INTERVIEWS

第53回 立川 珠里亜

国際弁護士 

プロフィール

立川 珠里亜(たちかわ じゅりあ)
聖心女子高、国際基督教大学、UCSB大学を経て、1973年東京大学修士号取得、博士課程入学。1975年UCLA修士号、1978年ロヨラ大学法学博士号取得、1981年米国加州司法試験合格。以降、PAUL,HASTINGS,JANOFSKY & WALKERを皮切りに4箇所の法律事務所で国際部長や主任を歴任され、2002年よりTACHIKAWA & ASSOCIATES法律事務所主任。日・英・中国語を話す国際派弁護士。
渡辺齋藤
今日はお忙しい中ありがとうございます。
立川
こちらこそありがとうございます。そういえば、近々聖心時代の友達の同窓会があって、奈良橋さん(第6回インタビュー)や他の方々にもお会いする予定です。
齋藤
確か13期でいらっしゃいましたよね。
立川
そうです。齋藤さんが在学されてるころはゴルフ場がまだありましたか?
齋藤
ありました。それに僕が在学していたときはICU牧場の牛乳も飲んでましたよ。確か1970年代中ごろにはもうなくなっていたんじゃないかと思いますけれどね。
立川
そうなのですね。これまでのインタビューも見させていただいたのですが、わたしは奈良橋さんと共に竹内君(第40回インタビュー)と同期なんですよ。わたしも彼も9月生なのです。奥様も同期ですね。
渡辺
竹内先生にも奈良橋さんにも、このインタビューに登場していただきました。立川さんの期は、才能豊かな期ですね!
立川
学園紛争があって授業がありませんでしたけどね。
立川
わたしはよくアメリカでICUからの交換留学生を家に泊めたりしているんですよ。わたしは大学生の時、竹内君と同じ時期に交換留学をして、彼はUCのバークレー校に行き、わたしはサンタバーバラ校に行きました。実は帰ってきてすぐ結婚と言われていたんだけれど、アメリカでそのまま卒業しちゃいました。あのときは現地卒業することができてしまったんです。だからほぼ1年早く卒業してしまいました。帰っても紛争だし、そのままアメリカに残りました。今は卒業もできないし、車も運転してはいけないという決まりをICUが作ったみたいですけどね。
渡辺
これまでも様々な先輩方にご登場いただきましたが、立川さんのようにアメリカで弁護士をなさっている方は今回が初めてです。
立川
毎年いろんな交換生の女の子と話をするんですけれども、なかなか女性が日本でキャリアを積むのは難しいんですよね。わたしの時代には活躍する女性はもっと少なかったですし。(奈良橋)洋子は海外で育ったから高校に入ったときから型破りでしたけどね(笑)。わたしは小学校から高校までは聖心だったんですよ。高校は広尾にある聖心のインターナショナルスクールでした。あまり長く行き過ぎたので、(聖心)大学に行くのはやーめた、と思って洋子と一緒にICUを受けたんです。
渡辺
奈良橋さんと一緒にICUを受けられたのですね!インターナショナルスクールにお入りになったのは、ご両親の選択でしょうか?
立川
わたしは華僑なんですよ。わたしはチャイニーズで、主人は日本人です。ニクソンが台湾を切ってしまったから帰化せざるを得なくなり、苗字が立川になりました。生まれたのは台湾で、4歳のときに日本に来ました。東京の西南小学校に行っていて、そしたら台湾から祖母が来て「これからは英語の時代だ」と言われ、その一声でアメリカンスクールへ行くことになったんですよ。
渡辺
そのときまでは英語は喋れないわけですよね…?
