INTERVIEWS

第38回 有馬 利男

国連グローバル・コンパクト ボードメンバー・元富士ゼロックス社長 

プロフィール

有馬 利男(ありまとしお)
鹿児島県出身。国際基督教大学教養学部卒業。富士ゼロックス株式会社に入社し、平成4年に取締役に。常務取締役、Xerox International Partners(在米国)社長兼CEOなどを経て、平成14年に富士ゼロックス株式会社代表取締役社長に就任。その後、富士フイルムホールディングス株式会社取締役、富士ゼロックス株式会社取締役相談役などを経て、現在は、同社イグゼクティブ・アドバイザー、世界的課題である人権・労働、環境、腐敗など企業の社会的責任を推進する「国連グローバル・コンパクト」のボードメンバー、グローバル・コンパクト・ジャパン・ネットワークの代表理事、緊急人道支援組織ジャパン・プラットフォームの共同代表理事のほか、上場企業数社の社外取締役を務める。

 

実はICUのことはあまり知らなかったんですよ。でも、 東京での浪人時代に1回ICUを見に行ったんです。それで、あー、いいな、と思いましてね。
齋藤
有馬さん、出身鹿児島なんですね。びっくりしました!
有馬
そうですけど、どうして?
齋藤
いや、有馬さんは大学受験でICUを受けられたわけですが、当時、鹿児島の人がICUなんて知っているのかなと思いまして(笑)。それで、資料をみたらラサール高校出身とわかって、なるほどラサールならひょっとして知っているかもと思いました。
有馬
そうですね、でも僕は東京で浪人していた時に、ICUのことを知りました。
齋藤
あ〜、そのときなんですか。でもラサールというと普通は東大か京大っていうイメージがありますけど、そこはどうしてICUだったんですか。ICUのような最初から専門領域を決めずに幅広く学ぶというリベラルアーツに憧れてということだったんですか?
有馬
いやー、実はICUのことはあまり知らなかったんですよ。東京に4月に出てきて、その年の12月頃には嫌になって鹿児島に戻ったんです。東京にいた時にICUのことを知って、それで1回ICUのキャンパスを見に行ったんです。それで、あーいいな、と思いましてね。ただ、親に浪人させてもらったんで、普通の大学も受けて通ったということを示したいなと思って京大も受けたということです。京大も通ったんですけど、そのときにはもうICUに行きたいと思っていたんでICUに入学したのです。
渡辺
12月に嫌になって…というのは、東京を嫌だと思われたということですよね?
有馬
あの頃は僕もやんちゃでしてね。(笑)下宿をしていたのですが、当時の浪人仲間が5〜6人いてね、それでよく集まって遊んでたんですよ。12月になったらさすがに受験も近いし、そういうのが嫌になって。もう、しょうがないなという感じで鹿児島に帰っちゃったんですよ。それで、田舎で最後の受験勉強をしました。
齋藤
ラサールは中学から行かれていたんですか?
