INTERVIEWS

第12回 秋山 豊寛

日本人初宇宙飛行士, ジャーナリスト

プロフィール

秋山 豊寛(あきやま とよひろ)
66年社会科学科卒業後、TBSに入社。ロンドン駐在、外信部、政治部、ワシントン支局長などを経験し、90年、日本人初の宇宙飛行士として宇宙船ソユーズに搭乗。ジャーナリストとして宇宙船、宇宙ステーションの取材を行った。

 

はじめて秋山さんとお会いしたのは、秋山さんが宇宙にいらしたときなんです。
齋藤
秋山さん、今日はわざわざありがとうございます。秋山さんは真理さんのTBSの先輩にあたるんですよね。お二人は会社にいたときからのお知り合いなんですか?
渡辺
秋山さんに初めてお目にかかったのは、秋山さんが宇宙にいらっしゃったときなんです。だから正確には、お目にかかったんじゃなくて通信させていただいた、ですね(笑)。 私が入社した年(1990年)は12月に予定していた宇宙特番に向けて全社で取組んでいました。アナウンス部でも、打ち上げ、ソビエトの中継や日本のスタジオなど役割分担が割り振られていて。そのなかの1つの特集で宇宙にいらっしゃる秋山さんから垂直線を降ろした地球の地点をからアナウンサーの三雲孝江さんが中継して秋山さんと会話するという企画がありました。つまり、一週間くらいで三雲さんは世界一周しないといけないわけで、一箇所だけ、どうしても距離上、間に合わなくて中継できない場所があったんです。かと言って他のアナウンサー諸先輩は皆役割りが決まってしまっていて…あろうことか、研修中の新入社員で画面に出たこともない私が担当することになったのです。 本番直前に出来上がった決定稿の台本を20冊を「無くしたら大変だから機内持ち込みして」と言われ、前日まで仕事だったので上手い乗り継ぎが出来ず、ダラス、フロリダ、ペルーのリマという強行空路で行きました。「私がいけなくなったり、迷子になったらどうするんだろう・・・」と思いながら、バックパッカーみたいに一人“とぼとぼ”ペルーのリマに行ったことを覚えています。 なんとか辿りついて、地球から「あきやまさん〜リマの『わたなべまり』です〜」といったのが初めての秋山さんとの出会いでした。
齋藤
へ〜(笑)、それは、面白い。まさに縁があるのですね。
秋山
(笑)。はは、僕も調子がいいもんだから、真理さんとは初めて言葉を交わすのに、「まりさん〜、秋山です。」って宇宙から言ってましたよ。
TV界を「安定した職場」と捉えると“糞詰まり”になる。「TVって何なんだろう?」という問いを持っていることが大事なんじゃないかな。
渡辺
秋山さん、TVの現場から離れて、今、視聴者としてTVをご覧になっていていかがでしょう?どうお感じになりますか?
秋山
いやね。今のTVが面白い面白くないは別として、僕は、「TVって何だろう?」ということに対して、TV界がわりかし早いうちに答えを出してしまったように感じています。僕は民間放送しか知らないので、NHKはどうなのかはわかりませんが。 つまり、可能性を突き詰める前にTVが単なる金儲けの手段になってしまい、番組を制作する現場にもそれが影響し、「TVの可能性を追求する」という意欲そのものさえ消えてしまったのがこの20年来の流れなんだという気がしています。時代そのものが欲望のタガを外す、欲望をほり起す方向に進むなかで、民放の場合、TVは浪費社会の欲望拡大生産装置になってしまっている。公益より商業主義が優先される時代の流れにTVは正面から巻き込まれてしまったのだと思いますよ。
渡辺
商業主義が加速する中でTV界も例外ではなく、というか先頭を切って”ものづくり”をその価値の尺に納め込んでる感じなのでしょうか。どこの局がどうとか、ということではなく、予算を切り詰めて番組を作るという何かが転倒した中で、作り手は閉塞感に苛まれてる気がします。
秋山
「昔は良かった」になってしまうかもしれませんが、私が会社に入った1960年代はTBSは面白かった。70年代になると、あのマクルーハンの「メディアはメッセージ」「テレビによって世界中が一つの村になる」なんて発想が人々の意識に入って、「TVの可能性は何だろう」なんて入社したての私のようなチンピラも考えた。テレビマンユニオンという志を持った制作者の集団もできたし。 今は昔とは時代が違うというかもしれませんが、「TVとは何か?」という問いをもたず、TV界を「安定した職場」の一つなんて腹の底で考える人の集まりでは、創造性のない“糞詰まり”になってしまうんだと思います。 まぁ、以前はテレビ局の経営と収入が右肩上がりで余裕があったんでしょうね。1990年頃、上司から「おぃ、秋山、なんか金のかかるPJがないか」と言われていたくらい(笑)。TBSはあの頃、世界初、日本初のものをやろうということを考えていた。でも、バブルが崩壊し収入が減って以降、けちけちしなくてはいけない仕事をせざるを得なくなり面白くなくなった。
渡辺
そんな時代もあったのですよね。そういう、なんというか、やんちゃなプライドは愛おしくて、大事なものですよね。
僕の場合、「好奇心」を軸に生きている。だから、俺じゃなくてもできることをやらされると、「何で俺がやらなくてはいけないのか」と思ってしまう。
渡辺
それにしても・・・秋山さんは管理職が“向いていない”とは言えないけれども、“向いている”ともいえませんよね。
秋山
やったこともあるんだよ!