立川
突然おばあちゃんの一言で小学2年生から全て英語の環境になったわけですが、大学3年生になるまでアメリカにも行ったことはありませんでした。だけど大学では日本語のクラスを取らされたわけですが、わたしと竹内さんは日本で育って、他はみんな帰国した人たちでした。わたしたちは読み書きを日本で自然に独学したから簡単でしたね。普通日本って声に出して読みなさいって教えるでしょう。みんなで声に出して読みましょう、とか。日本の学校で声を出して読む学習をしなかったので、わたしは本を発声しないで読みます。勿論読み方が分からない事もしばしばあるからそうなのですが、おかげで判例をすごく早く読めるんですよ。目で字を覚えただけで、音を出す行程が無いから早いんです。音で読むと、少し遅れるんだと思います。でも今ワードを使って文字を打つ時に、「あの字を書きたいんだけど 読み方を知らない!」ということが起こります。だから日本語の文章を書くのは大変ですね。帰国子女は皆そうだと思います。今度同窓会がありますけど、そこで会う帰国子女の友達は日本の大学に行っていながらも、殆どが未だに日本語が書けないですね(笑)。
渡辺
日本語のreadingはとても早いけれど、どういう音かわからないことがあるということですか?
立川
意味が分かるだけで、読み方は知らないのです。「三国志」を今読んでいますが、殆ど読み方知らずですごい速さで読んでいます。
渡辺
アメリカで弁護士をされていて、普段はどのようなペース、スタイルで仕事をなさっているのでしょうか?
立川
PC1つ持っていれば、オフィスを持ち歩いてるようなものですね。牧場の隣に住んでいても、船に乗っていても、ちゃんと仕事をやっていればどこに居ても分からないですよね。現在は、私には秘書やスタッフもいないのですけど、大企業さんを1人で見ることも良くあります。
わりかし自由な方だと思っています。専門職だとどこでもいけるというか、例えば主人が海外に行くことになったとしても弁護士だったらシュッとついていくことができるわけです。お医者さんと似ているかもしれないですね。それに今はEメールができたから更にどこでも仕事がしやすくなりました。今わたしが日本に来ていることなんてみんな知らないです。今はロスの朝9時に合わせて仕事を開始しています。
渡辺
大事な仕事で早いレスポンスを期待されると大変じゃないですか?アメリカにいらしても夜中にも対応されているのでしょうか?
立川
夜中もやるし、早いレスポンスを求められることが多いですね。この前は8月に帰ってきているときに家族の用事で1つ会議をスキップしたのですが、そしたらすごい電話がかかってきたりするんです。電話で大きな案件を全部済ませたこともありますね。
渡辺
つまり、どこにいらっしゃってもその場でぱっと仕事に対応なさるスタイルなのですね。
立川
大きい会社になると、社内弁護士を雇うと社長より給料が多くなってしまうということもあるんですよ。だからパートタイムで顧問弁護士を雇用した方が効率的なのです。
渡辺
会社が大きくなると社内の顧問弁護士のお給料もとても大きくなってしまうというということですね?アメリカのテレビドラマの「スーツ」を想像してしまいます。弁護士の成功報酬では、びっくりするくらい巨額のお金が動くとか。
立川
わたしは全然そんな大きな金額ではありませんが、知り合いとかだと1時間1000ドルで契約していて、20人で会議をすると1時間で2万ドルぽんぽん飛んでいる、ということもあるみたいですよ。
齋藤
大きい会社は大きな弁護士事務所を選びそうなイメージがあるのですが、実際はどうなのでしょうか?
立川
訴訟の場合は相手を負かすということも大事なんだけれど、それよりも日ごろのアドバイスをきちんとやってほしいという要望も大きいですね。作業ではなく、個人と個人としてコミットしてほしいというところも多いです。
ICUの女の子の進路の参考になればよいのだけど、わたしは下積みからやってバックグラウンドもあって裁判に出ていろんな経験をして、そういう個人だからこそ出来ることもあるんですよ。大手に頼んで、下っ端も大勢来てガヤガヤしているのは見ているといらいらするんですよね。通じる言葉でぱっぱっと「こうしなさい!」と言ってあげた方がいいと思います。
わたしはICUの子もすごく推していますよ。弁護士をやろうと思えば、いくらでも経験を積む環境があると思います。わたし自身はもともと仕事が好きなんです。一生懸命なんですよ。この仕事はやっていると謎解きみたいな気持ちになってきます。本当は修士も博士課程も文学系なんですけれどね。
齋藤
経営コンサルティングの仕事では新規のクライアントを開拓するのは大変なのですが、名前があると割と楽になってくるわけですよね。立川さんの場合は、実績を積まれたということで向こうから依頼がくるようなイメージなのでしょうか?