有馬
僕は高校からラサールです。その当時は高校からしかなかったんですよ。中学の頃はわりと成績は良かったのですが、サッカー部に入って毎日ボールを蹴っていました。ガリ勉タイプではありませんでした。実家は商売をしていたので、その手伝いもよくやりました。親父はもともと一等航海士で世界中の海をまわっていました。それで、結構英語も話せたんです。そういう姿には憧れていました。商船大学に行きたいと言ったこともあるんですが、父親から猛反対されまして。船乗りは一度航海に出ると半年は家に帰れないつらい仕事だと言っていました。
渡辺
部屋にこもっているよりは サッカーをしたり、お店のお手伝いをしたりと小さい頃からアクティブなタイプでいらしたのですね。
齋藤
中学・高校は成績も良くてサッカーもできて、文武両道だったのがすごいな。
ある日、先生が「有馬君、君は何をやりたいの?」と聞かれたのですが、まだわからなかったものですから、「海外に行って、良い生活をしたいです。」と答えました。するといつも柔和な先生がそのとき哀れむような顔で、「ケチな夢だね〜。」と言われたんです。
有馬
ICUで思い出すのは、神田先生の犬の話ですね。実は小学生の頃サッカーを少し習いまして、中学にはいったらすぐにサッカー部に入って、キャプテンを努めて、高校、大学でもサッカーをやっていました。ICUでは第一男子寮に入って、仲間とつき合ったりサッカーやってるのが大好きだったのです。寮の先輩に刺激されて本は随分乱読したような気がしますが、じっと打ち込んで研究するというのはあんまり好きではないんですよ。アルバイトでも体が動かせるから本館の掃除とかしてましたね。神田先生ご夫妻はICUのキャンパスに住んでおられて、アルバイトで犬の散歩してくれないかという話があってね。僕は犬が好きだったということと、体が動かせるバイトということで、そのアルバイトを始めてキャンパス内をぐるぐると散歩していました。散歩の後に神田先生の家に戻ると、毎回お茶を出してくれるんです。イギリス流アフタヌーンティーとケーキをいただきながら、ご在宅なら先生とお話ができる。僕はSSで、先生は聖書学を教えてらっしゃったので、教室では会わないんですが、散歩の後にゆっくりお話ができるというのは貴重な時間だったなと思います。ある日、先生が「有馬君、君は将来何をやりたいの?」と聞かれたのですが、あまり深い考えもなかったので「海外に行って、良い生活をしたいです。」と言うような答えをしたんです。するといつも柔和な先生がそのとき哀れむような顔で、ズバッと「ケチな夢だね〜。」と言われたんです。それで僕はびっくりしちゃってね。でもそれが僕にとってすごくインパクトがあったんですよ。それからはずっとケチじゃない夢ってなんだろうと考えていました。勉強はあまり好きじゃなかったから学者になる選択肢はない。4年になって就職のことを考え始めたんだけど、ケチじゃない夢を追いかける仕事っていうのがイメージできなくて、悩みましたね。1〜2社受けたのですが、そんな半端な気持ちだったから落ちちゃって、このままではだめだと思ったね。それで留年を決めたんですよ。それでもなにをやりたいのかよくわかんなくて悩んでいたある日、就職相談室の先生が富士ゼロックスっていう会社がある、と教えてくれたんです。誰も受ける人がいないんだけど、おもしろそうだから行ってみないかと言われましてね。それで富士ゼロックスに行ってみたんです。そこで、社員の方がうちの会社にはこんな理念があるんだと熱く語ってくれたのに強く惹かれたんです。どんな理念かというと、「我々のビジネスは人々のコミュニケーションをお手伝いする仕事である。しかし、我々のゴールはそのことを通じて、世界の人々の相互理解を推進することなのだ」、というものでした。僕はこれを聞いて、「これだ!」と思いました。「これがケチじゃない夢かもしれない!」と感じ、それでこの会社にぜひ入りたいと思ったのです。
渡辺
何か、有馬さんにフィットするものをお感じになったんですね?
有馬
他に3つほど理由がありました。まず、小さい会社だった。富士ゼロックスはまだ設立4年目のいわばベンチャー企業でした。2つ目は、強い成長力を感じたこと。富士ゼロックスは世界初のゼログラフィーという技術で新しいビジネス分野を開拓しようとしていました。加えて、アメリカ、イギリス、日本の世界3極体制でビジネスをするという点。そのような、小さくて、成長性があって、世界的な会社、そしてそれに加えて、すばらしい理念と大きな可能性があるということで、「これだ!」と思ったのです。
齋藤
ちなみに神田先生とは犬の散歩で始めて知り合ったんですか?
有馬
そうです。でも、インクリの授業や寮の先輩たちとの話しを通じて先生の話をきいてみたいという気持ちがず〜っとあったのです。
齋藤
じゃあアルバイトのきっかけは、犬の散歩をやろうと思ってやってみたら先生だったというわけではなくて、先生とお話できるチャンスだと思って犬の散歩のアルバイトをしようと思ったということですか?