渡辺
いえいえ(笑)、申し上げたいのは、秋山さんには管理職はちょっと…という意味じゃなくて、管理職に秋山さんは納まりきらないだろうな〜ということです。
秋山
僕の場合、「好奇心」を軸に生きている。だからかなりナマイキにとられそうですが、「俺じゃなくてもできることを何で俺がやらなくてはいけないのか」と思ってしまう。管理職になって部下に対して「このタクシー代は何故か。お前は金を使いすぎている・・・」みたいなことを「何故やらなくてはいけないのか?」と思ってしまう。 TBSを辞めたくなったのは、金儲けに関心のない俺なんて会社としては使いづらいだろうなという気がしたから。だから、管理職になったときに、会社を辞めようと思った。・・・でも、他にやりたい人も沢山いるかもしれないし、局長の次のポストであるセンター長になってすぐに辞めたら「アイツ恐くなったのじゃないか」って思われるかもしれないし、「男の子」としてかっこ悪いからね(笑)。
渡辺
「男の子」ってみんなそんな風に考えるんですね(笑)。
秋山
これがサラリーマンの悲しいところ、横並びになったときに、「あいつ、その任に耐えれなかった」といわれるのが癪だと思ってすぐには辞めなかったのです(笑)。
渡辺
できるってことはちゃんと見せたいと思われる気持ちも分からなくはないです(笑)。
秋山
で、とりあえず、2年もやれば十分だろう、ということで、2年しっかりやって辞めてしまった。
宇宙に関する取材にいって、「宇宙を取材するなら、宇宙ステーションに行ったらどうか」という宇宙産業の責任者の一言がTBSの宇宙飛行PJのはじまり。
齋藤
そもそも宇宙の話はどこからでてきたのでしょうか?
秋山
先ほどお話ししたとおり、80年代から90年代のはじめまではバブルの時代、だからTVもできるだけ思い切ったことをやれる、というのが、風潮としてあった。
齋藤
そうですよね、TVだけではなく、世の中全体そうでしたよね。
秋山
一般の会社が儲かったら何に使うかというと、従業員の福利厚生の質や給料を上げて個人消費拡大に貢献、その次に広告費にも流れる。広告費が伸びる場合、今でもそういう傾向でしょうが、まずTV、ラジオ、次に新聞、雑誌じゃないですか。80年代は雑誌の創刊が多かった時代です。営業収入がたくさんあるから僕らは現場でお金を使うことができた。つまり、“でっかい”PJが実施できた。当時は、時間をかけて取材をすることは現場にとって不思議のない時代でした。取材チームがバイコヌールという宇宙基地の取材の現場で宇宙開発の責任者である担当大臣と出会った。で、「宇宙を取材するなら、宇宙ステーションにいったらどうか」、というきっかけがあったのが88年の秋なんです。
齋藤
それはすごいですね、それってロシアなんですか?
秋山
そう、まだソビエト社会主義共和国連邦でした。話が進んで89年の3月に調印して、89年の夏までに候補者を選び、モスクワで候補者の訓練をするということになった。
齋藤
そうすると、乗られた宇宙船はロシアだったのですね、僕は、ず〜っと、NASAだと思っていた・・・。そうなんですか。 宇宙に行くときにそれを本気にしたっていうのはどこからなんでしょう?普通だったら、「冗談?」って思われるんじゃないですか。お金なんぼかかるかって聞きました?
