INTERVIEWS

第36回 朽木 ゆり子

ノンフィクション・ライター 

プロフィール

朽木 ゆり子(くちき ゆりこ)
国際基督教大学教養学部社会科学科卒、同大学院行政学修士課程修了。コロンビア大学大学院政治学科博士課程に学ぶ。フリージャーナリストを経て、1987年から92年まで日本版「エスクァイア」誌の副編集長を務める。94年よりNY在住。

 

大学入学は、ちょうど学生紛争の真っただ中。東大入試が中止になり、ICUに入ってからも、大学封鎖で半年間は授業がなかった。それで、ちょっと肩透かしで、初めは“学ぶこと”へのエンジンがかかりませんでした。
齋藤
朽木さんとは、同級生で、昔からの友人なんですよ。そのご縁で、今回は快くご協力いただきました。ありがとうございます。
渡辺
わぁ。同級生でいらっしゃるんですね。当時の朽木さんは、どんな学生だったのでしょう?
朽木
芝生で少林寺拳法をやっていました。(笑)
齋藤
そうそう。その姿、よく覚えています。朽木さんのご実家は名古屋だったよね?
朽木
そうです。あの頃はいろんな友人が名古屋の自宅まで遊びにいらしたのよね。私もいろいろなところに行ったし。懐かしい思い出です。
渡辺
友達がご実家まで!素敵ですね。その頃のICUの空気はどんなでしたか?
朽木
私が受験した1969年は、東大入試が中止になった年です。新学期がはじまっても、ロックアウトされているキャンパスがあり、ICUもそうだったんです。せっかく入学したのに10月まで授業がなかったのです。10月末だったと記憶していますが、機動隊が学校に入って学生による封鎖を解き、やっと授業が始まったのですが、ただ、1年間かけてするはずの授業を、残りの半年で実施することになるのが問題で、結局、私も含めてかなり大勢が翌年4月に次のフレッシュマンと合流して、新たに授業を取る方法を選ぶことになりました。要するに、最初から留年したわけですね。我々の学年は、それで分裂してしまったのです。私は、入学は17期ですが、結果的に卒業は18期。そんなふうに、17期は18期になってしまった人が多いので、卒業生が少ないはずです。当時の2年、3年生も同じような選択に直面したと思うのですが、フレッシュマンだったから特にショックが大きかった。
渡辺
今からは想像できないくらい大変な時期だったのですね。初めの1年はどうなさってたのですか?
齋藤
僕は8月からアメリカのキリスト教団体から奨学金をもらって、アメリカに行っていた。学校がないから仕方がないので、次の6月までICUにはいなかったんです。みんなからは、逃げたな〜(笑)と言われていた。
朽木
私は、授業がなかったのでアルバイトしたり、遊んだり。自主講座という形で講義をしてくださった先生もいましたが、正規の授業ではないので、単位にはならなかった。正直、せっかく勉強しに来たのに、大学ってつまらないところだな、とフラストレーションを感じましたね。次の年にやっと授業が始まったけれど、あまりやる気が起きなくて、フレッシュマン・イングリッシュも勉強しなかったから成績も悪かった。17期の人って、全体的に大学とのつながりが薄くてクールな感じがするわね。
齋藤
そうそう。我々の代は大学への帰属意識が低い気がするね。実は、募金をする人も少なくて、同期でピースベル奨学金に寄付した人は3人しかいないんだって(笑)。そのうちのぼくは1人!
朽木
翌年に入ってきて、我々を受け入れてくれた18期は、留年組をどう思っていたんでしょうかね。
齋藤
それからICUの博士課程に行って、その後、コロンビア大学の院にも行って、よく勉強したね〜。そんなに勉強好きだったっけ(笑)?現役の学生と話していると、将来どうしよう、存在感のある人間になるにはどうしたらいいんだろう?と悩んでいるので、後輩へのヒントになるようなお話をしてもらいたいな、と思っています。これまでインタビューをさせていただいた卒業生の共通点は、いい人に恵まれて、その縁で世界が広がって行ったことが多いのですが、朽木さんの場合はいかがですか?どうして、ジャーナリスト、雑誌の編集者、作家という、人がうらやむ仕事につけたのに興味があるね。
渡辺
どうしてICUを選ばれたのかも含めて、ぜひ。
朽木
さて、どうしてICUだったのかしら?(笑)。私は、東京出身ですが、高校合格直後に父が仕事を変わり、名古屋に引っ越すことになったのです。普通なら両親について名古屋に行くのでしょうが、ちょうど高校に入ったばかりで、編入試験を受けるにしても翌年になってしまう。それで、両親と妹だけが名古屋に行ったんです。
渡辺
え、高校生で一人暮らしを選択なさったんですか?
朽木
私は、11人の大家族で、下宿人もいて、という変わった家で大きくなりました。祖父が早く亡くなって、7人兄弟の長男だった父が家長となり、祖母とともに弟妹の面倒を見ていたんですが、弟や妹は結婚して一人ずつ独立していった。だから、私は祖母と残っていた大学生の叔父二人と一緒にそれまで住んでいた東京の家で暮らして、翌年、名古屋の高校に編入することにしたんです。でも、高校でバスケットボール部へ入ったら、転校したくなくなったので、結局3年間東京に残って、まだ若かった祖母にめんどうみてもらったわけです。