有馬
そうです。寮の先輩で神田先生の家に出入りしている人がいて、その人から犬の散歩の話をきいたんです。それですぐに引き受けることにしました。ICUに入ってよかったなと思うことはいくつもありますが、神田先生の「胸に刺さる一言」に出会えたことはすごく大きいのです。
会社でも素晴らしい上司との出会いがありました。 本当にこわいボスだったけど、心はとても優しい方でした。そして厳しいけど面倒見の良い方でしたね。
渡辺
有馬さんは10期生でいらっしゃいますが、入学なさった時のICUはまだ出来て間もない頃ですよね。富士ゼロックスも有馬さんが入社なさった時はできたばかりの会社と承りました。どちらかというと歴史や伝統、権威というものに対しては反骨精神のようなものがおありだったのですか?
有馬
反骨精神かどうかはわかりませんが(笑)そういえばラサールも10期生です。僕は入社してすぐは販売本部の東京支社でした。入社試験の面接で、ICUだから英語で質問するからと。それで、どんな仕事をやりたいんだと聞かれたけれど、僕は会社というものがよくわかっていなかったのです。親もサラリーマンではなく知る機会がなかった。それで困ってwell...とかって言ったら、salesかと言われてYES!と答えちゃったんです。それで営業の新人研修が3ヶ月ほどありました。そこに先輩の営業マンが時々やってきて話しをしてくれるのですが、その話が理念とあまりにもかけ離れていたのです。僕はもともと会社の理念に憧れて入社したのに、あまりにヒドイ。「こんなんだったら営業やりたくない!」と教育部の責任者宛に手紙を書いちゃったんですよね(笑)。それが影響したのかどうかわかりませんが、僕は結局配属先はセールスではなくて支社長のスタッフになったのです。それで、支社に出勤したら支社長の鈴木さんが本社と正面衝突をしていました。その頃、ゼログラフィー技術を日本企業がキャッチアップし始めて、市場では熾烈な競争が始まっていた。しかし本社はそのような現状をあまり理解せず、独占技術の思い込みがあった。鈴木さんは、その現状を踏まえて、もっとお客様を大切にする対策を打つべきだと訴えていた訳です。鈴木さん配下の現場の意見を吸い上げる会議を毎週夜9時頃迄やる。私はそれをもとに夜中までかかって提言書を書いて翌朝、朝一で鈴木さんに見てもらって、それを本社の営業本部長のところに持ってゆく。こんなことを数ヶ月やりました。鈴木さんは今ではもう亡くなられているんですが、今でも鈴木さんを慕っていた仲間で年に2回ぐらい集まって、40年も前のことを忍びながら鈴木さんの奥さんや息子さんを囲んで食事をしたりするんです。
齋藤
そうでうか〜。それはあんまりないことですよね!
渡辺
素敵ですね…。鈴木さんのその魅力は、言葉にするどのようなものなんでしょうか?
有馬
新人のフレッシュな時に、鈴木さんの現場とお客様を重視する姿勢、そして正しいことは相手が誰でも逃げずに主張する姿に接したことは貴重でした。本当にこわいボスだったけど、心はとても優しい方でした。鈴木さんの提言は随分採用されたのですが、一段落して、支社長のチームは解散させられました。支社長は専務づきといういわば閑職に、何人かいたスタッフは皆転勤、私は、提言の相手方である本社中枢の部門で、小林陽太郎さん(後の代表取締役社長)の企画部への移動辞令を渡されました。
齋藤
当時の小林さんはどういう方だったのですか。
有馬
企画部次長をしておられました。次長といっても実際に小林さんが仕切っていましたね。僕は現場やお客様のことも分らないような本社に行くのはいやだと言って、誰もいなくなった東京支社のオフィスに毎日一人で座っていましたね。(笑)ひと月ぐらいそうやっていたら鈴木さんに、「有馬君、いい加減本社へ行ってくれよ」と言われてしょうがなく本社へ行きましたね。
渡辺
伺っていると、ICUの神田先生や、入社後の鈴木さんや小林さんとの出会いなど、有馬さんにとってその時々の出会いが最も大きかったのですね。
有馬
まさにその通りです。
渡辺
ただ…有馬さんは鈴木さんのもとで本社と戦っていらしたわけで、本社の小林さんは有馬さんのことを、これは見込みがあるなとお思いになっていたと思いますが、有馬さんのなかには敵意に似たものがおありでしたよね?(笑)ゆくゆくはすばらしい出会いとなった小林さんの最初の印象は、有馬さんにとってどんなだったのでしょうか?
