INTERVIEWS

第39回 関 啓子

言語聴覚士・医学博士 

プロフィール

関 啓子(せきけいこ)
三鷹高次脳機能障害研究所所長、神戸大学大学院保健学研究科客員教授、ICU教養学部非常勤講師、国立障害者リハビリテーションセンター 学院 言語聴覚学科非常勤講師、上智大学外国語学部非常勤講師、日本言語聴覚士協会認定言語聴覚士講習会講師(失語・高次脳機能障害領域)、その他京都大学、ST養成校などで授業を担当。

 

「「言葉の本質」に関心があり、大学で言語学を学びましたが、思っていたのとは違って…。失語症の方に出会って、自分がやりたいのは学問の言語ではない。生きた言語なんだ。」と強く思いました。
渡辺
実は、このインタビューで言語聴覚士の先生にお話を伺うのは初めてなんです。
斎藤
もちろん、僕もそうですよ。なかなか普段聞くことのない“肩書”ですが、どんなふうにその職業を選ばれたのか。そもそもどんなお仕事なのかなど、ゆっくり伺っていきたいと思います。
そうですね。この仕事との出会いはやはりICUでした。言語学のパン先生の特別授業で、卒業生の方から「失語症」について話を聞いたことがきっかけでした。それで、自分が今まで勉強したかったのはこれだ!と思い、ビデオもない時代でしたので、リハビリ病院に志願して臨床を見学させていただきました。
渡辺
もともとその仕事に興味があったわけではなく、偶然の出会いだったんですね?
そうです。私はもともと作家を目指していたぐらい、言葉が大事だと思っていました。「言葉は面白い。言語学とは、言語の本質を探る学問なのだろう」と思い、志したのですが、入って授業を聞いたらそうではなかった。当時の言語学の授業は、チョムスキーの提唱した生成文法が主流でした。生成文法はすべての人間の言語に普遍的な特性があるという仮説をもとにした言語学の一派です。教授陣として井上和子先生や村木正武先生がおられ、「言語は生得的なもの」という言語生得説を基盤として発話を構造的に分析する手法を用いていました。ですから、言語学の授業では文章構造を文法的に分解する内容がほとんどでした。
渡辺
それは、関さんが思っていらした「言語の本質」のイメージとは大きく違ったでしょうね。
勇んで入学したのに、人体解剖の様な授業を聞いて、正直がっかりしました。生きた言語を知りたいと思っていたのに、そうでなくて残念でした。そんな時に、臨床の現場見学で、失語症の方の話し方を聞いて、衝撃を受けたんです。詳しくは著書(「失語症を解く」)にも書きましたが、形式的な言語は日本語でも、話している内容はさっぱりわからない。まるで、宇宙語のようなんです。日本語らしきものを流暢にしゃべっているのに、何を言っているのかほとんど分からない。話している当人も、自分が意図を伝えられていないことすら理解できていないように見える。生きた人間の使う言語を対象にしたい、と思っていた私には、衝撃でした。この方たちを助けていきたい。これが私の使命だ。これは、自分の学びを注ぎ込む価値のある仕事だ。と感じたのです。
渡辺
それはおいくつの時ですか?
学部3年生の時です。その時に初めて、言語聴覚士になりたいという夢を持ちました。
渡辺
高校時代の漠然とした作家になりたいという夢から、具体的な職業についての目標ができたのですね。でも、言語聴覚士と言っても、どうやってなるものでしょう?当時は国家試験もなかったようですが、まずどうされたのですか?
はい。この職種はまだ国家資格化されていない時期でした。このため、養成課程を卒業して医療の場に出た時も、国家資格を持っている他職種の人から「無資格診療」と揶揄され肩身の狭い思いをしたものです。言語聴覚士の勉強をするために、厚生労働省管轄の国リハ学院という、その領域にかかわる医学や心理学をはじめ様々な学びを行う国立の養成機関があって、私はそこを受験し、運よく合格することができました。そこは、今の医療系大学4年間で養成する内容を当時1年間(現在は2年間)で凝縮して教えていたので、勉強はかなりハードでした。養成課程を卒業した後は、東京都立の医学研究所の研究職員になり、在職中に東邦大学大学院医学研究科生理学講座岩村吉晃先生の特別研究生にしていただいて、論文を書いて、医学博士の学位を取りました。
斎藤
その時は、どんな研究をされたのですか?