高校ではバスケットに熱中したので、受験勉強というものをまったくしませんでした。浪人するつもりでしたが、ICUは普通の受験勉強と異なる試験だったので、ギリギリになって受けました。そして、運良く受かったわけです。二次試験のグループ面接で仲良くなった人は、すでに上智に合格していたので、優秀な人が受けに来るんだなあと思っていたのですが、彼女はICUには合格しなかったんですね。ですから、やっぱり「優秀」という言葉でくくれないような特殊な人材が、ICUに入ってくるんじゃないですか?(笑)

渡辺
ICUにはどんなイメージを抱いて入学なさいましたか?
朽木
とても自由な雰囲気を感じていました。振り返ってみると、ICUを選んだのは、他の人と同じことをするのが嫌だったからなのかもしれません。東大入試がなかったその年の受験は、なんとなくムードが暗かったんです。私の高校は受験校だったので、同級生は大阪・横浜国大・一ツ橋などを受けていたけど、私はもともと国立志望ではなかったし、思い切ってICUを受けたんです。入ってみると、とても個性的な人がたくさんいたので、本当に良かった。
少林寺拳法での海外旅行と、緒方貞子先生との出会いがきっかけで、真剣に学ぶようになりました。コロンビア大学の大学院にまで留学して、学ぶことは楽しかったけれど、ジャーナリズムの世界に進もうと決めました。
渡辺
入学なさってからはどんな生活を?
朽木
ちょうどその頃、祖母や叔父と住んでいた古い家を取り壊すことになったので、下宿することになり、大沢の裏門のあたりで大学生活を始めたのです。初めにお話したような経緯で、フレッシュマン・イングリッシュは全然勉強しなくて、少林寺拳法をやっていました。翌年、つまり大学に入って3年目の夏に、少林寺同好会の元顧問がカリフォルニアのバークレーにいるので、バークレーで合宿しようということになって、夏休みに数人でバークレーへ行きました。現役の顧問はフレッシュマン・イングリッシュの先生だったのですが、彼がハーバード出身で、その先生夫妻を訪ねてマサチューセッツまで行ったりとか。少林寺拳法夏期合宿は口実で、要はアメリカに遊びに行ったのよね(笑)。西海岸含めて、3週間弱くらいだったと思います。当時は、ICUのチャーター機というのが、夏の間に1〜2便あって、そのチケットを取っていったんです。でも、その時に、英語もあまりできない、日本のことを聞かれても全然答えられない、ということを思い知りました。それで、帰ってきて一念発起して、真剣に勉強するようになりました。いいきっかけだった。3年目の秋にして、私は別人になったんです。(笑)
渡辺
そのショックがきっかけになったんですね?
朽木
ショックだった分、熱心に勉強しましたね。当時のICUは、ディーンズ・レターといったかどうか忘れましたが、学期末か学年末に成績優秀者にディーンから手紙が来たのです。アメリカの大学にはディーンズ・リストという成績優秀者リストがあり、そのリストに載るのは大変名誉なことなのですが、それに似た制度だったのではないでしょうか。手紙は、本館のメッセージボックスに入っていましたね。
齋藤
え〜。そんなに優秀だったんですね!ディーンからのお手紙の話は、すごくいい話ですね。
朽木
もう一つのきっかけは、緒方貞子先生の授業(日本外交史)を取ったことです。先生は、最初は非常勤講師、途中から准教授になられました。当時、私の周囲にいた大人の女性でキャリアとしての仕事を持った人はいなかったんです。そんな私にとって、緒方先生は初めて出会ったロール・モデルでした。当時、緒方先生は40代前半だったと思いますが、下のお子さんを産んでしばらくたった頃でした。そして、車を運転して、学校に通っていらした。素敵だな、と。当時の私は、社会に出て働くということがどういうことなのか、想像も出来ませんでしたが、先生を見ていて、学者という仕事はひょっとしたら女性に適しているのかもしれないな、と思ったんですね。振り返ってみると、ロール・モデルがちょっと素晴らしすぎたんですが、これが強く作用したのでしょうね。本を読んだり、調べものをすることも好きだったので、どんどんその方向に関心がむいていったんです。
渡辺
緒方先生はどんな先生でしたか?
朽木
厳しい先生でした。外交史や国際政治、国際組織論などいろいろな授業を受け持たれたのですが、私は日本外交史が好きでしたね。教科書を基にして授業をするのでなく、陸奥宗光の外交記録『蹇々録(けんけんろく)』やワシントン条約の条文など、原資料を読ませられたので、とても面白かった。国際関係論のテキストは、出たばかりの英語の分厚い本で、当時はアマゾンも何もありませんから、図書館に2冊だけその本が入っていて、学生はみんな1時間単位で、交代で借りてその本を読んでから授業に臨む、というようなこともありましたね。とても刺激的な授業でした。
朽木
勉強を始めたのが3年後半だったので、卒業の時期になってもまだ学び足りず、修士課程に残ったのです。修士課程を出たら働きたかったのですが、当時は、修士号を持っている女性の就職先は殆どなかったんです。
渡辺
え? なぜなんでしょう?
朽木
女男を問わず、まず修士号そのものが珍しかった。当時、大学院は学者になる人が行くところで、いまのようにビジネス・スクールやロー・スクールなんてなかったわけです。女性に関しては、そもそも総合職・一般職という言葉さえない時代でしたからね。某有名マスコミ企業を受けようとしたら、修士号は就職では全く評価されないばかりか、それで取ってくれるところはないから、学士扱いで履歴書を書いたらとアドバイスされて、そんなことをしてまで…と思ってしまって、進学することにしたのです。たまたまICUにも、博士課程後期というカリキュラムができたので、そこに進みました。

その後、緒方先生に、ICUの外に出て勉強しなさいと言われたので、奨学金の試験を受け、日本学術振興会の支援を受けて、コロンビア大学の大学院に行きました。学費以外に生活費もすべて出してくれたのは良かったのですが、私は途中で学者になることを放棄してしまったのです。