有馬
かっこいいなーという印象でしたね。仕事もばりばりできて背も高くて、経営会議なんかでレベルの低い議論をしていると、News Weekなんかを横で読んでいる、ウオートンビジネススクールを卒業されたばかりでした。企画部では新商品企画のプランナーでしたが、2年ぐらいして、親会社であるXEROX社の商品企画部門に出向になりました。
齋藤
それは有馬さんがICUでやっぱり英語ができたからということなんですか?
有馬
英語はできなかった、ICU基準で言えばね(笑)。でも出来たばかりで寄せ集めの人材集団の、富士ゼロックスの中ではできたほうだったかもしれません。
齋藤
それじゃあ、アメリカに行けといわれたのは英語以外の別の要素だったんでしょうか。
有馬
どうでしょうね〜、まぁ、使えると思ってもらえたんでしょうかね(笑)。
大きな会社の中で出世しようとかは僕の中にはないかな。自分でなにかをつくっていくようなことのほうが好きだからね。なにかエキサイティングなことがしたいと思うことが多いから、めげることもあまりないかもしれないですね。
齋藤
会社は最初みんな同じラインからスタートするわけじゃないですか。でもその中で社長になる人もいれば部長で終わる人もいる、もちろん形だけの役職みたいなもので終わる人もいる。この違いってなんなんだろうっていう点に非常に興味があります。単に努力すればいいってものでもなくて、きっとなにかあるんじゃないかと思うんですよ。僕は自分自身の立ち位置というか生き方というのか、そのようなものをしっかりと持っていることが大事なのかなと思うんですが、どうなんでしょうね。
有馬
小林さんが何人か見込んで鍛えていたというのはありますね。1970年代に、企画部などの中枢組織に課長や部長としてアサインした人達が、ほとんどその後社長や上級の経営幹部になっています。やっぱり小林さんの人を見る目というのは優れていたと思いますね。
齋藤
これはぜひ小林さんに聞いてみたいところですね〜。どういう基準で選んでいるのかという点は気になりますね。
渡辺
齋藤さんはマッキンゼーで経営コンサルタントとしてコンサルティングをなさっている中で、出世が一概に幸せには直結はしないかもしれないけれど、それでも個人で差がついていくということに根本的に注意を払っていらっしゃって。私はどちらかというとヒューマニティーズ出身なので、あまりその社会的地位とか、本当はもっと敬意を払わないといけないと思いながらも、どんな人柄なのだろうとか、失敗したときにどのように乗り越えられるのだろうというような精神面や人間性に興味がわいてしまうので、質問が分かれてしまって申し訳ありません(笑)。
齋藤
いや、そこは見方が違うだけで一緒のことだと思うよ(笑)。いろんな失敗を乗り越えた人が、結局より高い役割を与えらえるようになるんやからね。
渡辺
有馬さんはおそらく鈴木さんがいらっしゃらなくなった支社に1ヶ月居座られるとか、営業は嫌だと主張なさる時は、社長になることなど視野にいれていらっしゃらないですよね。
有馬
全くないですね。僕は東京支社で正面対決のお手伝いをしているときでも、会社がダメなら田舎に帰って店でも手伝おうかと考えていましたからね。(笑)大きな会社の中で出世しようとかは僕の中にはなかったかな。自分でなにかをつくっていくようなことのほうが好きでしたからね。
