は絵しか受け付けません」っていう人はいないと思うんですよ。でも日本の場合は、それを教える側の都合で分けているだけなんですよね、全然子供の都合ではない。 さかのぼると、もともと音楽も美術の教育も、あるいは体育だって、強い軍隊、強い国家をつくるために始まった制度なので、もう完全に役目が終わっているんですよね。今の新しい成熟した社会、国際社会の中で生きていかなければならない子供達を育てるためには、もっと他の能力が必要になってくる。それをやっていきましょう、ということを政府の中ではやっています。
渡辺
”学ぶ”ことって、実は本当に面白いことなんだろうなと思ったりします。例えば、初めておつかいに行って、おつりをもらったりするのは初めての具体的な算数で、帰り道に迷って人に聞いてみるのは国語の実学で、道端の草木やちょうちょを綺麗だなと思って観察するのは理科や美術で、買い物という全行程は社会という科目の実践で。便宜上、教科に別れてる勉強って大きな木の幹や枝葉みたいにつながっていて切り離せない気がします。
平田
そうですね。ヨーロッパの初等教育では、だんだんと科目っていう概念自体がなくなってきている。たとえば、以前、「毒入り餃子事件」があったじゃないですか。そういう時は「餃子」っていう授業を2週間くらいやるんです。まずは日中の歴史を学ばないといけない。そして経済で中国の物が入ってこなかったらどうなるかについて学びますよね。当然仲良くしなきゃいけないから、お互いの言語、挨拶を学びます。そして歌や絵、作文。さらに免疫とは何か、毒とは何か。ここで理科も算数も入ってくるわけです。一つの、現実社会とつながったトピックで2、3週間ずつ授業をしていくわけです。教員がカリキュラムをつくるのですが、それが出来るのは、午後3時以降は子供は家に返して、家と地域が子供の面倒をみるという制度になっていて、クラブ活動などがないからなんですよね。だから教員は3時から5時までの時間を教材開発にあてられるんです。今すぐそれを日本でやろうとしても、だめ・ナしょうね。また、日本の学校単位のクラブ活動などのいい点もあるわけですから。 ただ、こういう風に、海外では科目という概念がなくなってきていることは間違いない。成長型の社会のときは、科目を細分化して、知識を効率よく詰め込んだ方が良いのですが、新しい成熟した社会、国際社会の中で生きていかなければならない子供達を育てるためには、もっと他の能力が必要になってきます。それをやっていきましょう、ということを政府の中ではやっています。こちらが、「よき市民を育てる教育」ですね。「シチズンシップ・エデュケーション」と呼ばれるものです。
渡辺
平田さんは「どこから伺ったら良いんだろう」と思うような活動をなさってますが、この大きな木の話みたいに、全部繋がっているんですね。コミュニケーションデザインや、単語と単語のあいだにほんの少し間を持たせる、という作業も多分、たどれば大きな木になってるんですね。卑近な例になりますが、例えばテレビを見てくださってる方は大抵何かしらやりながらご覧になる場合も多く、絶対見たいから!より、なんとなく嫌じゃないからチャンネルを変えずにいて下さる。とすると、その「嫌じゃない」かもしれないところを発信する側は出来れば分かってる必要がある。例えばフリップの出し方でも、どんな出し方をしたら見ている側が何となく違和感を感じないかとか。細かい話なんですけど。 「伝える」ことに心血を傾けたつもりでも、「伝わる」には別の視点や分析も必要になってくる面はあります。その意味で平田さんは、遠景で全体図をとらえながらディテールを丁寧に作って、論理面と情緒面の両方で実践なさってるんだなぁと、お話してて思いました。そういう方がコミュニケーションの教育をなさるということにすごく納得しつつ、おこがましいですがとても期待してしまいます。
齋藤
今の話を伺いながら思ったのですが、企業で営業の人っていっぱいいるから営業教育をやるのですが、物を売るためであって、結局相手に好かれるような、信頼されるような喋り方、身の振り方をやってごらんって言っても誰も教えないんですよね。
平田
そうですね、それはすごく問題です。最近は、企業の新入社員研修や管理職養成でも、私たちが開発した演劇ワークショップのプログラムが使われはじめました。 話が少し大きくなるのですが、僕は現在、国交省の成長戦略会議の観光部会の座長を半年やってきました。休日分散化や空港や港湾の整備のことでも、新聞を賑わした会議です。新幹線をどうやって売っていくかっていうことも、同じ戦略会議でやっていたんですね。そこで必ず出てくるのが、「技術では負けていない」っていう言葉なんです。じゃあ売れよ!って思うんですけど(笑)。 「技術では負けていない」と言った時点で、人間はプレゼンテーションを疎かにしてしまう。「多少負けてるんじゃないかな」と思っているくらいの時の方が、売り方を頑張る。政治家に分かりやすいように説明する時には、こういう説明をします。昭和15年の時点でゼロ式戦闘機は世界一の技術だった。でもあんなものはあっけなく物量に負けてしまいましたよね。負けはじめたときにどうしたかと言うと、日本は「精神では負けてない」と言いはじめた。こうなったらもうおしまいです。 いまの日本も、このままいくと、技術で負けたら、今度は「精神では負けてない!」ってなるんだと思います(笑)。日本はこれまで技術立国、工業立国としてやってきて、それはそれで素晴らしいことだったのですが、良いものを作れば必ず売れるという幻想にとりつかれていて、物の売り方だったり、人を喜ばせる、楽しませるということが二の次になってしまったんですね。「ものづくり」だって、本当に大切なのは、人を幸せにするということで、物自体に価値があるわけではない。まさに物神論=フェティシズムになっている。日本自体が「物づくりフェチ」になってしまったんですね。これはもう、一種の宗教であって、この妄信から抜け出さないといけない。そこができるかどうかが、日本の最後の生き残りをかけた道だと思っているんです。
僕たちが社会に合わせるのではなく、社会のシステム自体を変えていかないと食っていけないと思ったんです。傲慢で危険な言い方をすると、「私達が演劇をしやすい世界に社会を変えよう」と思っています。
渡辺
平田さんはそんなふうに相談を受けたり、色々な場を持っていらっしゃいますが、平田さんご自身は何を一番なさりたいんでしょうか?