立川
弁護士になった時がバブルの時代だったからわたしはラッキーでした。銀行さん、会計事務所さんからスーパーまで業種は様々ですけど、昔から長くお付き合いしてるクライアントさんが多いです。
おもしろい話がいろいろとあって、たとえば殺虫剤の規定はアメリカではとても厳しいんです。ハエとりも水虫も殺虫剤になってしまうし、日本のそういった商品はみんな「殺虫」とか書いているからそれをアメリカで売るのがとても大変です。あとビタミン剤とかも大変です。健康商品かどうかで、アメリカでは消費税も別れてきます。日本のものは体にいいっておおげさに言ってるものがほとんどなので、そういった健康商品を売るのも大変ですね。だからマーケット関連の仕事をやっているのはいろんなことがあっておもしろかったですよ。
渡辺
お聞きするだけで大変そうなのが伝わってきます。
立川
でも今は調べたらなんでも出てくるから本当に便利ですよ。昔は図書館で判例書を借りるだけでも大変で、その場にいないと見られなかったし、分厚い本で探していたけど、今ではデータですっすっと見られますものね。電動タイプライターもない時代でしたから今考えると大変でした。今の方たちがうらやましいです。でもわたし新しい物大好きだから、アイフォン6Sもすぐに買いましたよ!(笑)
齋藤
立川さんはどうして3年のときに留学に行こうと思われたんですか?
立川
理由はいろいろありましたね。でもまず女性で留学すること自体とても厳しかったのを覚えています。でも学費も払わなくていいし、奨学金もアメリカから出るからとても良い条件だったんですね。当時父は心配して現地まで送ってくれたんですよ(笑)。あのときは勉強したくてしかたなかったことをすごく覚えています。
渡辺
成績はオールAでしょうか、やはり…。
立川
でもICUは厳しかったですよ。アメリカの方が成績はやさしいですね。
齋藤
サンタバーバラでは何を勉強されていたんですか?
立川
わたしは英文学がやりたかったんです。ノーベル賞をお取りになったScott Momadayを始め、いい先生もたくさんいたのでサンタバーバラを選びました。でもいい授業は全部大学院のクラスだったのですよ。だからpetitionして大学院の授業も全部取ったのです。そうしないととれなかったので。そしたらアドバイザーが卒業する間際に、「あなた全部メジャーを取ったのだから、(そのまま帰国せずに)卒業だけはしなさい。」と言ってくれたのです。すごく熱心な方でした。メジャーはいっぱいだったのでボーリングとトランポリンで単位をうめて卒業したのですよ。もうトランポリンの授業の方が大変(笑)。あれは一生忘れないわね。
渡辺
インターナショナルスクールにお入りになって、奈良橋さんとお二人でICUにいらして、そして留学、サンタバーバラで卒業なさったわけですね。
齋藤
あれ、そういえば法律の世界に行くきっかけはなんだったのですか?
立川
人生はとても長いんですよ(笑)。法律の世界にたどりつくのはまだまだ先の話です。わたしの人生は本当行きあたりばったりなんです。だから「これをやる!」「これはこういうものだ!」って決めなくてもいいとも思ってます。
まず、確かあのときは旦那に「日本に行って大学院を受けたら?」と言って受けさせて、心配だからわたしも彼にくっついて行ったら、試験に受かって二人で東大の修士課程に入ったんですよ。修士の夫婦も珍しかったし、そのあと博士課程の夫婦はわたしたちが初めてかもしれないですね。
齋藤
そこでは何を勉強されたんですか?
