INTERVIEWS

第35回 栗山 富夫

映画監督 

プロフィール

栗山 富夫(くりやま とみお)
1941年生まれ。日本の映画監督・脚本家。茨城県鹿島郡旭村(現・鉾田市)出身。1965年、ICU社会科学科卒業後、株式会社松竹に入社。助監督を経て、映画監督として活躍。1985年に「祝辞」で芸術選奨新人賞を受賞した。1988年から公開が始まった『釣りバカ日誌』シリーズの最初の11話を手がけた。現在は日本映画監督協会会員、フリーの映画監督として活躍中。

 

渡辺
このインタビューも今回で34回を越えました。本当はもっと早くお話を伺いたいと思っておりました。今日はお時間をいただき、ありがとうございます。
栗山
いえいえ、ご足労かけました。インタビューを拝見していますが、卒業生の中には多彩な人がいますよね。今日はどうぞよろしくお願いします。
齋藤
よろしくお願いいたします。
居間にテレビを置かない生活に憧れていたんです。その代わり音響にはこだわりがあって。
渡辺
今回はご自宅にお招きいただきましたことも、お礼を申し上げます。先程から拝聴していますが、素晴らしい音響環境を備えていらっしゃるのですね。家具のように重厚なスピーカーが2種類もあって!
栗山
1つはミシガンで作られたスピーカー、もう1つはイギリス製のスピーカーです。仕事上必要なんです。Listening pointは、ちょうどみなさんが今座っていただいているあたりですね。
齋藤
本当に素敵な音楽でおもてなしいただき、ありがとうございます。
渡辺
レコードも、たくさんお持ちなのですね。
栗山
この美人女優のイヴェット・ミミューがボードレールの「悪の華」を英語訳で朗読しているLPレコードは、もうなかなか手に入らないものです。インド音楽なのにフラメンコに似た趣があります。ちょっと、お聴かせしましょうか。
渡辺
なるほど…ものすごい臨場感ですね。和音が素晴らしいです。
ICUにいるあいだ、勉強は全然していませんでした。就職をどうしようかな〜と思っているとき、たまたま友人から聞いて松竹の試験を受けたんです。
渡辺
栗山監督は在学中、どのDivisionでいらっしゃったんですか?
栗山
SSだったんだけど、恥ずかしいことに何も勉強していなかったんです。世の中をわかろうって思って、一応当時はやりだった経済学を専攻していたんだけど、今思うと大失敗でしたね。だって経済学者の言うことなんて当たりゃしないんだもの(笑)。
渡辺
どうでしょう、1年ぐらいたつと自然になじんでいくので、あまり何かをしたという気持ちICUでは経済学を学んでいらして、そこからどのようにして監督の道に進まれたのでしょうか?
栗山
本当に学校では勉強しなかったから、成績があんまり良くなくてね。いわゆる就職活動なんかしてみても、どこにも引っかからなかった。そしたら、哲学をやってた友達が、松竹大船撮影所っていうところが6年ぶりに演出助手を若干名募集している張り紙があるよって教えてくれたんですよ。映画のことなんてほとんど何も知らないまま、就活で落ちこぼれていた悪友3人組で試験を受けに行きました。
渡辺
“どこにも引っかからなかったから受けに行った”とおっしゃいましたけど、撮影所の6年振りの、しかも数人の募集というと、非常に狭き門ですよね。
栗山
うん、やっぱり行ってみたら、全国から映画好きの青年が大挙してわんさか集まっていました。まずは書類審査と筆記試験があったんだけど、会場だった大船の街の小学校で試験したんだよね。
渡辺
大変な倍率ですね!
栗山
いやいや。でも筆記試験は2日間かけて行って、20人を選抜。その20人が監督や助監督の幹事一人一人と面接をしました。
齋藤
ICUの入試よりもだいぶ大掛かりですね。
栗山
そうですね。筆記試験は最低限の一般教養と語学のテストがまずあって、それはあんまり重要視されないと言われたけどね。そのあとは13:00〜17:00、午後いっぱいかけて論文を書かされました。題名は「天下太平」。藁半紙がたくさん積んであってね、何枚でもいいから書きなさい、っていう試験でした。昭和39年のことでしたから、ちょうど世の中も天下太平だったんだろうね(笑)。
渡辺
近年、ユニークな入試を行う会社も多くて、就職試験が多様化しているようですが、そんな試験問題はなかなか聞かないですね!