研究所では、国際的に使われているWABという失語症検査の日本版の作製・標準化と、失語症者が流暢に話せることを目的として話し言葉の音楽的な要素を取り入れたMIT(Melodic Intonation Therapy)という技法の日本語版の開発をしました。また、学位論文に関する研究としては、「話す」「相手の話を聞いて理解する」「書く」「読む」という言語の4つの側面のうち、読む側面だけが障害される「純粋失読」という症状の緩和法を研究しました。 その純粋失読の患者さんは、読むことが大好きだったのに、脳梗塞後、「読む」ことができなくなり、世をはかなんでいらしたのですが、私の考えたやり方でその方の症状を緩和することができ、大変喜ばれました。
渡辺
そんなに素晴らしい職業なのに、残念ながら今でもあまり浸透しているとは言えない現状ですよね?
そうですね。1997年に言語聴覚士法が制定されてやっと国家資格になり、今では全国に2万2千人ほど言語聴覚士がいますが、ほとんど知られていませんね。
渡辺
どうして知られないのでしょうか。
そもそも、言語聴覚士が対象とする障害自体が世の中に理解されていないからかもしれません。リハビリテーションの国家資格には、大きく3つの種類があり、PT(理学療法士)、OT(作業療法士)、ST(言語聴覚士)と呼ばれています。PTは英語のPhysical Therapist(あるいはPhysiotherapist)の略で、主に身体的な障害に対して歩行などの基本的で粗大な動作の能力の回復を図ります。OTは英語のOccupational Therapistの略で、手を使う動作など日常生活に必要な巧緻性を要する応用的な能力の回復を図る職種で、精神面も含めた回復を支援します。これに対して、STは英語のSpeech-Language-Hearing Therapistの略で、言葉や聞こえ、言葉の基礎となる記憶・思考・認知などの高次の精神機能(いわゆる高次脳機能)の領域の回復を支援します。また、STは食べることや飲み込みなど食事に関わる機能、すなわち摂食・嚥下機能の回復にも関与します。前の二つは、歩けない、手が動かない、など、周りから見ても障害があることがわかりやすいのですが、言語・認知機能についてはぱっと見ただけではわからない。外見から理解しにくく、障害が客観的にわかりにくいため、「見えない障害」とも表現されます。言語聴覚士が支援する対象者は、聴覚障害や発達障害を持つ小児から、言語獲得後の事故や病気などによる後天的なコミュニケーション障害を持つ成人、認知機能に問題が出る高齢者など、幅広い年齢層の人です。
後天的なコミュニケーション障害の原因はいろいろありますが、身近なのは、脳卒中の後遺症としての失語症です。多くの一般の方は、脳卒中後に言葉の障害が出ることを知ってはいますが、うまくしゃべれないのが失語症かなと思うだけで、失語症では言語のすべての側面が障害されることには思い至らないのだと思います。また、失語症者が上手に意思疎通できない点だけを見て知的機能が落ちたのかと判断しがちで、幼児に対するような態度で接する人が多いのです。一般に、失語症では知的機能は低下しないことが多く、幼児語で話しかけることは長い人生経験を積んできた失語症者のプライドを傷つけることにもなります。同様に難聴でもありませんから、理解が難しい場合に大きな声を出す必要はありません。そして、本当は脳損傷が原因となって起こるのに、精神的ショックが原因で失語症になると誤解する人さえいます。さらに、ペラペラ流暢に話すタイプの失語症者は精神病と見なされたりもします。
渡辺
脳のどこかが傷ついて機能不全が起こっているのに、口の筋肉とか喋る機能の損傷と受け取られるなど、周りからはわかりづらいということですね?
はい。それが、どのぐらい生活をするにあたって大変なのかということを、具体的に分かりにくい、想像できない方が多いのです。私も脳梗塞の後、言語障害で苦労したことがあります。 たとえば、「私、麻痺あります」などのように助詞を落として話したり、文章を完全な形で構成できず途中で終わらせてしまったり、さらに話す前に、これから言おうとする文を頭の中で組み立てて何度も繰り返して準備しなければならない、というようなことを経験しました。健常な人は、普通、話すときに自分が言ったことが相手に伝わらないのではないかというような恐怖心を持つことは少ないでしょうが、私は常にこのような恐怖心を持っており、もどかしく辛い経験もしました。恐怖心なく自由に話せるようになったのはつい最近のことです。さらに、大きな声が出ず、イントネーションや言葉のリズムを取りづらい症状、いわゆるプロソディーの障害もありました。失語症者が実際に体験している症状を疑似体験して、その気持ちを「ああ、そうだったのか」と合点する経験を何度もしました。
渡辺
アメリカの脳科学者Jill Bolte Taylor博士も、同じく脳梗塞になられましたよね。彼女の著書を読むと、名刺に書いてある電話番号を押すのが難しいとか、自分が話しているはずの言葉が言葉になっていない、といった症状が出てきましたが、失語症の方というのはその認識があるのですよね?頭では言いたいと思っている言葉があっても、言葉に出した時には別の言葉になったりする…それが、ご自身でわかるだけにもどかしく辛いのですよね?