平田
僕は基本的に演劇だけです(笑)。話をもとに戻すと、大学で演劇を始めて、卒業してプロを目指すわけですが、作家としては全く売れない時があり、劇場の経営を主にしていました。その時に、韓国留学以降に考えだした新しい方法論を、実際に演劇創作にあてはめていきながら、世間では「静かな演劇」と言われるものをつくっていったんです。ですけど、当時そんなものはバブルのまっただなかで、全く注目を浴びず、これは本当に大変だなと思ったんです。 その時に、2つのことを考えた。一つは、多分これが、世間に認められるのは、10年くらいかかるだろうと。でも10年経つと僕たちは35歳。僕が耐えられても、劇団員が耐えられないだろう。だからこれをどうにかして5年で認めさせるための売り方、差別化を考えようと。世の中バブルで浮かれていましたから、僕たちは冷静沈着に、すごい理論があって作っているようなことを言っていた時もありました。 もうひとつは、もっと長期的に考えると、構造的に自分たちの演劇が受け入れられないのは、社会の構造自体が間違っているんじゃないかと思ったんです。僕たちが社会に合わせるのではなく、社会のシステム自体を変えていかないと食っていけないと思った。僕と僕の劇団が発見した理論は、決してただ単に演劇界だけのものではなくて、もっと普遍的なものになるのではないかという直感があったんです。だとしたら、それを社会につないでいく回路をつくっていけば良いと考えた。実際、その当時、そういうことを考えてから、10年後には国語の教科書に載るようにもなりました。いまでは、その教育システムが、行政の中でもシステム化されつつあります。日本語教育にも多く使われていますし、ロボット工学にも影響を与えている。 漠然とですけど、社会変えないとだめなんじゃない?と思ってたし、それは今でも思っています。だから、傲慢で危険な言い方をすると、「私達が演劇をしやすい世界に社会を変えよう」と、いまも思っています。
渡辺
愚問かもしれないんですけど、そこまで演劇は楽しいですか?(笑)
平田
うん、楽しいね〜!笑)演劇だけが、僕をドキドキさせてくれます。その瞬間はいくつかあって、まずは書き始める瞬間。書くのには、準備に2年間くらいかかりますから、そのあとの書き始める瞬間は、「これで書けるだろうか?」とドキドキします。そしてそれを稽古場に持っていって、俳優に読んでもらう瞬間。あとはやっぱり、小屋入りの瞬間とか、未だにドキドキしますね。もちろん、初日も。なんで30年もやっているのに、こんなにドキドキするんだろうって思いますね。国交省とかで仕事していると、「なんて演劇は楽しいんだろう! なんて世の中はつまんないんだろう!」って余計に思いますね(笑)。
渡辺
そんなドキドキを持っている平田さんからご覧になって、世界とか社会とか子供って、どんなふうに映ってるんですか?
平田
僕は、前はよく、不登校の子達のお世話をしていたんですね。フリースクールとかで、演劇は、とても人気があるんですよ、居場所を作りやすいから。 だいたい、不登校の子たちは、小学校ですごく良い子で、中学校で不登校になる子が圧倒的に多いのですが、大抵が「良い子を演じるのに疲れた」って言うんです。僕は「演じたこともないくせに、演じたって勝手に使うな!」って言うんですけど(笑)。もう1つは「本当の自分はこんなんじゃない」って言いますね。だから、その時には、「本当の自分なんて見つけたら大変なことになっちゃうよ。信仰宗教の教祖にでもなるしかないよ」って僕は言うんですけど。 大人は父親とか、サラリーマンとか、夫とか、色んな役割を演じながらどうにか生きているんだと思うんですが、子供に対しては「本当の自分を見つけなさい」って言うわけですね。これは僕は大人の欺瞞だと思うんです。人間っていうのは様々な役割を演じる生き物だと思っていて、類人猿と人間を区別するのも、役割の演じ分けをするかどうかだと思います。どんな未開の集落にも、仮面をかぶったり、お化粧をしたり、演じる文化がある。なんでそれがあるのかって考えると、人間にとって演じるというのは生きるための術であって、演じ合わないとコミュニティーを形成できないんだと思うんですね。今後は、この部分を学問として追求したいんですけど。 日本では演じるということが「自分を偽っている」というネガティブなイメージにとられる傾向にあると思うので、そこを根本的に変えたいという思いはあります。「良い子を演じなくてもいいんだよ」というのは大人の欺瞞であって、本当は、良い子を演じるのに疲れないタフな子を育てていかないといけない。あるいは出来ることなら、良い子を演じるのを楽しむくらいの子を育てたい。
渡辺
いいですね〜!