栗山
僕も聞いたことなかったよ。受けた連中もみんなたまげてたね。
渡辺
監督は、その4時間でどんな論文をお書きになったんですか?
栗山
それが全然覚えてないんだよね(笑)。なんでも良いって言うから自由に書いたんだと思うんだけど。それから2日目は、創作のテストだった。題名は「ガラス」。この題で詩を書いてもいいし、短編小説でも、長編を書いても良い。またもや自由に表現せよっていう試験でした。これは一応、自分が書いた内容を覚えています。教会のステンドグラスに石を投げた事件があって、これについてフィクションを書きました。
齋藤
へぇ〜。本当にめずらしい試験ですね。試験をやり終えて手応えというものを感じたりされたんですか?
栗山
それがまったくないんだよね(笑)。もう1つ、おもしろいことに、この試験には会社の人事課は一切タッチしなかった。というより、監督たちがさせないんですよ。彼らの考えでは、「我々の後輩のために、試験も採点も面接もすべて自分たちが行う」ということでした。最後の面接には師匠筋の監督も出てきてね。
渡辺
なるほど。きっと、それは映画を牽引してきた制作者のプライドですね。テレビ局でも、どんなディレクターや記者の卵を採用するか、どんなアナウンサーを採るかなどはいつも懸案で、特に誰が見極めるかという議論は昔からずっとあるようです。
栗山
通じるものがあるね。でも、その頃の映画業界はテレビに押されて、プライドだけでもっているような時代だった。実は松竹っていうのはきれいな女優さんを出す女性映画が売りだったんですよ。なんでかっていうと、資本家がケチだから。カーチェイスなし、バイオレンスなし、そういう映画は制作費が安いんです。昔のNHKの朝ドラのように非常に安普請でできちゃう。だから日数と女優さんにお金かけているようなもんだったね。 試験に話を戻すと、そんな風に口八丁の監督たち相手に何か言っても論破されちゃうから、会社としてもやりようがなかったんでしょう。会社を排除して、大島、吉田組の残党たちが幹事になって選んだ者を会社が受け取るっていうおかしな採用試験でしたよ(笑)。
渡辺
でも、松竹さんとしては、今いる方々には敬意を払いつつ、新しい風を入れたかった面もあるのでしょうね。
栗山
いやあ、でもまあこのままだと年寄りばっかりになって会社として成り立たなくなるとは思ったんでしょう。新しい人を入れざるを得なかったんだろうね。
大勢の中から最終面接に進んだ20人の中には、一緒に受けたICUの悪友3人がみんな残っていました。
栗山
筆記試験で残った20人の中から若干名を採用する、って言われてたんだけど、最終的には5人採用されました。本当は6人だったんだけど、一人京都大学の人が卒業できなかったんだよね(笑)。
渡辺
それは、もったいないことでしたね。でも、20人の中に残ったことも凄いことですのに、そこからさらに選ばれた6人に入るというのは、さすがです。
栗山
実は面接を受けた20人の中に、一緒に受けたICU悪友3人がみんな残っていたんですよ。
齋藤
え、全員残ったんですか?!それはすごいですねぇ。
栗山
私たちもびっくりでした。最終的に私ともう一人のICU生が5人の中に選ばれました。その年はねぇ、「耶蘇が多いなぁ」と採用担当から言われたんだよね。うちわけを聞いたら、あとは東大、早稲田、上智の学生。だから、耶蘇が多かったんだね。
渡辺
いやぁ、勉強ができなかったなんておっしゃっていましたけど、やはり才能というか、独創性はずば抜けていらしたんですねぇ!
栗山
さぁどうでしょう。
齋藤
本当に勉強できなかったんですか?
栗山
できなかった。まあある分野ではできていたのかもしれないけど。
齋藤
採用の発表は、その場であったんですか?
栗山
通知は書面で届きました。
渡辺
ご覧になったときの感想は?
栗山
うーん、なんだか食えないとこに行くんだな〜と思いましたね(笑)。
渡辺
そんな難関を突破なさったのに!
栗山
とはいえ、最低限の、腹減るな〜くらいの給料はもらえたんだけどね。たしか初任給が18500円だったかな。
渡辺
入社なさったら、助監督になるわけですか?