はい。おっしゃる通り、失語症では、単語を別の単語(「りんご」を「みかん」と言うなど)や別の音(「しんぶん」を「ひんぶん」と言うなど)に言い間違うという症状、つまり「錯語」、が一つの重要な症状です。この「錯語」と、「喚語困難」といわれる、言いたいことがあるのに適切な言葉が出てこない症状は、失語症で必ずみられるものです。自分の誤りにご本人が気づいてもどかしさを感じる場合もありますが、気づかないで話し続ける場合もあります。そして、話せるようになるのに時間がかかるのです。Jill Bolte Taylor博士も失語症を克服するまで8年間もかかりました。
渡辺
言語聴覚士としては、どのように対応されるのですか?
脳の機能局在論という説があって、脳のどの場所に何の機能が備わっているかは予めわかっています。一般に、右手利きの方では言語の機能がほぼ100%左半球に偏在すると言われています。左脳の前の方にある言語中枢は表出性の(=「言葉を話す」)の機能を担っているので、そこが傷つくと言いたいことが言えない症状が出ます。耳のちょうど後ろあたりの場所には、受容性の(=「言葉を聞いて理解する」)言語中枢があり、そこが傷つくと、相手の言っていることを理解することができなくなるという症状が出ます。ですから、頭のCTやMRI画像を見て、どこが傷ついているかがわかれば、それと合わせて症状を推測することができます。そのうえで、機能を評価します。その際、標準化された失語症検査を用いて診断をすることが多いですね。検査結果から対象者がどのようなことができ、どのようなことが難しいのかを把握したうえで、対象者の脳内で行われている情報処理ルートを推測し、ここにこうアプローチすればこうなるかもしれないという仮説を立てて、それを検証する形でセラピーをします。
渡辺
情報処理ルートを作るというのは、どういうことでしょうか?
脳の細胞は一度壊れたら再生しないと言われています。ですから、本来は治ることがありません。ただ、情報を伝達するルートは、傷ついた脳部位の周囲のそれまで働いていなかった部分が新たにネットワークを作って、失われた部分が担っていた機能の代役を務める可能性が指摘されており、ある種の反復練習によって新しい迂回路を作ることが期待できるのです。何らかの介入の結果実現するこのような脳の機能再編成は、脳が持っている復元力(「可塑性」)のおかげと考えられ、だから希望がある、リハビリの価値があるということになります。情報ルートを作るというのは、どんな反復練習をすればそのルートができるかを考えて実践してみる、ということです。
斎藤
脳ってすごいんですね。ちなみに、反復というのはどのぐらいの期間なのですか?
あるリハビリ技法の効果測定の場合、短期間の集中練習をすることが多く、このような実験的設定では1日4、50分の課題練習を1週間から10日間続けて、その技法を実施しないという点以外は実施群と同条件に設定したコントロール群の成績と比較し、統計学的手法を用いて効果をみます。 これで、ある程度良くなるものは良くなります。もちろん、個人差もありますし、傷ついた脳の場所・大きさ、発症からの時間などにもよりますので、一概には言えませんが。
渡辺
全く素人の身ですが、お話をうかがって初めて、失語症を経験したことのない人に説明されること自体が非常に難しいということがわかりました。伝えること自体がとても難しく、必然的に理解を得ることも難しいのですね。
「自分の責任において考えて、決断する。アメリカ生まれ、アメリカ育ちの両親の薫陶を受けていたから、ICUの考え方は自分にぴったりでした。結婚してからは、家族の、夫のサポートに助けられました。特に、迷った時に背中を押してくれた夫にはとても感謝しています。」
渡辺
医学博士として、言語聴覚士としてのご活躍をお聞きしたところで、少し戻って高校時代や、ICU生活について伺ってもよろしいですか?ICUに入られたのは、どうしてなのでしょう?
父がICUのゴルフコースの会員で、娘を入れて一緒にゴルフしたいと思っていたらしく、それに応えたいと単純に私も思いました。 また、ICUのリベラルアーツ教育は魅力的で、キャンパスも素敵で、もともと憧れの大学でした。両親はアメリカ生まれアメリカ育ちで、アメリカ的な自分で自分を育てるという考え方に共鳴していたと思います。幼いころから、「あなたは自分の責任において考えて、決断しなくてはいけない」と言われていまして、それが自然に自分の中に培われてきました。ICUの考え方はそれにぴったりで、まさに、自分が行くべき大学だったのだなと思いました。
渡辺
ご両親の考えも関さんご自身の信念もしっかりしていたのですね。兄弟はいらっしゃるのですか?