秋山
今アメリカの民間企業スペースアドベンチャーがロシアの有人宇宙旅行を実施する“民間会社”と協力して宇宙旅行に行くというプログラムをしているのですが、それが大体2000万ドル、もう4、5人宇宙に行っていますね。当時、TBSの責任者が費用について、ある記者に「1000万ドル程度ですか?」と聞かれ、「当たらずとも遠からず」と答えたことを参考にしてください(笑)。
齋藤
へ〜そうなんですね、そんなにかかるんですね。
秋山
アメリカのシャトルに比べてすごい安いんですよ。シャトルは1回の打ち上げで500億円かかるんです。毛利さんが行ったときは、日本政府は270億円NASAに払った、向井さんのときは72億円払っている。大体宇宙飛行士のNASAでの訓練は1〜2億円と言われています。
齋藤
そんなにかかるんだ!それはびっくりです。
宇宙飛行士になるためには、「健康な体」であることが大事。僕が選ばれたのも、TV局の人間がいかに不健康で半病人だったかってことだね。
齋藤
秋山さんは訓練を受けられたんですよね。
秋山
14ヶ月ね、訓練を受けました。
齋藤
秋山さんが宇宙飛行士になれたのは何故なのか、僕は不思議でしょうがありません。当時おいくつでしたか?
秋山
46歳ですよ。
齋藤
46歳でなんでできたのか?これで秋山さんが36歳なら面白い話でもなんでもない。14ヶ月のトレーニングで、47歳過ぎてから宇宙に行った。あの訓練って、結構過酷なんですよね?
秋山
いや、別に過酷な戦場に送られるレンジャー部隊の隊員になるわけではない。普通の体で健康であることが大事。こんなおじさんが選ばれるのはTV局の人間がいかに不健康で半病人だったのか、ということでしょうね。社内公募をしたら500人集まって審査をして次に100人になった、それで、21人に絞った。
齋藤
そのときは女性もいらっしゃったのですか?
秋山
それは皆公平でした。民主的に、“おじさん”も“おばさん”も皆参加しました。で、選ばれて最後に21人になったときに、僕は、その21人に入っていた。
齋藤
他の方はおいくつくらいだったのですか?
秋山
20代の後半から30代前半、という斎藤さんのおっしゃる常識の範囲の年代。
齋藤
それは“おじさん”には勇気のでる話ですね〜!
秋山
次に7人に絞ったときに僕は一度落とされたんです。落とされた理由が「胃に潰瘍の後がある」ということ。それで僕は怒り狂ったんです。「報道で20数年仕事をして、胃に潰瘍があることはまともに仕事をした証拠。今潰瘍があるのは問題だが、潰瘍の痕があるのは何故駄目なのか!」と、いう気分でした。その後、7人全員をソビエトの医師団が来てチェックをして落選。敗者復活ということで最終チェックの7人にもぐり込めた。
ロシア語はできなかった。でも言葉の一対一対応ではなく、概念の枠というふわっとしたものでもコミュニケートできる。ロシア語を知らなくても僕は“ごまかし”が利いたんです。
齋藤
ほぉ。それにしても、秋山さんが選ばれた理由は何だったのでしょうか?
秋山
やはり(笑)、病気がない、ことなのでしょうね。 あのですね、僕の肉体について補足的に言いますと、僕は「軍国少年」とからかわれるくらいに戦闘機が大好きで、記者時代、防衛庁の担当の時、どうしても戦闘機に乗りたくて防衛庁の航空自衛隊の人と交渉したことがあって、その時「秋山さん、乗ることができるかどうかをテストしましょう」ということになった。立川の航空医学実験隊で、テストを受けました。高度何千mの減圧テスト、Gテストも全部やって、すごく良い成績だった。「秋山さん、パイロットになっても結構いい線行きましたよ」といわれたんです。だから僕は宇宙飛行士のテストにもある程度自信がありました。宇宙飛行士のテストのときも、僕は耳抜きが上手だったので、高度5000mも、頑張って6000mでも大丈夫だったのです。 もうひとつは、僕はロンドンに3年いたし、ワシントンに4年いたし、ICUにも5年いたこともあり外人慣れをしていました。異文化の中に暮らすことで格別緊張感はなかったし、言葉についても想像力があった。相手が冗談で言っているのか、本気で言っているのか、彼らの望んでいることは何か対応する勘のような力があったようです。ロシア人は初めてだったが他の20代とか30代前半のほかの候補者に比べて、まぁ世慣れてたんでしょう。
齋藤
そのときは、ロシアの人とは英語で会話ですか?
秋山
ロシア語、カタコトですけど。 でも考えてみてください、言葉というのは一対一対応ではないでしょう。すべて完璧にわからずとも、大体のところは理解できるものなんです。
渡辺
コミュニケートできる、ということが大事ということですか?