栗山
そう、助監督。だから入社して最初は研修で勉強しなきゃいけなかったんだけど、本社なんて行かないでまっすぐ撮影所に通った。今週は映画音楽、来週は映画美術、その次は演出の話、次は映画評論…っていうふうに順番に学んでいきましたね。映画音楽は武満徹、映画評論は佐藤忠男、というふうに、いろんな人が話をしにきてくれて。映画監督の篠田正浩が来たときには、開口一番「君たちは、まず絶望したまえ」って言ったんですよ。これにはたまげたね。「今君らがもっている眼と耳で世の中を理解して映画を作ろうなんて夢思うな。何の役にもたたん!」そういう主旨の話でした。
渡辺
強烈ですね。しかし、その講師の充実ぶりは今うかがっていても素晴らしいです…。監督がお入りになった時は、映画界とその周辺には、まさに綺羅星のごとく人材がきらめいていらしたんですね。
栗山
後から知ったけど、大船の試験っていうのは有名だったみたいだね。でもこんなことは僕らが最後で、それ以降は人事部が力を行使して、会社として採用をするようになった。まあやってることは同じようなことだけどね。
助監督時代はめくるめく毎日でしたね。楽しすぎるくらいでした。
齋藤
栗山監督が採用された決め手は、どこだったと思いますか?
栗山
天下太平についての論文は、何を書いたかすっかり忘れているくらいだからあんまり自信がない。きっとガラスの方でしょうね。あと、入社してから東大の英文科を出た先輩に「いやぁお前は英語できるな〜」って言われたから、できてたんじゃないかな。
渡辺
英語力を重視されたとなると、これから先を見据えての選択だったのでしょうね。
栗山
そうだったのかなぁ。でもね、研修のあとも、先輩たちがいろんなところに連れて回ってくれたんですよ。「今日は(岩下)志麻ちゃんと倍賞(千恵子)くんと竹脇無我くんもいるかなぁ」とか言ってね。
渡辺
なんて豪華な!
栗山
行ってみると、みんなにこにこしていてね。今でも覚えているのは倍賞千恵子さんが玉のような汗をかいて「バレエやってきたのよ」なんて言って。きらきらしていました。「あなた方が今度の助監督さん?よろしく!」なんて言われてね。
渡辺
めくるめく毎日ですね。
栗山
そう!それで堕落したのよ。僕ら大学院にきたのかな〜みたいな感覚でしたね(笑)。
監督はあらゆる知識が求められる。現場でたくさん恥をかいて身体で学びました。
栗山
驚いたのは、助監督の先輩たちはもう本当に物識りで、何でも知っているということです。
渡辺
監督というお仕事は端からは分かりにくい面もありますが、その知識レベル、どのくらい博識でいらっしゃるかというのは、本当に驚かされます。
栗山
だってね、監督というのはあらゆる知識が求められるんですよ。昔NHKラジオであった「話の泉」っていう番組は、本当の名番組でね。あらゆるジャンルについて訊いてくるわけです。サトウ・ハチローさんや黒沢さんの師匠の山本嘉次郎さんっていう監督が出演していて、何でも知っている。あらゆるジャンルを網羅している上に、話も上手い。
渡辺
まさにインテリゲンチャの集まりですよね!
栗山
そう。というのも時代考証も含めて、その場面に合うのか、文化的にあり得るのかどうか判断しないといけない。「この草履と、こっちの草履のどっちを撮影に使いましょう?」と訊かれた時に、答えなきゃならない。ジャッジするわけだから、知らないって言うのが許されない。理想的に言えば、本物を使うから演出のために骨董品を見る目もないといけないんだよね。決して美術さんだけが知ってればいいわけじゃないんです。
渡辺
ということは、実践のための研修期間の半年は特にいろんなことを学ばないといけないんですね。
栗山
いや、学んだことは役に立たないから、研修ではとば口は教えるけど、あとはもう現場にいって恥かいて覚えるんだって言われましたね。
齋藤
実際に京都なんかに旅行にでかけたりして勉強されたのですか?