兄と42歳の若さで亡くなった姉がいました。実は私は、文Ⅲで言語学を学ぶつもりで、東大を受けました。父と兄に続いて東大と思っていたので、落ちてしまったのは大変ショックでした。自信はあったのに・・・。
渡辺
お姉さまは?
姉は良妻賢母型の人で、良家のお嬢様が行くような短大に行っていたのです。
渡辺
では、関さんは高校生のころから、お姉さまの生き方よりも、ご自身で学んで仕事をしていく道を目指していらしたということですね?
そうですね。両親の、自分の道は自分で切り開くという考えに共感を持っていましたね。
渡辺
大学時代はどんな生活だったのですか?
図書館のキャレルに入り浸っていましたね。朝から、そこに荷物を置いて、ひたすら勉強していました。
斎藤
ICUの授業はしっかりしているけれど、キャレルに入り浸っているというのは、その中でもかなり勉強家でしたね。もっと遊びたいとかは思わなかったのですか?
大学に入ったからには、勉強するのが当たり前と思っていました。素直というか、バカがつくほど真面目でした。
渡辺
すごい…!ちなみに、やはりご主人さまもですか?同じように真面目に勉強に打ち込まれたのでしょうか?
和義
私は別の大学でしたが、入ったら遊ぼうと思っていたほうなので、全く違いますね。
渡辺
よかった!なんて言うとヘンですが、なんだかホッとしました。(笑)でも、関さんは真面目に勉強された分、成績もかなりよかったのではないでしょうか?
はい。ほぼAストレートだったと思います。
斎藤
それは、これまで今を輝くに来ていただいた方でも珍しいですね(笑)。「学校の成績は良くなかったですよ〜」という人たちが多かったのです。ところで、大学の卒業論文は何を書かれたのですか?
スペイン語のコミュニケーションについての論文を書きました。スペイン語では、相手との心理的な距離を表すための動詞の使い方が特徴的なので、社会言語学的観点からこれをスペインの多くの地域、たくさんの社会的関係のペアについて調査しました。1年間、そのためにスペインに滞在して共同研究をした同学年の友人伊藤久平さんと一緒にフィールドワークをしたので大変でした。
斎藤
僕も、メキシコにしばらく行っていましたが、現地の言葉でインタビューしたりするのは、本当に難易度が高いですよね。
はい。当時のスペインは識字率が極めて低く、文字を読めない人が大勢おり、質問紙の内容がわからない人や書かれている内容の信憑性を疑う人もおり、戸惑うことがたくさんありました。調査実施上の問題点はマドリッド大学社会学部の教授と学生に相談しながら進めました。帰国してから、NSの先輩大学院生に手伝ってもらってN館のコンピューターに大量のデータを打ち込み、深夜までかかって統計解析をしてもらったのが懐かしい思い出です。今なら、当時よりはるかに進化したパソコンです短時間のうちに解析できる程度の仕事量だったのに、感慨深いですね。こうした努力の末、N館のコンピューターが打ち出した統計結果アペンディクス付きの分厚い英論文が完成しました。最後の1年で、ICUにいた3年分ぐらい勉強しました。
渡辺
才能と努力と時間と、すべてをかけて学んでいらっしゃるところが凄いです。だからこその今なのでしょうね。お小さいころからそうだったのですか?
そうですね。真面目でした。勉強しろと言われなくても勉強する、「いい子」でした。一方で、「クラスのお母さん的存在」と先生から評価されたくらい、面倒見もよかったですよ。
斎藤
ご両親はどんな方だったのですか?
両親とも日本人ですが、アメリカ生まれアメリカ育ちで、母は10才の時、父は高校に入る前に日本に戻ってきました。父は、東大卒業後、日本興業銀行(当時)に勤めていました。実は、私の家族は銀行員ばかりで、父も兄も、母も姉も、家族全員その世界でした。
渡辺
なるほど。その影響で、卒業後すぐは銀行に勤められたのですね?
小さいころから見ていて、銀行員は忙しすぎてあまり好ましい仕事とは思っていなかったので、不本意ではありましたが結果的にそうなりました。それに、スペインから戻って来たときは、就職氷河期で、女子学生の就職がとても難しかったのです。外国語ができるといっても、商社も当時は、女性の総合職を採っていませんでしたし。
渡辺
いえいえ、東京銀行に入られたというのは相当に優秀でなければ。でもなぜ、東京銀行を選ばれたのですか?