渡辺
大学の夏休みにいらした時と、その後勉強してコロンビアにいらした時を比べると、違いましたか?
朽木
それは、全然違ったけれど、基本的に留学生は学校の中にいて勉強ばっかりしているので、接する世界はそれほど広くはありません。94年に、夫と子供とで再度ニューヨークに住むようになった時に、あらためてそう思いました。そういう意味で、学生として3年間いて勉強はしたけれど、アメリカ社会のことはわかっていたとは言えないですね。
齋藤
それで、コロンビア大学院ではジャーナリズムの勉強をしたんですか?
朽木
いいえ、私はコロンビア大学のGraduate School of Arts and Sciencesで、政治学専攻で3年間在学しました。ジャーナリズム・スクールやビジネス・スクールは、学者を養成するのではなく、幅広い意味での職業訓練学校ですから、実践が中心になるんですね。私は一応、学者を目指し、博士号取得が目標だったんですが、学者のひとつの役割は大学で教鞭をとることなので、そのためにはなるべく幅広く勉強せよ、と自分が考えてもいなかった科目までが必修で、これには参りました。大学院に行けば、自分のやりたい研究に集中できると思っていたので。ともかく、最初の1年は猛烈に勉強しました。期末のペーパーも英語で書くわけですが、どのぐらいやれば及第なのかわからなかったのでともかく全力でやりました。毎日寝る時間も惜しんで勉強して、週末はICUの同級生と会って息抜きするという生活でしたね。当時、同級生が何人かニューヨークで働いたり、大学院に通ったりしていましたから。で、勉強ですが、大体このくらいで及第、とわかったととたんに怠けるようになりました。というか、やっぱりここは自分のいる場所ではないと疑問に思うようになったんです。ICUにいる頃からその片鱗は感じていたんですけどね。
渡辺
どんな部分が合わなかったのですか?
朽木
ひとつは、反応。大学院時代、数回ですが、週刊誌や他の媒体に書かせてもらうことがあったのです。そうすると、ぱっと反応があってね。えっ、こんなに早く反応が返ってくるんだって思いました。学者だったら、論文を書いても読む人の数は少ないけど、ジャーナリズムの世界であれば、読み手もずっと多いし、反応もビビッドに返ってくる。そういう世界のほうが自分には向いているかなと思ったの。でも、いま振り返るって考えると、それは若さ故の短絡的思考、あるいは単に辛抱できなかったという部分があったと思いますね。博士号を取るためにはその後最低でも3年は勉強しなければならなかったでしょうし。
齋藤
長く勉強したのにね〜。朽木さんのそんな経緯は全然知らなかったけど、大学の時に学者になりたいって聞いていたら、「そんなの向くわけないやんか」と言っていたと思うな〜。朽木さんは、学者として一つのことに没頭して研究し続ける、って感じではまったくなかったよね(笑)。
朽木
そもそもICU大学院時代から仕事に就きたいと思っていたんですが、修士号を取ってみたら、就職できないという現実があった。で、博士過程後期へ行ったけどやはり違和感があった。大学が小さいから違和感を感じるのかもしれない、とコロンビアに行ったけれど、場所を変えてみても同じだった。とはいえ、政府の奨学金で外国に勉強に行って、おまけに大学から院まで含めて12年も学んで、学者にならなきゃもったいないといろんな人に言われたし、自分自身でも大変悩みましたね。ちゃんと食べていけるかどうかも心配でしたし。
渡辺
ジャーナリスト以外の道も考えられたのですか?
渡辺
国際組織で働くことを薦められました。現実的にすでにニューヨークに住んでいたわけだし、修士号と英語力からすると入ることは出来そうだったけど、それも「合わないだろうな」と思ったんです。国際組織は巨大な官僚組織なので、その歯車になるのは自分には多分できないだろうと思いました。国際機関に入ればビザなどのメリットもあったけど、最終的には、また転職してしまうだろうなと思いました。当時は、今のようにそれぞれの仕事に関して情報がたくさんある時代ではなかったわけです。最終的には、方向転換するなら自分のやりたいことをやったほうがいいだろう、最初はつらいかもしれないけれどまあなんとかなるだろう、と決意したわけです。
研究者、フリージャーナリスト、雑誌の編集者と、それぞれの仕事での訓練によって作られた筋肉が、いまノンフィクション・ライターとして総合的に役に立っています。不思議な巡り合わせではあるけど、その時点時点で最上と思える選択をしてきたことによって、興味や技術がつながって、ここまで来ることができたのでしょう。
渡辺
新聞社やテレビ局を辞してフリーのジャーナリストになる方はいらっしゃいますが、はじめからフリーのジャーナリストとして出発なさった経緯はどんなだったのでしょう?
朽木
本当はニューヨークにいたかったのですが、ビザの問題があって日本に帰らなくてはならなかったので、80年に日本に帰りました。それからずっとフリーランスで、87年にエスクァイアに入るまで、7年フリーで仕事をしましたね。メインは、週刊誌の仕事だったのですが、コロンビア大学院時代に、週刊誌の取材の手伝いや通訳をしたので、それで知り合った方に仕事を紹介してもらいました。
渡辺
大学時代に礎があったんですね。
朽木
当時は、日本の出版社の海外取材は、手配がとても大変でした。取材相手にコンタクトを取るにしても、メールもないし、ファックスはまだ大企業にしかなかった。だから、現地での取材アシスタントが必要で、私はときどきアルバイトでそういった仕事をしました。それによって、ジャーナリズムにより具体的な関心を持つようになったし、なによりも人的コネクションができました。今はインターンなどという制度がありますが、当時はそんなものはなかったのです。で、日本に戻ったときは、そのコネクションが役に立ちました。
齋藤
フリージャーナリストというと、どんな仕事をしたんですか?
朽木