栗山
先輩が教えてくれたり、あとは線にはならないけれど、ロケーションで点々といろんなところには行きました。

半年間の研修が終わったあと、組付きがありました。野球のドラフトと同様で、まずは志望を訊かれて、製作部で辞令をもらってから演出部の館まで移動する距離が50メートルくらいあったんです。そしたら、その館のいちばん日当りのいい二階の角部屋に、ある先輩監督が陣取っていてね、そこから見えたんだね、歩いて来るやつが。その人が製作部に、“自分の組に来てほしい人を選ぶから、新人を間隔を空けて一人ずつ部屋から出してくれ”って言ったらしいんです。僕らはそんなこと知らないからノホホンと歩いていったのですが、上智出身が目をつけられて、その先輩の組に入りました。後から聞くと、入ってからはあんまり楽しくはなかったみたいなんだけどね(笑)。

渡辺
監督は何組に入られたんですか?
栗山
僕は何でもいいと思っていたんだけど、結局大槻監督の組につきました。田村正和のデビュー作品でした。
入社して2年目の出来事は忘れられません。失敗もしたし、助監督は何十人もいて、監督になれる見通しもないシビアな世界でしたしね。
栗山
たしか入社して2年目、助監督の上から2番目のときの経験は忘れられませんね。大庭秀雄さんっていう監督がお元気だったときに、松竹で「横堀川」っていう落語を撮ることになったんです。なかなか良い映画だったんだけど、これを撮る時にスクリプター(撮影現場において、撮影シーンの様子や内容を記録・管理するパート)をやらされたんだよね。緻密な作業だし、今でも大抵は女性がすることが多いでしょ? それに、この仕事はさぼれないし、ずっと監督のそばにいないといけない。でも、「スクリプターをすると早く演出や編集の仕事を覚えるから」っていう社長命令でね。
渡辺
なるほど。でも、きっとそれは一理あるのでしょうね。
栗山
当時は今のようにビデオじゃないから、一週間後に映像があがってくるまでは確認もできない。
渡辺
そうか、今は何でもモニターでその場でチェックできるのに、当時は出来ないんですよね!?
栗山
安易だねぇ、今は(笑)。
渡辺
あ、はい。確かに、そうだとは思います(笑)。
栗山
いいことだけどね〜。実は人気映画で、間違えたことがあるんですよ。名作を汚しちゃったんだな(笑)。今でもよく覚えているんだけど、中山仁くんが右手を振って下ろした。2日後にそのシーンの寄りを撮ることになったんだけど、「挙げたのは右手だったか左手だったか?」って訊かれて、全然覚えてないんだよね。それで適当に「左です!」って言ったら違ってたんだよ。もう必死に編集と一緒にごまかしましたよ(笑)。
渡辺
へ〜、そんなことがあったんですか!今でも、その記念すべきシーンはそのまま残ってるんですね。うかがっていると、苛酷な新人時代でいらしたと思いますけれど、充実した楽しい期間だったのでしょうね。
栗山
そうだねぇ。でも、ふと上を見ると何十人も助監督がいる。名札だけでも80人くらいいる。なんで僕らを採ったんだって上司に訊いたら、上はいずれリストラになるだろうって言われました。それで、年に何人ぐらい、新しく監督になれるんですか?って聞いてみたら、「ばかやろう、ここ5〜6年で監督になった人がいるか!」って言われてね。
渡辺
ということは…見通しとしてはかなり難しいということだったんですね。
栗山
かなりシビアな世界ですよね。
妻とはICUで出会ったんです。同じ年生まれなんですけど、学年としては彼女の方が1年下で、20〜21歳頃に出会ったのかな。
栗山
ある日、城戸社長に新人5人が呼ばれてね。おもしろい江戸ッ子社長だったんだけど、いろいろな訓示をしたあげく最後に「お前ら店のものには手をつけるなよな」って言うんですよ。「お前らの先輩が揃いもそろって次々と手をつけるから困ってるんだ」と。
渡辺
あ、篠田監督の奥様が岩下志麻さんとか…つまり女優さんとの恋愛禁止ということですか?