当時の東京銀行は、女性もその適性や能力に応じて仕事をさせるところと聞いていました。また外為専門銀行であるため、外国語も活用できますし。それから実は、当時おつきあいしていた夫が、三菱信託銀行の日本橋支店にいたので、私が東京銀行の日本橋本店に入れば、デートができるな…と。
渡辺
あら!ご主人さまとの出会いをうかがっては不躾かと控えていたのですが、そこだったんですか?
夫との出会いは教会です。私は元からのクリスチャンではなく、ICU入学後に、今は大阪の教会で牧師をされている先輩の鎌野善三先生に誘われて聖書研究会「しゃろうむ」に加わり、それがきっかけで信仰を持ちました。「しゃろうむ」の当時の仲間とは今でも年1回集まっては近況を報告し祈り合い、親しく交流を続けています。そして、受洗するために「しゃろうむ」の先輩のおすすめの教会を紹介されて、自宅近くの小金井の教会に行ったときに夫に出会いました。
渡辺
まぁ!そうだったのですね。ご主人さまは、同級生でいらっしゃるのですか?
夫とは同年ですが私は1年留学していたので、彼が先に就職していたのです。それで、東京銀行(当時)に入って、25歳で結婚しました。
渡辺
そうだったんですか!ところで、銀行の仕事はいかがでしたか?
私が目指していた言語聴覚士の仕事は、患者さんが高齢の方が多くなりますよね。社会経験を積んだ方に相対するため、自分も世界を広げなくては。そのために、社会を知ろうと思って就職したのですが、銀行の仕事もやりがいがあって楽しかったです。 私は東京銀行に就職する時、「どんなに仕事が充実していても、STになろうという気持ちが変わらなければ養成校を受験しよう」と、 STに対する自分の決意のほどを、いわば「試す」つもりでした。しかし、5年半勤め、目指していた養成校「国リハ学院」の受験上限年齢の30歳(当時)を目前にした時に、仕事を続けるか、国リハ学院に行くかをとても悩みました。悩んだ挙句、夫に相談したところ、行っておいでと言われました。
渡辺
ご主人さまのサポートあってこそ、だったのですね。今日のインタビューでも、とても感じます。
夫には、何度かとても助けてもらっています。就職するとき、国リハ学院を受験するとき、神戸大学に応募するとき、夫に相談しました。いつでも、とても前向きに、私のやりたいようにさせてくれました。
「突然の脳卒中に見舞われましたが、専門家としての知識があり、病状の理解があり、必要なリハビリへの意識があり、三拍子そろったことで、奇跡的に早い回復を遂げられたのではないかと思います。経験を通じて、セラピストとして、さらによい臨床活動ができるようになったように思います。」
渡辺
ご主人さまのサポートのもと、ミッションだと思った言語聴覚士に30歳を前に見事合格されました。その後は、神戸大学に単身赴任なさいましたが、これも大変な決意だったのではないですか?
家族と離れて生活することについてもちろん辛い気持ちはありましたが、今の時代は電子メールなどいろいろなコミュニケーションの手段があって、どこにいようとお互いに家族だから、気持ちが通い合えるはずだと思っていました。
渡辺
それは、ミッションに専念するという思いが支えとなったのでしょうか?でも…そうやってお一人で暮らされている中での、脳卒中だったのですね。
そうです。ミッションに専念しつつ研究科内外で研究科長補佐や大学評議員などの役職に就き多忙な日々を過ごしていた時に、突然脳卒中に襲われたのです。単身赴任11年目の、研究も教育も順風満帆で油の乗り切っていた時期でした。その3年前にストレスから来ると思われる心房細動(不整脈)を指摘され前夜は大学院生の指導で帰宅が遅くなりひどく疲れて帰宅したものの、当日朝はいつも通り元気に起きました。 そして、神戸の繁華街で映画館を目指して歩いていたとき、突然歩けなくなり救急車で運ばれました。脳卒中になった人はたいてい発症してしばらくの間意識を失うのですが、私の場合、ずっと意識はあって、記憶も残っています。まず、右共同偏視(両方の目が右を見ている状況)があったことと、突然、左足が動かなくなったことで、これは脳卒中だ、と思いました。その後救急車の中でもこれらの症状を分析して、「これは身体の左側を支配する右半球の損傷だな」とか、「そうであるなら、これから自分が専門としている右半球損傷の症状が起こるな」とか、考えていました。病院に運ばれて、血栓溶解療法を受けましたが、それも覚えています。断片的にですが、主治医が夫に連絡を取っているところなど、今でも覚えています。
渡辺
何が起こっているかなども、わかっていらしたんですね?