私の場合、一言でいえば、週刊誌の取材記者です。80年代初めは、コンピュータ産業やバイオメディカル産業の大発展期で、当時の最先端分野の海外事例の紹介などの取材も多かったのです。そこで、言葉ができる強みを生かしてその分野で仕事をしていました。一番重宝がられたのは、専門家がアメリカで取材してきたインタビューのカセットテープ起こしの仕事でした。インタビューは英語ですが、それを耳で聞きながら頭の中で日本語に直してどんどん書き出していって、データ原稿にまとめていくという仕事です。当時はまだバイク便がなくて、タクシーの運転手さんが緊急のテープを届けに来るんですが、それを徹夜で起こすようなことをしていました。こういった仕事は、筆力などの基礎体力はつくし、生活費も稼げたけれど、記事が書けるようになったわけではありません。週刊誌の場合は、こういったデータ原稿を書く仕事と、アンカーといってそれを全部まとめて最終的な原稿にする仕事は分業でしたから。自分で取材から原稿書きまでやって、署名原稿として掲載してもらったのは、それとは別の女性誌のような媒体でしたね。女性誌の編集者からは文章が硬いとか、翻訳調だとか、最初はいろいろ文句言われましたが(笑)、それはそうですよね。それまでは大学院の期末ペーパーしか書いたことがなかったわけですから。わかりやすい文章が書けるようになるには時間がかかったし、媒体によって文章が書き分けられるようになったのは、ずっと後です。ただ、フリーライターというのは綱渡りの様なところがあって、立ち止まると続けられない仕事なんですよね。出版社の担当者が書類を出し忘れて、原稿料がもらえずに家賃が払えないなんてこともありましたから。
齋藤
それで、その後エスクァイアの副編集長になったんだよね? それはなぜなんですか?
朽木
80年代は、雑誌が多く創刊され、活気がある時代でした。ですから、書き手の需要は多かったのです。自分の記事が雑誌に載るようになったのは嬉しかったけど、やはりフリーの書き手は使い捨てでした。それと、自分の記事が掲載されている雑誌が気に入らなかったこともあり、それならいっそ雑誌の一部分ではなく、雑誌全体を作るような仕事に就いてみるのもいかもしれない、と思うようになったのです。でも、編集の仕事には別の技術が必要になるんですね。私は、編集技術を誰にも教えてもらわずに、雑誌の世界に飛び込んだので、その技術を身につけようと思って、夜間の校正クラスに1年間通いました。校正のプロにはなれなかったけれど、他人の文章を読むときに何に注目したらいいかはわかるようになりました。それと、その先生が英文校正の基本を教えてくれたのですが、これが大変役に立ちましたね。その後、自分で小さなオフィスを立ち上げて、企業の広報誌や写真集などの編集をしました。この時代に、書き手や写真家、エディトリアル・デザイナーといった人達と大勢知り合いました。結局、編集という仕事は、どれだけ自分の人脈を持っているかで決まるんです。そんな中で、仕事で縁のあった方がエスクァイア日本版編集長になったことがきっかけで編集部に加わることになったんです。
齋藤
エスクァイアの副編集長なんて、大抜擢だったんだ?
朽木
それはもう、すごく成長しました。拠って立つ媒体ができて、決定権限もあったので、一人でやっている仕事とは全然違った。いろいろな意味で面白かったですね。会いたいと思った人には、政治家でもアーティストでもどんどん会いに行きました。媒体を持っていると、そういうことができるんです。
渡辺
うかがっていると、やはりとても編集者に向いていらっしゃるように思いますが、そのまま追求したいというお気持ちはなかったのですか?
朽木
それまではフリーでしたが、エスクァイアでは社員になりました。副編集長は、要するに中間管理職だったわけで、かなり働かされた。結婚して子供を産むとそれはなかなか難しかった。それと同時に、バブルもはじけましたし・・・。で、子供が2歳になったころに、契約社員にしてもらって、個別の記事の編集はするけれど、中間管理職としての役目からは解放してもらいました。その後、94年に、夫がアメリカの本社に戻ることになって、ニューヨークに移住して、完全に編集の仕事からは離れました。雑誌編集は決定が行われる場にいないとダメなので、ニューヨークにいて日本の雑誌の編集をするのは不可能です。ニューヨーク移住後にも、日本の女性誌の編集の仕事のお話が来たことがありますが、まだ子供も小さかったし、毎月日本へ行くわけにはいかないのでお断りしました。
渡辺
ご主人のお仕事がきっかけで、NYにいらしたんですね。出会われたのはいつ頃だったのでしょう?
朽木
付き合うようになったのは、私がエスクァイアで働きはじめてからだったので、87年でしょうか。彼はビジネス・ウィーク誌の東京特派員でした。ただ、彼もコロンビア大大学院出身で83年から日本駐在だったので、コロンビアの友人同士の集まりで、昔から顔見知りでした。それで、88年末にハワイで結婚式を挙げて、90年の4月に子供が生まれてという、まあ40歳直前すべりこみセーフだったわけです。(笑)
渡辺
編集を続けていらしたら、よくアメリカで映画になっちゃうような名編集長になられていたかも!と思うので、ちょっと残念な気もしますけれど、人生の選択をなさったわけですものね。NYに移ってからはどんなふうに過ごされていたのでしょうか?
朽木
初めは、日本の雑誌に記事を書いていました。でも記事の需要としては「NYで今何が流行っているのか」というものばかりで、美味しいレストラン、流行のお店など、2年ぐらいは面白くやれますが、3年目ぐらいには飽きてしまいました。同時に、雑誌も変わってきて、一つ一つの記事がどんどん短く、コンパクトかつ情報主体になってしまって、つまらなくなった。書き手の立場から言うと、取材期間が短く、表面的な記事が多くなった。世の中はもっと複雑で奥行きがあり、人生経験がある大人としてはそこが面白いのに、と思ったんですね。結局、自分が興味のあるテーマで本を書くしかないのかな、と思ったのです。
渡辺
雑誌もだいぶ変わってきたと聞きます。
朽木