栗山
そうそう。当時は多かったからねぇ。
渡辺
おそらく職場恋愛というか、監督と女優さんの間には強い信頼関係があったり、お互い響き合うことがあるのでしょうね。
栗山
うん、それはよくわかります。本当に女優さんの素敵な演技を引き出そうと思ったら惚れなきゃだめですよ。まあとにかくそうやって社長から釘を刺されて、気付いたら同期5人とも女優さんと結婚してないんですよ(笑)。
渡辺
あの、ご本人がいらっしゃるので、申し上げにくいのですが…周りにどんなに女優さんがたくさんいらしても奥様をお選びになったんだなぁ、というのがわかります。
栗山
いやぁ、でも女優さんは化粧塗りたくっていて案外しょうもないなって思っていましたね。当時のライトの下だから仕方ないんだろうけど。だから新宿なんかですっぴんの女の子みるととてもきれいだなって思った。家内も化粧なんてしないから、家に帰るとほっとした。
渡辺
奥様とは、どのように出会われたんですか?
栗山
家内もICU生ですよ。同じ年生まれなんですけど、学年としては彼女の方が1年下で、20〜21歳頃に出会ったのかな。
栗山夫人
自慢できることがあるとすれば、私は打算ではなく海のものとも山のものともわからないこの人と結婚したんですよね(笑)。
渡辺
ICU生同士でいらしたんですか!そういえば、北野武監督ご夫妻も、似た馴れ初めでいらしたかも。奥様も漫才師で、最初はたけしさんより売れてらして。でもたけしさんが入ってきたときに「すごい後輩がきたぞ」って思われたとか。誰よりも早く、その方の魅力を見抜く奥様って、いらっしゃるんですよねぇ!
栗山夫人
たしかに、将来監督になるような人と結婚するという感覚はゼロでしたね。松竹に入るって決まったときも、たとえ1〜2万円でも社会に出て稼いでくれるようになるんだ、って嬉しく思ったのが正直な感想でしたね(笑)。
僕がICUを選んだのは、数学科目のない受験校だったことと、学費が安かったことから。でも、キャンパスも華やかで、他に受かった大学に行く気がしなくなっちゃった。
齋藤
監督は茨城県出身ですよね。どうしてICUをお選びになったのですか?
栗山
そうだねぇ、ちょうど僕らの年代になって、進学クラスができたり大学へ行こうっていう時代が始まったんです。でも僕の場合は勉強もしてなくて、特に数学ができなかったから数学科目のない受験校ってあるかなって調べていたんです。高校の進学担当の教師には、「数学もないし、難しいけど、だめもとで外語大の英米科を受けてみろ」って言われたから、そこに向けて受験勉強していた。でも外語大以外にもどこかないかな〜って探していたら、たまたまICUを見つけて受験しました。数学もないし、当時ICUの学費は安かったんですよ。絶対国立じゃなきゃだめって言われていたんだけど、東大と同じ授業料だった。
渡辺
東大と同じくらいだったんですか。
栗山
そうそう。安かったの。あと、ICUは受験の時期が早くてね。実は外語大の発表の前にもうICUの寮に入っていたんだよ。抽選で埋まっちゃうっていうから応募したら受かっちゃって。そしたら時は春だし、キャンパスがとっても華やかでねぇ。セクション15人中9人が女子でした。話を聞くと、甲南、立教、雙葉からきました、なんて言っててね。あきらかに気位が高くて、実に自分が山猿に思えたよ(笑)。
渡辺
寮生だったんですか?
栗山
第二男子寮でした。
齋藤
ちなみに、外語大は結局受験されたんですか?
栗山
一応受かって、面接に来いって言われたので行きました。行ってみたら校舎が戦争でまっくろこげになったあばら屋で、面接官はNHKでラジオにも出ていた小川先生っていう人でした。「英語はできないけど世界史はトップクラスだね〜」なんて言われて。そんなこんなで、面接に行ったらうんざりしちゃって、帰ってからすぐに断りの手紙を書きましたよ。
渡辺
すでにICUの華やかさを知ってしまったあとですものね。
栗山
そうそう。先に寮に入ってなかったらちがう人生だったかもしれない。そう思うと人生の岐路でしたねぇ。あとから知ったけど、外語大の英米科は72人くらい受かって、倍率は25倍くらいあったみたい。でもそのうちお嬢さんは2人だけ、しかもガリ勉タイプの人でね。
渡辺
実際にICUに入ってからは楽しかったですか?
栗山
いや〜、楽しすぎたね。それで堕落しちゃったんだろうな(笑)。
渡辺
奥様は、どうしてICUをお選びになったんですか?