渡辺
でも実際、そういう有馬さんだからこそ見込まれて任されることがあるわけですよね…社長におなりになることは嫌ではなかったのですよね?念のため(笑)。
有馬
例えばね、XIPというのは僕がつくった会社だと自分では思っている。富士ゼロックスは、ゼロックスとの間でテリトリー分けをしており、商売できるテリトリーが日本とアジア・オセアニア地域と決まっている。私にとっては、なんとか欧米のテリトリーの中で直接仕事をしたいという夢がありました。営業をやったあと、企画部長として本社に戻ってきたとき、ゼロックスと交渉して、一つの方法として生み出したのが、親会社のゼロックスと合弁会社をつくるということでした。アメリカや、世界中で直接仕事ができる仕組みをつくろうと思ったのです。2年近くXEROXと激論を繰り広げてつくり上げたのが、XIPなんですよ。で、その会社の社長になって、アメリカ西海岸のシリコンバレーで仕事をしていました。僕としてはやりたい夢を実現したという感じですね。やっぱりなにかしたいっていうのはあるんでしょうね。現状を変えたいというか。
渡辺
ブレイクスルーしていくということなんですね。
有馬
それだけにXIPには色々なバリアーがあった。小林さんも応援してくれて、いざとなったら僕が出るからと言ってくれて、実際に出てもらったことも何回かありました(笑)。僕はグリーンカードもとって、アメリカでずっとやっていくんだと宣言していたんですが、社長をやってくれと言われたとき、富士ゼロックスはもうこのままでは赤字転落しかないと言われていました。それで、立て直しをしないといけないとなって、それはそれでやってみようかなと。
渡辺
全く知らない外部の人間からみたら、順風満帆のエリートコースを歩んでらっしゃるように見えると思うんです。ただ、今すこし伺っただけでもハードでない時期はないような生活だったのではないでしょうか。
有馬
それはそうですけども、余り苦労したという感じはありませんね。やっぱり最初の理念に憧れてっていうのが大きいですね。仕事をするのは、会社の利益を出すことが目的ではない。もっと意味のあることをしたいという思いがあった。いつも会社ってなんのためにあるのか?って自問自答していたような気がします。
齋藤
僕の大学院の生徒にも、どのように自分を鼓舞していくのか?という質問は割と多いのですが、自分をいかに前進し続けるかという秘訣のようなものはありますか。
渡辺
ご自分のやりたいことがはっきりしていて、プラス実行力も集中力も備えていらした…。
有馬
70年代の末頃、僕は経営企画課長だったんですが、ステークホルダーの要求に応える経営とはどういうものかと言う議論をして、コンセプトを考えたりしました。それ以来ずっとCSRにとても興味を持っていました。
齋藤
確かに富士ゼロックスはこの取り組みが早かったですよね!
有馬
70年代の末、このような考え方は日本でまだ浸透していなかったですね。日本では、CSRというよりも大気汚染防止とかが強かったね。
渡辺
どうしてそんなに早い時期に有馬さんはCSRに取り組まれたのですか?