はい。例えば、右半球損傷だった場合左半側空間無視(「見えているのに左にある対象に気づかず、反応しない」という症状。無視のある患者さんは左側に置いた物を見つけられず,移動時車椅子や自分の体の左側を出入口にぶつけ,左折できない。)が出てくるな、と思いましたが、案の定出てきました。
渡辺
主治医の方と同じように、ご自身の状況を把握されていたということですね?
はい。主治医は検査データから医学的状況を確認しますが、脳損傷後に出てくる症状のリハビリが専門の私は、自分の専門領域の範囲の事柄だけですが、ある程度の状況把握はできていたと思います。後から知ったのですが、当時の私の状況は、脳を流れる3本の動脈のうち2本が詰まり、血栓溶解療法によって1本の血栓が溶けて再開通しましたが、残りの1本は詰まったままでした。もし、生命維持に関わる脳幹など他の部分に脳梗塞があれば、私は死んでいたかもしれません。また、車の運転中や、一人暮らしの自宅にいるときであれば、発見や治療も遅くなり、もっと厳しい状況だったかもしれません。現に、同時期に九州の知人の先生も研究室で倒れたのですが、発見が遅く、亡くなられているのです。
渡辺
専門の先生でも、防ぐのは難しいことなのですね。その後はどうなさったのでしょうか?
考えてみれば、私は長く患者さんと接していながら、元来病気一つせず丈夫だった自分の健康を過信して自分は病気にならないと思い込み、激務でストレスフルな大学教員生活を続けていました。疲労やストレス、不健康な生活は、生活習慣病である脳卒中の引き金になりやすいと言われています。その意味では自分の危険な状態に対する認識、いわゆる病識がなかったですね。その後、現職復帰をめざして懸命にリハビリし、10か月でもとの大学教授の仕事に復帰しました。
渡辺
それは、かなり異例な、スーパーなことではないのでしょうか?
そうですね。私の経験では、多くの脳卒中患者さんは手足の麻痺や高次脳機能障害に阻まれて発症前にしていた仕事、すなわち現職、に復帰することができず、復職時には配置転換がなされます。また、復帰の期間も発症から1年経過した時点以降のことが多く、10ヶ月で現職復帰した私は極めてまれな例と思います。急性期において適切な治療がなされたこと、大学の同僚や院生などの、リハビリの専門家集団による強力なサポートを受けたこと、それに高次脳機能障害のリハビリ専門家である私自身の知見が回復を早めた可能性もあるかと思っています。
渡辺
どういうことでしょうか?
脳梗塞で倒れた方は、通常、現れた症状がどんなものか、なぜ起こるのか、どのように対応したらよいのかという知識も経験もありません。たとえば、見えているのに対象を意識できないという半側空間無視がある患者さんは、自分が病的な状態にあるという認識(病識)もないのですね。私は、右半球損傷後にみられる左半側空間無視という症状に関する知識と臨床経験を持っており、自分がその症状を示しているという病識があり、意識して左を注意するようにしていたのです。知識、病識、意識の三拍子がそろっていたので、回復が早かったのではないかと思います。
渡辺
なるほど。しかし…専門の研究分野で、まさかご自身が患者さんになるとは思われなかったのではないですか?
そうですね。同様のリスクを抱えた同年代の患者さんと日々接していても、まさか脳卒中が自分の身に起こるとは思ってもみませんでした。
渡辺
身体面での回復が非常に早かった分、気持ちの面ではどのように対応されたのでしょうか?
脳卒中になったことに対しては「起ってしまったからには仕方がない」と思うしかないですし、出てきた症状については「脳のこの部分が損なわれたのだからこういう症状が出るのは当然だ」と思いました。もちろん、発症前はうまくできていたことが突然できなくなったことに対して、気持ちの上ではいらいらして夫にあたったりもしてしまいましたよ。
渡辺
関さんでも…。
ただ、専門家としては、知識はあっても実感のなかった症状を実際に体験できるという面では、わくわくしていました。それまでは、半側空間無視という状態がとても不思議だったのですが、今まで接した患者さんが住んでいる世界を、自分も体験できるのです。専門家が自分の専門領域の障害を実体験できる機会なんてそうありませんから、知的好奇心もあってわくわくしたのです。
渡辺
そんなふうにも思っていらしたんですか!確かに、言語聴覚士としては何人の患者さんに話を聞くよりもリアルな体験になりますが…。
その時やったこと、思ったこと、感じたことは忘れてしまわないように急いで写真や動画に残したり、録音したりメモしたりしました。 それをもとに書いたのが、今年2月に医学書院から出版した『「話せない」と言えるまで 言語聴覚士を襲った高次脳機能障害』という本です(動画と音声は出版社のHPにて公開)。
渡辺
そういったご経験は、関さんの仕事にどんなふうに影響しましたか?