栗山夫人
私は、高校3年生の途中から交換留学でアメリカに行っていたんです。それで帰国してから、(当時の)ICUは“スペシャル”という、9月から入学して1年間の単位がもらえる制度があるのを知ったので受けてみたんです。いわゆる受験勉強も嫌で仕方なかったんですよ。
渡辺
ご自身でリサーチして、チャレンジなさったんですね。
栗山
でも、そんな大それたことは考えていませんでした。次の春の一般の入試は落ちてしまって。もうよそに行くのも面倒だし、もう1年スペシャルでいて、2回目に合格したんです。
渡辺
さってからは、いかがでしたか?
栗山夫人
実はスペシャルにいる間にGEだとか必要な単位はどんどん取っちゃっていたものだから、後半はやることなくなってね。遊んでいました。
栗山
僕と知り合った頃は、ぷらぷらした不良だったね。
栗山夫人
彼は輪をかけて不良でしたよ(笑)。
渡辺
お知り合いになったころ、奥様からご覧になって監督はどんな青年だったんでしょうか?
栗山夫人
今と変わらないんだけど、猫背でぷらぷらして全然勉強しない。夕方になると寮から出てくる。そんな人でしたね。
『釣りバカ日誌』のおもしろさのミソは、芝居しない芝居を徹底したことです。だからある意味バラエティーみたいなところもある。
渡辺
ご自身のお撮りになった映画の中でいちばん印象に残っているのは『釣りバカ日誌』ですか?
栗山
まあ…11本も撮ったから、その中の何本かには愛着を感じていますね。僕が自負していることでもあるんだけど、あんまり古さを感じさせないでしょう?
渡辺
はい、まさに!映画はクラシックになるほど、リスペクトと郷愁を感じるものですが、『釣りバカ日誌』の面白さ、スーさんハマちゃんのやり取りの絶妙さはいつまで経っても色褪せませんものねぇ!
栗山
それには、やっぱり苦労がありました。ミソを言いますとね、とにかく芝居しない芝居を徹底したんです。だから、ある意味バラエティーみたいなところもある。ただ、あまりにもアドリブやデタラメなことが多いって脚本家も会社も怒っちゃってね。全然シナリオ通りじゃないって言って。こっちから言わせれば、一週間前に台本が上がってきて、どうやって推敲すればいいんだってことですよ。それが直さなくても面白ければ良いけど、まあ、僕もやりすぎちゃったところもあってね(笑)。散々怒られたんで10年でやめたわけだけど。
渡辺
そうだったんですか…。
栗山
6作までやってくれた石田ゆりさん。彼女はとてもまじめで本物志向の人だから、こんなくだらないおちゃらかやってられないわって言われてしまってね。僕は、スーさんとハマちゃんがやりあっている後ろで、笑ったり睨んだり演技をさせてたんだけど、「私がちゃんと台本読んで台詞も頭に入れて現場に行くと、全然違うことをしている」って怒っちゃってね。
渡辺
それがよかったのに…もったいないですね。
栗山
本当にね〜。まあやりすぎて失敗したこともあるんだけどね(笑)。
『釣りバカ日誌』を持って行ってMITで講義をしたときには、最後まで笑いが絶えなくて。困ってしまいました。
栗山
あるとき、MITの教授から『釣りバカ日誌』のフィルムと一緒に大学に来て話をして欲しいって言われたんです。たまげちゃってね。だいたい、なんで『釣りバカ日誌』なんだ?って話ですよ(笑)。それでも、ふざけすぎをいちばん抑えた、笑い少なめの第9話を持って行きました。行ってみたら、近くのハーバードの連中も見に来ていた。ハラハラしたけど仕方ないから、つたない英語で紹介してね。どうなるかと思って上映したら、もうのっけから笑ってるんですよ。これはシリーズの中でいちばん笑えない作品なんだよって言ったんだけど、最後まで笑い通しで、もう困っちゃってね。夜中の1時過ぎまでいろんな質問に答えるはめになりました。不思議な夜でしたねぇ。
渡辺
そんなことがあったんですか!やはり言語を越えるものがあるんですね〜。以前、黒柳さんと久米さんの”ザ・ベストテン”っていう歌番組がありましたけれど、「あれは単なる歌番組じゃなく、情報番組だ」とコラムニストの天野祐吉さんが仰っていたことがありました。例えば「明菜ちゃん、このスカート流行ってるの?どうしておかっぱにしてるの?」とか、芸能人にどんどん訊いていく。普通の情報番組よりもリアルな流行とか芸能情報がわかる、ある意味ジャーナリスティックな番組だった、と。栗山監督の映画も、映画の撮影なのに実際はライブでリアルで、これがお笑い番組ですっていう番組より断然、笑えちゃったりしていて。良い作品って、言葉では括れない広がりを持つんですね。
栗山
理想なのは、役者がカメラがどこにあるのか気付かないような状況なんだよね。
渡辺
ある意味、ドキュメンタリーみたいに撮るってことですか? あのスーさんハマちゃんの弾丸みたいなやり取りは、台本に書いてできることではないんですよね?