秋山
「相手の要望が何か、自分がどのようにResponseすれば、それを受け答えとして、相手が“感じてくれる”か」が大事なんじゃあないですか。
齋藤
14ヶ月ロシアで訓練したんですよね?
秋山
ロシアにいたときは、菊池さんというライバルがいた。当時27歳、女性。報道で海外駐在の経験はない。彼女は、はじめカメラマンでした。二人のうちどちらが飛ぶのかを最終的に決めたのはTBS。
渡辺
最終的にはTBSに聞かないとわからないことなのでしょうね。事実として秋山さんが「なるべくしてなった」以外、全ての理由を文字化することは難しいのかもしれません。会社として、身体的・精神的に乗り切れる可能性の最も高い特派員を宇宙に送ることが必要という譲れない決断だったのでしょうね。
宇宙での第一声は「これ本番ですか?」
齋藤
で、宇宙に行かれて、はじめの一声が何ですか?
渡辺
これ本にもなりました! 「これ本番ですか?」でしたね。
秋山
実は第一声について、僕は事前に「宇宙船からみる地球は混沌としている・・・」などと本番の予定原稿で書いていたんです・・・。でも、「これ本番ですか?」というのが、第一声に結果的になってしまった。
齋藤
なんでなんですか?
秋山
というのも、TVの生放送の場合、正式のオン・エアのスタート前に必ず連絡回線をとって打ち合わせをする。あの時は、あと10秒後に松永さんというアナウンサーから「アキヤマサン!」という呼びかけがあってスタート、といわれていたのに、その5秒後に「アキヤマサン」という声がしたので、業務連絡かと思って、「これ本番ですか?」と聞きました。そしたら、松永さんが、「今のが第一声です」といってしまった。それが第一声になった。
齋藤
へ〜そうなんですか・・・!そんなこともあるんですね。
僕の見た地球は弧を描いていた。 そして、宇宙の「黒」のほんとうの闇に目を奪われた。
齋藤
ちなみに、宇宙はいろんな人がいろんなことが言われていますが、秋山さんにとってはどんな感じだったですか?
秋山
全世界で、宇宙に行った人は480〜500人近い、僕は243番目。 地球の直径は1万3千km、宇宙ステーションが飛ぶのは地上400km。先日ニュースにあったような「かぐや」が見たような、丸い地球を見た人は、人類で24人しかいないんです。
齋藤
へ〜そうなんですか。「かぐや」感動的でした。
秋山
アポロ宇宙船で月までいった宇宙飛行士は地球が丸いのを視ています。3万6千キロ離れれば丸い地球がみえる(笑)。恋人でもその通り・・近づきすぎたら額しか見えない、だからときには離れてみることが大事。 だから僕が地球がどんな形に「見えた」のかと聞かれれば、正直に答えれば、「亀の甲羅」と言うしかない。 感動したのは大気の部分。もちろん行く前に地球の映像をみています。今はカメラの性能が高くなり地球のヘリの大気の青い部分まで見えているが、僕らの頃は、大抵の写真は地球があってあとは闇。地球を取り巻く大気のその薄い膜が写真に写っていることは殆どなかった。だから、青く見える大気がやっぱり、一番感激で、「あ〜そういうことなのか」と思った。 あとは宇宙の闇が印象的。宇宙船の操縦席の近くに窓があって、その窓から、はじめに見えたのは闇。
齋藤
まっくら、なんでですか?
秋山
打ち上げが午前中の打ち上げだったので、太陽の光が明るすぎて、星が見えない。だから、しぶ紙の紙みたいな黒ではなく、透明感のある黒。テレビの液晶みたいな黒、遠くまでずっとずっと続いている黒。 で、次に昼間だけど、お月様が見えた。その後地球。地球を見ながら気がついたのが大気です。地上に近い明るいブルーから背景の宇宙の闇が重なってブルーが少しずつ濃くなっていく色のグラデーションが あり、なんというか、深みのある光景に圧倒されました。
「とうとうやったぜ!」ロケットが飛び立ったとき思いました。
齋藤
宇宙で、そのときに感じられたことは何か、「神を近く感じた」、「良くぞ俺は宇宙に来た!」とか。どんなことを感じたんですか?