患者としてリハビリを受ける側にまわった自分の経験は、これまで行なってきたセラピストとしての自分の臨床を反省するいい材料となりました。また、今度はセラピストとして対応する際に、自分の患者としての経験を振り返って嫌だと思ったことを踏まえて、より良いリハビリテーションができると思いました。患者さんの気持ちに沿うことが、前よりもできるようになったと思います。
渡辺
例えば、どんなことを嫌と思われたのでしょうか?
たとえば、急性期のことですが、「易疲労性」という状態のために私は何をするのにもとても疲れてしまいがちでした。半側空間無視は私が専門に研究し得意とする障害で、これを評価するBITという検査まで作ったほどです。また一方では、自分が作った検査を受けた無視患者さんが見せた反応をどのように解釈したらよいかも熟知していました。私は検査する意義や重要性がもちろんわかっていましたけれども、自分で自分の作った検査を受けつつ自分の反応を解釈することを同時並行で行なっていたので、どうしようもなく疲れて、検査を中止してほしいとさえ思いました。患者さんが抱く「疲れて辛い」という思いは、検査する側にはわかりにくいものです。患者さんの状態を客観的に評価するためには、統計的有意差を検出しやすいよう、同じような検査項目を多数回繰り返すことが必要です。私は疲労困憊の状態を経験しただけに、相手が疲れていそうなときには検査項目数を減らし休憩を入れるなどの心づかいができるようになったと思います。
渡辺
脳が損傷すると、想像を絶するほど疲れやすくなるということは読みました。
Jill Bolte Taylor博士の話にも出てきましたが、そのようなことはありますね。
渡辺
疲れさせてはいけない。ということですね。
はい。疲れると注意散漫になって反応も鈍くなりますし、同時に反応を起こすまでの時間もかかります。
渡辺
ご自身は、今もリハビリをされているのですか?
はい。高次脳機能障害については、自分で自分のリハビリをすることで十分ではないかと思っていますが、専門外の身体機能のリハビリについてはもちろんです。私は発症後左の手足が麻痺して、歩けず手も随意的に動きませんでした。現在、厚生労働省は脳卒中後の心身の障害につき、発症後の一定期間は改善するが、それ以降は「プラトー」と呼ばれる、練習してもパフォーマンスが上がらない横ばい状態が続くので、「一定時期以降のリハビリによる回復は望めない」という認識に基づき医療制度を構築しています。私は発症後、言葉をうまく操作できない、また左半身が麻痺して動かない状態だったのに、4年経った今ではある程度上手に意思伝達できるようになりました。また身体機能面では、歩けるようになっただけでなく、ボツリヌス療法や磁気刺激などの最新治療の甲斐あって手も少しずつ動き始めています。この事実は,発症からの期間にかかわらず全体として見れば、心身の機能の改善は長期にわたって続くことを示唆しています。ある学説によれば、手の麻痺について、一定期間後に一定の状態に達していなければ完全回復は難しい、と言われています。皮肉なことに、私はその学説を知らないままリハビリに専念したおかげで、動きが少しずつ出て来ました。要するに、あきらめてはいけない、ということでしょうね。私は最近開発された麻痺改善に効果があるといわれる方法について文献を検討し、よいと判断したものはほとんどトライしています。
渡辺
自分で試してみるというと、キュリー夫人もそうですよね。自分の身体で試そうとなさるのは、いつの時代も優れた科学者の本能なのですね…。リハビリを続けて、新たに動くようになってきたという自覚はあるのですか?
はい。手の動きは感覚的にもわかりますし、同時に定期的に写真を撮って回復の状況を客観的にみられるようにしています。脳は素晴らしい臓器です。脳はとてもやわらかくて元に戻る機能を持っているので、リハビリによって損なわれた機能の再編成ができる。その可塑性を信じてリハビリを続けていくことには意味がある、と思っています。
渡辺
とても根気のいる作業ですね。ミッションという言葉を使われましたが、何が関さんの活動を支えていらっしゃるのでしょう?