昨年、アメリカの週刊誌ニューズウィークがネット配信のみになったのには驚きましたね。アメリカは、産業でもなんでも変化のスピードが非常に速いんです。特に、メディア業界はいま猛烈な勢いで動いています。最も顕著なのが電子出版ですが、文字だけではなく、静止画像、ビデオ画像を含めて、ヴィジュアルでしかもインタラクティブな電子出版が将来の方向だと思います。日本では、出版社は規模が小さいし、テレビ局、ゲーム企業、家電など、業界の壁が厚いのか、横断するようなイニシアチブが出てきにくいですね。アメリカの雑誌業界もインターネットに浸食されてますます競争が厳しくなり、例えば男性雑誌には広告は入りにくくなったと言われてきたのですが、最近エスクァイアが盛り返して話題になっています。彼らは紙媒体から脱して、この数年インターネット上の展開を充実させてヒット数を増やし、この夏からはエスクァイア・ネットワークというケーブルテレビのチャンネルが始まることになっています。エスクァイアという“雑誌”ではなく、情報を発信するエスクァイアという“ブランド”としてやっていこうということですね。日本の雑誌のネット事業は、ショッピングを組み合わせるぐらいでしょうか。もう少しチャレンジすればいいのにと思いますが、出版社でそういったことに興味を持つ人はあまりいないのかもしれないですね。
齋藤
フェルメールの話はいつ出てきたのですか?
朽木
自分で本を書こうと思って、何に興味があるのか、日本の人に興味を持ってもらえるのはどんなことかと、日々、新聞を読みながら考えていたのです。すると、90年代にいくつか特徴的な絵画盗難事件があった。それで、これだ、と思って文献を読んでアウトラインを書いて出版社に持って行ったら、テーマは面白いけど内容は総花的。ノンフィクションはもっと絞り込まないと効果的ではない、と言われたのね。その時に、文献の中で一番面白かったのがフェルメールの事件だったので、「じゃあ、フェルメールの盗難事件だけに絞って書くのは?」と言ったら、編集者が「いいね!」となって、それで決まったんです。
齋藤
え〜。じゃあ、元々フェルメールに興味があったわけじゃないんだ。
朽木
もともと、絵画強盗という現象からスタートしたんです。で、フェルメールに焦点を絞ることにして、フェルメールに関する文献を徹底的に読んで、オランダにフェルメールを見に行って、そこで夢中になった。結局、私は調べることが好きで、一度調べ始めると、どんどんどんどん調べちゃう。どうなっているのかとことん追求しないではいられないのよね。私の仕事をよく知っている人に、私は「調査オタク」だと言われて、自分で納得したぐらい(笑)。
渡辺
なるほど…調べること、知ることがお好きで、その表現の方法が、初めは学者、ジャーナリスト、編集と変化してきて、最終的にノンフィクションという最も合った表現スタイルにたどり着かれたということなのですね?
朽木
それぞれの仕事での訓練によって作られた筋肉が、いま総合的に役に立っています。たとえば、編集者のひとつの役割は、人が書いた原稿を、どうしたらもっと改善できるかという点を念頭に置いて読むことですが、それを続けると、自分がどんな原稿を書いたらいいかがよくわかるようになるんです。もし、自分が書き手として成長したとするなら、それは編集者の経験によって育てられたからでしょうね。不思議な巡り合わせではあるけど、その時点時点で最上と思える選択をしてきたことによって、興味や技術がつながって、ここまで来ることができたのでしょう。
齋藤
じゃあ、すぐにフェルメールの本も出たのですか?
朽木
フェルメールの本は、最初の本ですから書くのに時間がかかりました。99年の夏は書き終えていたのですが、編集が忙しくて読んでもらえず、作業が止まってしまっていたので、99年の秋に日本にプッシュしに行ったんです。ちょうど、その時別の出版社の人から、翌年4月に大阪で大きなフェルメールの展覧会が企画されているという話を教えてもらい、すぐにその話を担当編集者に伝えたところ、「それはいいチャンスだ。そのタイミングに合わせて出しましょう!」、ということになって動き出し、展覧会直前に『盗まれたフェルメール』が出て、タイミングがよかったのであっという間に3刷までいきました。あの展覧会がなかったら、私の本は出ていなかったかもしれません。
渡辺
フェルメールは、近年類を見ないほどのブームですが、当時のフェルメールの注目度はいかがでしたか?
朽木
そう、昨年の上野の「マウリッツハイス展」もすごい人でしたね。2000年4月の展覧会「フェルメールとその時代」展は、天王寺にある大阪市立美術館のイメージを変えようとして行われたのですが、「真珠の耳飾りの少女」を含めて5枚借りてきて実現した展覧会で、その時点では日本でフェルメールを5枚揃って見られるのは最初で最後だろうということでした。結果としてこれがきっかけで、ブームがはじまり、その後日本では何回もフェルメール展がおこなわれることになったわけです。ブームって独特ですよね。普段絵を見ない人に、人気の画家だからと、展覧会に足を運ばせる力がある。フェルメールに興味を持つなら、同時代のレンブラントや他の画家、あるいは絵全般にも興味を持ってもらいたいところですが、それがそういかないところがなかなか難しい。
朽木
内容はまだ秘密ですが、今、脱稿間近のものがあります。フェルメールで手ごたえがあったので、意識的に美術を自分の専門領域にしようと思うようになりました。美術史を系統的に学んだわけではないという弱点はありますが、反対に美術史家とは違う発想を活用していきたいと思ってます。もうひとつ、日本に住んでいない私が、日本語で日本の読者向けに発信していくときに、題材の選び方を工夫しないといけないんですね。ノンフィクション・ライターにとって、題材との出会いは非常に重要ですが、私のスタイルは徹底的に調べてそこから面白さを発見することなので、日本にしか資料がないようなものは難しいわけです。ですから、日本に住んでいないことがプラスになるようなテーマを探すことが使命だと思っているんです。