秋山
ロケットの先端に宇宙船がとりつけられています。その地上50mのところまでエレベーターで上っていって、宇宙船の操縦席に座ったときに、まず、「いよいよ本番だ」と思った。それから、自分が担当する機材のチェックをして打ち上げ1分前にカウントダウンがヘッドホーンを通じて聞こえてくる。一般的に「3秒前」ストップということがあります。内心どきどきしていた。アメリカのシャトルだと、「5・4・ストップ」となり延期になったこもある。ある宇宙飛行士は延期になり、その後、再度シャトルに乗る当日に風邪をひいて乗れなかったことを聞いたことがあります。 ただ、僕の場合は、ロシアとしてもナマ中継をやっていて、はじめてフランス以外の所謂「西側陣営」を乗せているということで精一杯頑張るだろうと思っており順調だろうという確信はあった。 それでも、カウントダウンが「ゼロ」となったとき、「とうとうやったぜ!」という喜びはこみあげてきましたね。ひょっとしたら飛べなくなるかもしれない、と感じたこともあったので、空にのぼっていくときに、「やったぞ!」という気持ちがじわじわと湧いてきました。
「ジャーナリズムは歴史のスケッチ」という張教授の言葉が、僕がTBSに入るきっかけとなった。
齋藤
TBSに入るきっかけは何かあったのですか?
秋山
単純明快。東京から離れるのが嫌で、東京の会社に入りたかった。僕は性格が悪いからNHKみたいな大組織に入ると死ぬまで地方局周りだろう、新聞社に入っても一般的に夕刊のない支局に2年で夕刊のある支局に2年いて、大体5年目くらいで運が良ければ東京に戻ってこれる、という話だから、僕は東京に戻れないかもしれない、そんなことを考え、TBSの試験を受けました。
齋藤
それでは、そもそも報道をやりたいということで、TV局に入社されたのですか?
秋山
それはそうなんですが、僕は学生の頃思想史の研究者になりたかった。でも、最近でこそ思想史の先生も色んな大学にいるかもしれないけど、40年前は思想史がまだ草分けの時代。そこで研究者になったとしても、飯も食えるかわからない世界。それで、当時僕のアドバイザーの長清子先生に相談したら、「秋山君、学者の世界は大変だよ。それよりもジャーナリズムはどう、歴史のスケッチなのよ。」と、泣かせ言葉を言ってくれたんですよ。
齋藤
張清子先生ですよね?!そんな素晴らしいことを言われたんですね。秋山さんは、人文科学科ですか?
秋山
社会科学科です。語学科から社会科学科に転科しました。
大学の入る間口を広げることがInternationalの原点だと思う。 格差社会のなかでもICUにははやり、本来あったように、“入りやすさ”、“異質な面白い人間が集まる”場を提供してもらいたい。
齋藤
また、なんでICUだったのですか?
秋山
実は、高校卒業後に就職をするつもりだったのです。ところが、ある先生に「大学くらいはいったほうが良い」と言われて、所謂受験勉強は高校3年のときにはじめた。 大学は受かるかわからないし、浪人はできないので、3年の2学期に横浜の職業訓練所の外国語秘書コースを受けて合格しました。その訓練所は、2年間月6000円ずつ給与を貰いながら、英語を学べ、英語の秘書になるということで、大学に受からなくともセーフティネットは張ってあった。まぁ、そんな状況で、受験勉強はしていないから、大学受験は大変だったんです。高校の先生で、「大学にいったほうがよいよ」といってくれた先生が、たまたまICUで英語の講習を受けたことがあって、「あそこの大学はきれいだぞ。試験も他とは違うから君ならできる」と勇気付けてくれました。
齋藤
高校はどちらですか?
秋山
目黒の不動前にある攻玉社高等学校。で、ICUを受験したら受かってしまった。で、奨学金も貰えそうだった。
齋藤
当時、学費も他の大学と比べて安かったですよね。
秋山
ICUの学費は、初年度4月に必要なのが3万3千円で東大が確か13000円。私立大学としては非常に安かった。次が中央大学の法学部が4万円台、慶応大学の文学部は6万円でした。 ICUの在学中に授業料値上げ反対運動は2回ありました。当時同世代の1割強しか大学生になれなかった。学費の値上げは経済的に苦しい家庭からICUに来る人が少なくなると心配しました。それは非常に重要。僕は、入学した後に奨学金があるよといわれるより、入りやすさが大事だと思うのです。世の中が均質化していると考えるのは幻想で、実は格差化は大きい。教育をちゃんと受けられる人とそうでない人の差が激しくなってきている。現代社会では、ものすごく経済的な要因がその人が行く大学のレベルを限定してしまっている。でも、社会はいろんな変な人が集まるから面白い。例えば、そこにいる学生皆が同じ東京出身だと面白くない、地方の推薦入学があるからこそ、面白い。学校の成績と社会での活動は別問題。いろんな異質な人がいるから面白い、International ならば、間口を広げ、バックグランドの異質さを大事にすることが大事だと思う。それをどうやるかは大学が考えるべき。
僕らの若いころは、何かおかしいことがあったら、すぐにデモをした。 「世の中は俺らが変える」という意識があった。
齋藤
今の秋山さんを作ったのはいつの頃なのでしょうか。
秋山
高校のときに、何故俺より成績の悪いやつが当たり前のように大学にいくのか、という想いがあった。大学に入ってからはっきりしたのは学ぶことの楽しさ、知ることの感動。「僕は好奇心で生きる」ということを決めました。「わかることの楽しさ」「好奇心を満足させることからくる納得感」、「発見する手ごたえから生きていることの嬉しさ」を実感するのが人生だろうという感じ。
齋藤
それは、本から学んだのですか?なにか“現場”から学んだということはあったのですか?