栗山
うん無理だと思うね。
渡辺
監督の役割というのは箇条書きできないものですけど、ひとつには、その現場を守るっていうことですよね。このアドリブが、どれだけ人を笑わせるかっていうことを、いろんなところからガッチリと守らなければならない。並大抵のことではないと思います。
栗山
当時の映画ってとんでもなく大掛かりでした。マイクも照明も同じで、ちょっとでもずれるとノイズが入っちゃう。あたかもアドリブでやってるようにリハーサルで作り上げるんですよ。本当にこれは大変なことで、危うく高血圧で倒れそうになったこともありましたね。
渡辺
いやぁ、でもそんなご苦労が『釣りバカ日誌』という素晴らしい結晶となったんですね。
栗山
来年には「ふうけもん」っていう新作の映画を上映したいと思っているんだけど、そのときにはぜひ見てください。中村玉緒さんがもう本当に絶品でたまげたね。
渡辺
楽しみにしております。
今の学生さんに向けては、なんてのは一番苦手なんだけど、日々学ぶことから、自分自身の歴史観を磨き、自分なりの考えを持ってもらいたいですね。
齋藤
今の学生の中にもきっと“将来映画監督になりたい”っていう人がいると思うのですが、監督はどう思われますか。
栗山
うーん、僕が体験した入社してすぐに現場に行って、制作所が新人を抱え込むっていう夢のようなことは、今はなかなかないからねぇ。いちばん良いのはNHKかもしれない。配転があるのはどうかと思うけど…。昔はNHKを電機紙芝居だとか行ってばかにしていたけど、今はばかにしてないですよ。朝ドラもここ10年くらいはなかなか良いものをつくっている。監督たちが経験を積み重ねて、きちんと映画のように撮るのを覚えてきたんだろうね。あとはテレビマンユニオンも良いかもしれないね。今ちょうど渡辺さんがやっている“BS歴史館”も良いよね。長寿番組になりそうでしょ?
渡辺
ありがとうございます。そう望んでおります。今おっしゃったテレビマンユニオン、そしてテレコムスタッフの監督たちの頑張りで、良い反響を徐々にいただくようになりました。実際にこの番組に参加して、監督やスタッフと一緒に仕事できててよかったなぁ…とつくづく感じます。
栗山
そうですか。たまにはNHKに電話でもしてやらなきゃいけないな〜。そういう良い現場が増えると良い番組が増えてくるんだろうね。
渡辺
ちなみに、映画監督を志している学生だけでなく、もしICUの生徒やこれからICUを受験する生徒たちにメッセージを送るとしたら、監督はどんなことを伝えられますか?
栗山
いやぁ、こういうのがいちばん苦手なんだよね(笑)。とってもそんな大それたことを言う自信はないんだけど…。そうだなぁ、しっかりと勉強して“おのおのの歴史観をもつこと”が大事だと思いますね。僕は高校のときからちゃんと勉強しなかったことを悔やんでいる。『三国志』なんかも別の見方ができただろうに、と思うんですよね。松竹の先輩たちから教わった“現場で恥をかいて学ぶ”っていうことも大切だけど、要するに日々学ぶことから、自分自身の歴史観を築いていってもらいたいな、と思います。


プロフィール

栗山 富夫(くりやま とみお)
1941年生まれ。日本の映画監督・脚本家。茨城県鹿島郡旭村(現・鉾田市)出身。1965年、ICU社会科学科卒業後、株式会社松竹に入社。助監督を経て、映画監督として活躍。1985年に「祝辞」で芸術選奨新人賞を受賞した。1988年から公開が始まった『釣りバカ日誌』シリーズの最初の11話を手がけた。現在は日本映画監督協会会員、フリーの映画監督として活躍中。