『ハウス・オブ・ヤマナカ』のテーマはまさにそれに合致したケースですね。山中商会は、第二次世界大戦前は世界的な美術商で、現在、ボストン美術館、メトロポリタン美術館、大英博物館などにあれだけ高いレベルの日本美術品があるのも、山中のおかげです。日米文化の架け橋のような存在だったのですが、日本では全く知られていないし、資料も日本にはほとんど残っていません。山中商会の活動の大部分が日本の外であったため、そもそも活動が記録されていないわけですね。山中商会は、ニューヨーク、ボストン、シカゴに立派な店があったのですが、第二次世界大戦勃発と同時に、すべての資産をアメリカに接収されて、売り払われるわけです。店にあった書類もすべて接収され、こちらは国立公文書館のメリーランド分館で保管されていました。87箱もあったのですが、それを読み解くのに8年もかかりましたし、あと山中から美術品を買った美術館を回って、資料を見せてもらいました。これは、大学院時代のテーマだった国際政治史と美術を結びつけることができたという意味でも、個人的にいいテーマでした。おかげさまで、日本語の本であるにもかかわらず、アメリカ議会図書館やアメリカの主要美術館、大学の図書館に入れてもらっています。アメリカに住んで、その資料と人脈を活用して、日本の読者の関心にこたえられたという意味で、時間はかかったけどやりがいがありました。