秋山
僕らが高校のころはデモに行くことが当たり前だった。ちょうど60年安保闘争の最中でしたし。固い表現でいうと「今の社会を支えるのは俺たち普通の人間だ。世の中は俺らが変える」と。高校の頃から世の中を変えるにはどうしたら良いか、それは、どういうことかという意識はありました。
渡辺
今の社会では、その意識が希薄なのは、どうしてなんでしょうか?
秋山
一人一人の個人だけではパワーがないのは前提だから、皆で協力してパワーを作るというのが常識として昔はあったんですがね。 僕らのころはおかしいことがあったら、すぐにデモというか意志表示した。でも今の若い人のメンタリティは違う。僕は、自分のために戦わないやつらに対しては、勝手にしろと思う気持ちもありました。それはしょうがない、と思ったけど、しょうがないと放っておいた結果が今、社会全体の問題として押し寄せてきている。 たとえば、後期高齢者医療制度*にしてもあれは憲法違反。憲法25条は健康で文化的な生活、その第2項では福祉は拡充しなくてはいけないと憲法に書いている。 (*後期高齢者医療制度:国の医療制度改革の一環として、第3次小泉改造内閣が提出し成立した「健康保険法等の一部を改正する法律」(2006年6月21日公布)により、法律名を従来の「老人保健法」から「高齢者の医療の確保に関する法律」に変更。その内容を全面改正すると共に制度名を「老人保健制度」から「後期高齢者医療制度」に改めた。制度施行は2008年4月1日。)
渡辺
あれは拡充ではないですよね。
秋山
そう、プライマリーバランスを保つことがいつのまにか国の目標になっている。憲法よりもプライマリーバランスを大事にするのはおかしい。憲法99条にあるように、天皇及び内閣総理大臣、最高裁判所長官はこの法律、つまり憲法の遵守義務があることを忘れがちです。つまり私たちは憲法にのっとって憲法を守る義務がある。ところが、憲法遵守義務は皆やってこなかった。その結果、今こういうことが起こっている。それで自分も責めたくなる。山の中にいるからそんなことが気になるのです。
渡辺
俯瞰なさっているということでしょうか?
秋山
そう、距離をおいて見ることはできます。毎日のTVはみていないけど月刊誌とかエコノミストは毎週読んで、株屋の世界はどんな分析をしているか、学者がどの方向に行こうとしているのかをみている。たとえば、今の医療については1982年頃、日本の医師の数が300人に1人で、OECD加盟国では、200人に1人だった。82年までの厚労省は医者を増やしていこうという傾向にあった。そのうち日本は高齢化し医療費が増える、というこ・ニで、85年頃から医師の抑制をした。その延長で医者、看護師が足りないのはこれはマズイ。金がかからないことばかり目標にする。僕は報道にいたのに、僕は何もしなかった。 知らないのは罪だと思う。今間違った方向にあるのは、どこから間違ったのかを理解したいと思っています。 学生の頃、「日本の近代化は何か」が卒論のテーマでした。保田与重郎という人をとりあげたのですが、彼も日本の近代の在り方を見つめた人でした。僕も死ぬ前に近代が何であったのか見つめたいと思っています。
秋山さんの後ろ姿や横顔を後輩として拝見していると、平均化されない先輩。 ご自分を含めた今を分析して、考えて行動して、行動した自分を含めてまた常に観察していらっしゃる。こういうのをジャーナリストと言うんだな…と感じます。
渡辺
秋山さんの後ろ姿や横顔を後輩として拝見していると、平均化されない先輩で、ご自分を含めた今を分析して、考えて行動して、行動した自分を含めてまた常に観察していらっしゃる。こういうのをジャーナリストと言うんだな…と感じます。
秋山
(笑)。死ぬ前に見つめたいなんて言っても、あまり深刻な話ではない。
渡辺
甘い言い方をしない、毒が入る。さっきの本番かというやり取りの中でも、近くの人に近寄りすぎると、“おでこ”しか見えなくなるから、離れて見る、斜に見るという行為を報道でやってらっしゃるところが好きです。
齋藤
「気骨」という言葉が秋山さんを表すのでしょうか。
秋山