平田
今、フィンランドメソッドっていうものが国語教育で注目されています。僕が一番感動したのは、小学校2年か3年生くらいに、ある文章を読ませて「このなかで嘘の部分と大げさにいっている部分はどこでしょう?」っていうことを区分けさせるんですよ。もちろん正解はないんですが、ある子にとっては嘘であって、ある子にとっては大げさ。大げさというのはポジティブで、上手く伝えようとして一生懸命に言うこと、嘘は悪い表現、という一応の区別はあるのですが、それも人によって違ってきますよね。でも、そういった、一人ひとりの違いを知るためにも、どこまでが嘘で、どこまで大げさなのかっていう区分けを小学校2、3年でやっているんです!  自分は子供のときからずっと嘘つきと言われてたんです。今も劇団員によく言われる。でもね、僕としては大げさに楽しくみんなに伝えたかっただけなんですね。劇団員に自分が見たお芝居や映画などの話を伝えると、みんな僕の話の方が本物より面白い、と言います(笑)。それをちゃんと教える教育ってすごいな〜って思いました。そういうのをやりたいんです。
演劇では、ある母集団があるけどそこへ出入り自由な「セミパブリック」な場所が重要なんです。ICUの先生に「それD館じゃないの?」って言われました(笑)。ICUは、そういう概念を育ててもらった所だと思っています。
渡辺
それはすごく面白い教育ですね!平田さんにとって、ICUは、どんな場所でしたか?ICUでそんな教育を実践されたら素敵だな〜と思うのですが。
平田
ICUで授業をやるという機会は何度かあったし、ジェネエドを持つという話もあったのですが、ちょうどタイミングが悪くて、他の大学の常勤が決まってしまったんですね。いずれ機会があれば、母校での授業はやりたいです、それは。 ICUの学生時代は、そりゃもうとても楽しかったです。以前、リトリートで講演をしたんですが、その時に「演劇ではセミパブリックな場所が重要」という話をしたんです。お母さんとお父さんと子供だけといったプライベートな場所だと、情報の落差がないので演劇にならない。だからといって、その辺の道路だと会話が成立しないからだめ。僕の造語ですが、ある母集団があるけど、そこへ出入り自由な「セミパブリックな場所を設定できると演劇になりやすい。そんな話をリトリートでしたんです。その話をしたら、たしか大西先生だったと思うんですが、「それD館じゃないの?」って言われました(笑)。ICUは、そういう概念を、自然に育ててもらった所だと思っています。 国立大学、特にいま私が勤めている阪大のような旧帝大系の大学は、パブリックに奉仕する人間を育てることを目的に作られました。それに対して、ICUは、あくまでセミパブリックなんですね。出入りが自由、縛られない。あるときはコスモポリンタンにもなる。そこがいいところでしょう。そしてそれは、いま、私が政府の中で関わっている「新しい公共」という概念とも合致する。
渡辺
では、最後になりますが、ICUの後輩にメッセージをお願いします。
平田
たくさんの人に出会うっていうことはやっぱり大事ですかね。阪大にきて思うのは、ものすごいマンモス校だな〜ってことで、学部が一つ一つの独立した大学みたいで、サークルも学部ごとにあったり、キャンパスも三つに離れていますから。特に大学院の場合、研究室はたこ壷状態で、隣の部屋で何をやっているかさえ分からない。ICUは違う。本当に様々な学問領域の人と普段から出会える。ICUはそこが一番良かった。でも、その良さは、外に出てみないと分からない。

プロフィール

平田オリザ(ひらたおりざ)
1962年11月8日東京生まれ。1986年ICU人文科学科卒業。劇作家、演出家、劇団「青年団」主宰、東京・こまばアゴラ劇場支配人。大阪大学コミュニケーションデザイン・センター教授。四国学院大学客員教授・学長特別補佐。内閣官房参与。岸田國士戯曲賞、読売演劇大賞最優秀作品賞、優秀演出家賞、朝日舞台芸術賞グランプリなど受賞。戯曲以外の著書に「演劇入門」(講談社)、「話し言葉の日本語」(小学館)、「芸術立国論」(集英社)など多数。