渡辺
翻訳も含めると数多くの著書がおありですが、今後はどんな分野をなさるのでしょう?
朽木
翻訳で出した『エイジレス人間の時代』などはとても良い本でしたが、翻訳は時間がかかるので、今は自分で書くことが中心ですね。
渡辺
翻訳と著作では、全く別の大変さがあるのでしょうね?
朽木
そうですね。著作は、企画を考えているときが一番楽しいのですが、調査に長い時間がかかり、書いているときは結構苦しいですね。リサーチでいい結果が出ると興奮するのですが、本一冊書くのは長丁場なので、だいたい苦しいときがきます。
渡辺
苦しくても、次を考えるのですか?
朽木
ええ。目前に書いている本で苦しんでいるときに、次のことを考えて、なんとかその苦しみをまぎらわせるんです。(笑)初めての本『盗まれたフェルメール』を出したのが50歳のときで、それからたった10年ちょっと。まだまだこれからだと思っています。
渡辺
最後に、今ICUにいる学生のみなさん、ICUに行きたいと思ってくださっている学生の方たちへのメッセージをお願いします。
朽木
そうね。やっぱり海外に出てほしいですね。最近は、日本人の海外留学希望が少ないと聞きましたが、外に出て、勉強でも、旅行でも、ワーキングホリデーでもいいので、日本とは違う環境を体験してもらいたい。そう思います。