有馬
それは小林さんの影響ですね。1978年頃、ステークホルダーの期待や要求というコンセプトを教えてもらいましたが、これに応えてゆく経営というのは結局、事業の本流の中に社会性や人に対する配慮と経済性とを統合的に盛り込んでゆくことになるという考え方。 当時は全社TQCでデミング賞にチャレンジしていた頃で、私は、これこそが、企業全体としての品質レベルを表すのではないかと考えて、これを企業品質と呼ぶことにしました。当時企画課長だったんですけど、企業品質を事業部門に迄展開する方法論を考えて全社で進めようとしました。でもちょっとこりすぎて、わかりにくくなってあまり浸透しなかったんだよね(笑)。2002年に社長になってから、経営立て直しのために厳しい経営変革をやったんだけど、社員からは経営変革をやる目的はなんですか、という話がたくさん出てきてね。それで、リストラをして稼げればいいということではない、企業は、社会のために存在する。その社会性と人間性を尊重するためにも、競合に負けない強い企業力が不可欠だと言う、企業品質の概念をもう一度全社で確認しました。今では、それが、富士ゼロックス全社のCSR理念になっています。
けちじゃない夢をもってほしいですね。就職する人に対しては、大企業じゃなくて、夢のあるポテンシャルの高い企業で一緒に成長することを目指してほしいですね。
渡辺
最後にICUの在校生や、これからICUを目指そうと思っている学生のみなさんにメッセージをお願いします。
有馬
やっぱり、けちじゃない夢をもってほしいですね。就職する人に対しては、出来上がった大企業じゃなくて、夢のあるポテンシャルの高い企業とで一緒に成長することを目指してほしいですね。
渡辺
特にここ数年、大企業に入りたいとか無難に生きたいという傾向がつよくなってきているという傾向が数字に表れています。実際に経済状況も社会情勢も、若い世代がそう考えても仕方ない状況ではあると思いますが、その点に関してはどのようにお考えですか。
有馬
大企業病というのがありますけど、個人も大会社社会病になっているんじゃないかなって思いますね。だからICUみたいな固定化していない自由な環境が貴重なものとなると思います。
渡辺
有馬さんの働き方が生き甲斐と重なっていらした秘訣は。齋藤さんはどうお考えになりますか。
齋藤
神田先生とか小林さんとかっていう人が、世の中に少なくなってきたんですね。自分なりの信念をしっかりと持っているから時には人に対して厳しく、でもかっこいいって人が少なくなってきたと思いますね。30年前はクライアントの社員に「この会社の中でこのような先輩に成りたいって思う人っている?」って質問をするとすぐに、先輩の誰々さんのように成りたいという返事が返ってきたものです。でも今は聞いても「いません」って言うんですよね。何事も損得で考える人が多くなってきたように思います。頑張ってもしんどいだけで、報われない。むしろ体制の流れの中に身を置いた方が自分にとって利益になるのかも、って思う人たちが多くなってきた。だから逆にね、僕らが発信していかないといけないなと思います。確かに会社の業績を高めるためには情報を集めたり分析したりして成功確率の高い施策を考え出して行くことは必須ではあるんだけど、実行するのは従業員だし、施策自体とか施策の実現に取り組む情熱みたいなものに感動を覚えないと誰もやらない。結局会社を変えていくことは人間力だと思うし、感動を与えるものでないといけないと思うんですよね。
渡辺
今日は本当にお忙しいところをありがとうございました。
齋藤
ありがとうございました。


プロフィール

有馬 利男(ありまとしお)
鹿児島県出身。国際基督教大学教養学部卒業。富士ゼロックス株式会社に入社し、平成4年に取締役に。常務取締役、Xerox International Partners(在米国)社長兼CEOなどを経て、平成14年に富士ゼロックス株式会社代表取締役社長に就任。その後、富士フイルムホールディングス株式会社取締役、富士ゼロックス株式会社取締役相談役などを経て、現在は、同社イグゼクティブ・アドバイザー、世界的課題である人権・労働、環境、腐敗など企業の社会的責任を推進する「国連グローバル・コンパクト」のボードメンバー、グローバル・コンパクト・ジャパン・ネットワークの代表理事、緊急人道支援組織ジャパン・プラットフォームの共同代表理事のほか、上場企業数社の社外取締役を務める。

グローバル・コンパクト・ジャパン・ネットワーク
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グローバル・コンパクト・ジャパン・ネットワーク 代表理事挨拶
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特定非営利活動法人 ジャパン・プラットフォーム
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