何なのでしょうね。よくわかりませんが、私はクリスチャンなので、これは神様から与えられた使命だ、自分の人生は、神様が計画されて、与えられたものだと思っています。これまでのことすべて神様のおかげだと思っているので、その考え方が支えているのかもしれませんね。先日、医学界新聞で、東京女子医科大学の名誉教授の先生と対談の機会があり、その終わりに「すべてに意味を見出している」と表現して頂きましたが、本当にそういうことだと思います。
斎藤
今回インタビューをお願いした経緯も、その対談記事なのですよ。「今を輝く」のお手伝いをしてくれている卒業生が、医学界新聞を見て、この先輩のお話を聞きたい、と推薦があって、今回のお願いをした次第なんです。
渡辺
ご主人様にも伺いたいのですが、ご家族としてはどんなふうに一緒に向き合われてきたのですか?
和義
当日、救急隊員から連絡を受けた時も、鈍感なせいか動じた記憶がありません。基本的には、人生は「死ぬまで生きる」のであって、どれも神様の掌の上のことだと思っています。何が起こってもやっていくしかない。その境遇の中で幸せや満足を考えていけばいいのではないでしょうか。
渡辺
今日はたくさんお話しいただいて、お疲れになったのではないですか?
復職して1年の間に講演や授業の機会があったので慣れてきていて、あまり疲れるわけではありません。それに、今日は私の経験と思いを聞いていただけて嬉しく思いました。ですから、大丈夫です。
和義
実は、彼女には私も息子も、議論ではずっと対抗できなかったのです。最近は、頭の中ではわかっていのに表現ができないという劣等生のいらだちが、やっとわかってもらえるようになりました(笑)
そうです。確かに、少しは人の気持ちがわかるようになったかな…と。この病気で、うまく話せない経験もしたし、効率よい動きができなくなったこともあるし、失敗を重ねて自信喪失に悩んだこともあるし、この年になって、うまくできない人の気持ちがやっとわかるようになりました。その意味ではこの病気をしてよかったなと思っています。
渡辺
お子さんがいらっしゃるんですね?
息子が一人いて、ICU卒です。
渡辺
まぁ!ご子息にはICUをどんなふうにお伝えになったのですか?
ICUに入ってクリスチャンになれ、たくさん勉強でき、一生の仕事も見つけられた。ICUはいろいろなことを学べる、リベラルアーツ教育を基盤とした素晴らしいところでしたよと。
和義
受験勉強しなくてもいいよとかね…。
渡辺
最後に現役のICU生や、ICUに関心のある若い方たちに向けたメッセージをお願いします。
私はICUが大好きです。ここで私は多くの授業に出て、たくさん勉強させてもらいました。私に与えられたミッションである言語聴覚士の仕事に就くきっかけをもらえましたし、聖書研究会での活動を通して素晴らしい仲間と出会い、キリスト教の信仰を持つこともできました。私はICUで人生の方向性を決められたと思っています。当時20でICUにいた私が、30で言語聴覚士になって、61の今、脳卒中生還者として幾多の貴重な経験を積み愛する人たちに囲まれてここにいる。本当によかったなと思います。ぜひ、ICUでそんな機会を得ていただきたいですね。


プロフィール

関 啓子(せきけいこ)
三鷹高次脳機能障害研究所所長、神戸大学大学院保健学研究科客員教授、ICU教養学部非常勤講師、国立障害者リハビリテーションセンター 学院 言語聴覚学科非常勤講師、上智大学外国語学部非常勤講師、日本言語聴覚士協会認定言語聴覚士講習会講師(失語・高次脳機能障害領域)、その他京都大学、ST養成校などで授業を担当。

1976年国際基督教大学教養学部を卒業
1981年国立障害者リハビリテーションセンター学院(国リハ学院) 聴能言語専門職員養成課程入学
1982年 同学院同課程卒業
同年(財)東京都神経科学総合研究所(現東京都医学総合研究所)入所 この間、中村記念病院(札幌市)言語室において約5年間臨床活動
1995年東邦大学大学院医学研究科から医学博士号取得(主査:岩村吉晃教授)
1999年第1回国家試験により「言語聴覚士」資格取得
同年神戸大学医学部助教授に着任
2002年医学部教授
2008年改組により神戸大学大学院保健学研究科教授
2011年神戸大学退職。 神戸大学大学院保健学研究科客員教授に就任

三鷹高次脳機能障害研究所
http://brain-mkk.net/

著書
『失語症を解く 言語聴覚士が語ることばと脳の不思議』(人文書院、2003年)
『「話せない」と言えるまで 言語聴覚士を襲った高次脳機能障害』(医学書院、2013年)
他共著多数