気骨というと大げさ、言うとおりにはならない、というだけ。
渡辺
なびかないですよね〜、勢力や権力に対して。会社に対しても(笑)。
秋山
(笑)。今なら「1億円だす」と言われたらもちろんなびく。・・・でも、まだそういうオファーはない。誰かください。
渡辺
私はペーぺーですけれど、秋山さんのお話を伺ってると、もっともっと秋山さんは面白くてやんちゃなことを世の中に出せるのに・・・と思ってしまいます。 今でも覚えているのが、あるとき、秋山さんと廊下ですれ違ったらイタズラっぽい顔で「今度米をつくろうと思ってるんだよ」とおっしゃって、その後すぐに会社を辞めてしまわれた。きっぱり、かつ即行でしたね。
秋山
僕はTV局にいたおかげで、いろんな場所、世界をみることで自分の思い込みを修正しながら次を生きてきました。70年代の中頃、ハノイからホーチミンまで2ヶ月かけて取材したときにはベトナム戦争について、あの頃日本にいて思い込んでいたことが現場に行って、思い込みが事実で修正されることの面白さを知りました。50歳を過ぎたときに、いろんなことをもっと正確に認識することは会社にいてはできないという気がした。日本の近代とは何かといった問いに立ち戻ろうと思ったのです。日本的な近代の価値感を整理したいと思って農家になることにした。農業も単なる、産業としてのものではなく、暮らしとしての農業は何かということを考えたかったのです。春夏秋冬、花鳥風月、とは何かを考えますと、どうしても、農家、農村となる。それが米作り。東京にいると正気を保てないということも感じていたのです。会社を辞めたのは53歳でした。
渡辺
秋山さんから今までこんな風に言葉で聞いたことはなかったけれど、とても面白いです。
60歳を過ぎて、今まで世の中を「はすに」みていたのを、更に「はじっこ」からみる。うんざりしながら時代の流れににじりよるのではなく、距離をおいて、こいつらが滅びる様をとっくり眺めようという気分が強いわけです。
齋藤
秋山さんはおいくつでいらっしゃるのですか?
秋山
もう66歳。昔、会社員は55歳定年でしたよね、あれは良かった。55歳なら新しいことをはじめることができる。実際、60歳を過ぎると、肉体的な老いを感じる。山にいると草がすぐ育つ。それで、草刈りする、60歳になる前は、ゴミが目に入る前にまぶたを閉じることができたのが、今はゴミが目に入ってからまぶたが閉じる。遅いんですよ、反応が。パソコンとつきあうのもいやになった。わずらわしくなってしまった。あれは道具としては問題が多すぎます。「これは俺を脳梗塞にする」と思って、止めちゃったわけ。 いろんなことについてわずらわしくなる。気がつくと、世の中に対して非寛容になっている。これが老いの一種だなと思う。そして、それを乗り越えるとどうでもよくなる、なんでもよくなる、これはマズイとも思う。ただ、そうでないと、自分の精神のバランスがとれなくなる。しかし、何でも良くなると、俺は何なんだということになる。世の中を今まで「はすに」見ていたのをさらに「はじっこ」で見ようと思った。世の中がどんどん悪くなった時期だからそういう意味で悲観的になった。派遣の問題にしても1999年に原則自由になり、今でいう格差が浸透した。僕のところに来る若い人間でも、正規雇用される大学生がものすごく減ってきた、「派遣のところに就職できた」とか、「就職の身元保証人が必要」など、僕らの頃には、身元保証人なんて必要なかった。世の中はぎすぎすしてきてますね。僕らはそれなりにやってきたつもり。気がつかなかったことはそれはマズイけれど、結果的にこんな世界を作ってしまったのか、と思う。それなりに一生懸命やってきたつもりだけど、うんざりしてしまう。そのうんざりした時代と手をうってにじりよるかというとそういうものでもないと思う。それじゃあまぁ距離をおいて、こいつらが亡び去る様をみたい、ということで、「はじっこ」から見ようと思う。
今の社会は、まさにねじれ社会。ただ、ねじれていることがおかしいと気がついたことは大きな変化。
渡辺
会社をお辞めになってから、13年経ちました。今の社会は秋山さんの目から見て、どういうふうに映りますか?