プロフィール

朽木 ゆり子(くちき ゆりこ)
国際基督教大学教養学部社会科学科卒、同大学院行政学修士課程修了。コロンビア大学大学院政治学科博士課程に学ぶ。フリージャーナリストを経て、1987年から92年まで日本版「エスクァイア」誌の副編集長を務める。94年よりNY在住。美術関係のノンフィクションを中心に作家として活動。『フェルメール全点踏破の旅』は12万部のベストセラーに。

著書:
『盗まれたフェルメール』2000年 (新潮選書)
『マティーニを探偵する』2002年 (集英社新書)
『謎解き フェルメール』共著 2003年 (新潮社 とんぼの本)
『はたらく女性のための英会話レスキューブック』2003年(編集ホーム社 発売集英社)
『パルテノン・スキャンダル』 2004年 (新潮選書)
『フェルメール全点踏破の旅』2006年 (集英社新書ヴィジュアル版)
『ハウス・オブ・ヤマナカー東洋の至宝を欧米に売った美術商』2011年(新潮社)
『フェルメール巡礼』共著 2011年 (新潮社 とんぼの本)
『深読みフェルメール』共著 2012年(朝日新書)

翻訳:
キャロライン・ バード『エイジレス人間の時代ー不老社会を築くパイオニアたち』共訳・西岡公 1985年(ABC出版)
ケイト・クリッペンスティーン『Tokyo、お店探し名人になれる本 おいしくて、安くて、コンファタブル!ベスト・ランク75軒!』1997年(集英社)
マイク・ウィルソン『カリスマ』共訳・椋田直子 1998年(ソフトバンク出版事業部 )
他多数