秋山
この前の参院選以降、国会はねじれているって言いますが、あれはねじれが良い。あのねじれのおかげで、後期高齢者問題についてもおかしいということになった。それから、派遣の問題についても最低日雇い派遣についてはやめようという方向ですね、おかしいということがようやく表にでてくる。どちらも「おかしい」という声が大きくなってきた。痛めつけられているのは人間という自然ですよ、まずは、人間という自然を大事にする。人間を大事にしない社会が自然を大事にするわけがない。
渡辺
大事にしない方向に進んでますよね。
秋山
でも、一番ひどい頃から少し変わってきた。
渡辺
ねじれたから出てきたこともあるのでしょうか。
秋山
ねじれたことが問題を顕在化させたのだけれど、普通の人の意識がこのままではおかしい、という方向に進み出したのは大変な変化。政権党の中にいる人にもおかしいという人がでてきている。市場原理主義的な考え方が力を得て、何でも競争が正しいとされてきたが、そうじゃないそれじゃおかしくなるという声が力を持ち始めている。経済の仕組みにしろ、社会の在り方にしろ、人間を大切にする視点が貫かれているかで判断すべき。人間という自然さえ大切にしないことが蔓延化してしまっている。これは問題だと思っています。
今の若い人に「政治が悪くなるのをお父さんは眺めていたのですか?」と聞かれたときに「お前らが頑張れ」としかいえないのは困ったことです。
秋山
日本の近代を見つめるために山の暮らしを始めた頃、100歳まで生きるつもりでいたけれど、実際は80歳くらいまでだろうという気持ちになってきています。だからそのときまでに、自分の中で整理をしないといけないと少々あせっています。このままでは、癇癪持ちの年寄りでしかなくなってしまう。 「日本の政治が悪くなるのをお父さんは眺めていたのですか?」と仮に息子、若い世代から聞かれたときに「お前らが頑張れ」というのは困ったことです。きちんと顔をみて発すべき言葉ではない。そうした場面できちんとした言葉を発することができなければ、僕らの生きてきた人生はさらに否定をされてしまう。このあたりが苦しいところです。 自然とは何か、何故自然を大事にするのか、という質問に対して、環境が大事、というのは道義違反ですね。意味をなさない。そうではない、答えを考えたい。
渡辺
自分達を取り巻く環境だから自然が大事と言ってるうちは、答えを探していることにならないですよね。
秋山
言葉について考えてみても、具体的に自分が体験したことに基づく言葉でないと重さをもたないことがありますね。言葉の射程距離が実感の重さと比例する感じってあるでしょ。今の日本は、明治のはじめに植民地をもつことが西洋と同等の国になることだとして、その方向に進み、軍国主義的な国家になって自爆した戦前の日本の状況をまた、なぞろうと繰り返しているのではないかという気がしてなりま・ケん。福沢諭吉の脱亜入欧をまた繰り返しているのではないかと思う。あまりにも、過去を学ぶということをしないと僕は思うのです。
渡辺
繰り返すですか・・・。
秋山
同じ形にはならないけれども、「過去を知ろうとしないことは自分自身への関心のなさ」、なのではないだろうか。僕は “稲を作る体験をする”ということを考えたときに、日本の文化背景を知るためにもそれが必要だと思いました。日本人の全員が百姓だったわけではなかったけれど、多くの人が、稲作に携わってきたのは確かでしょう。大地と稲が出会って生命がつながっていく奇跡に人間が介在しています。命とつながる実感は、季節とつながる。僕らは、生物として五感を通して感じて生きている、より深くより優しくより潔く生きたいという価値感がある。僕らは言葉で生きている、となると言葉に命があるということ。60歳を過ぎた人間としては、いろんなことを知りながらまぁ冥土への旅を続けたいということです。 感じはわかるでしょ?


プロフィール

秋山 豊寛(あきやま とよひろ)
66年社会科学科卒業後、TBSに入社。ロンドン駐在、外信部、政治部、ワシントン支局長などを経験し、90年、日本人初の宇宙飛行士として宇宙船ソユーズに搭乗。ジャーナリストとして宇宙船、宇宙ステーションの取材を行った。飛行後はTBS報道局次長となり、その後、国際ニュースセンター長を兼務。95年末にTBSを退職後、福島県で無農薬農業に携わる傍ら、宇宙での体験や食糧・環境問題についての講演活動、執筆活動を行っている。