立川
彼は心理学でしたね。わたしはずっと英文学です。わたしは日本に帰って来てからすぐに慶應大学院にも行っているんですよ。慶應大学の修士課程に行ったときは、詩人の西脇順三郎に面接されました。英語の問題を英語でばーっと書いたのですが、試験を受け取るときに「日本語の問題なのになんで英語で答えたのか」と聞かれて「どこにも日本語で書けって書いてません」と答えました(笑)。和訳のところはもちろん和訳しましたけれどね。西脇さんは詩人だけど慶應大学の経済学部を卒業していて、彼は卒論をラテン語で書いたんですよ。それなのに試験に英語で答えちゃだめというのはおかしいんじゃないですか?とまだ21歳だったのに言った記憶があります(笑)。
先生は名誉教授でもうおじいちゃんでしたが、入学してからは授業のときにわたしが1番若いから先生を呼びに行かなきゃいけなかったんです。でもいつも呼びに行ってからは、先生は「今日の授業やめよ!飲みに行こう!」と言って新宿で一緒に飲んでいたんですよ。
渡辺
うかがっているだけで楽しそう!でも、すごいですねぇ。ということは慶應大学のあとに、東京大学にいらしたわけですか?
立川
主人の試験が1月だったのですが慶應大学の在学中に一緒に試験を受け、そこから東大時代が始まって、東大には5年行きました。わたしの人生は全部旦那に引っ張られていますね。わたしは旦那とは修士まえに結婚して、博士課程修了まで1学期というときに子供を産みました。大学院時代に子供を産むのが一番いいんですよ。
それで彼がアメリカに帰るというから帰りましたが、UCLAで東洋人がアメリカで米文学を教えるのはどうかということで教授達の強要で今度は東洋文学で修士を取ったのです。でも別におもしろくなくて、やだなーと思いながら日本語を教えていたら生徒たちが来て、「法学部に行きたいから成績Aをくれ」って言うんですよ。それで「法学部出たらいいことあるのかなー?」と話を聞いていたら、3年で卒業できて稼げるということ。そのときわたしは博士課程の合間に日本語教師もしていたけれどものすごく稼げるというわけでもなく、一方主人は博士課程を出ながらKFC(ケンタッキーフライドチキン)で働いて肉を切ったりしていたころでした(笑)。
それでわたしは彼に「法学部いったら?受けてごらんよ。」という話をしたんです。それでロースクールに入る試験のときに、主人がボイコットしちゃいけないと思ってわたしも一緒に受けることにしたんです。そしたらわたし試験に強くて受かっちゃったんですね(笑)。
渡辺
え?試験場に行くまで勉強もせず、受ける気もなかったのに、受かっちゃったんですか!?
立川
なんのゼミとかも行かなかったですね。ICUはそれだけ教育がいいんですよ。文法とか数学が出るのだったんですが、わたし試験に強いんです。ある意味運がいいところもあります。
そうしてロースクールに入ってみると、みんなより自分は10歳以上年上だし子供もいるし、周りよりも気持ちに余裕はありました。そうして1年くらい経つと、なんだかみんな面接を受けたりローレビューのコンクールに応募したりしていて、なんだろうと思ったらローレビューという雑誌があって、友達に見せてもらったら応募するテーマの題名がすごくおもしろそうだったんです。それで応募してみたら、わたしが入っちゃっいました(笑)。テーマは憲法についてだったと思うのですが、それでローレビューに入って編集長をしたら法律事務所からひっぱりだこなんですよ。そんなのを知らないでやったんです。それでサマーのプログラムをやった法律事務所にオファーをもらって、すぐに引き受けました。普通はもっと面接をして接待を受けるのですがね。
渡辺
これまでのお話だけでも、エッセンスがありすぎてまとめきれないくらいです。
立川
けっこういきあたりばっかりですよ。
齋藤
普通行き当たりばったりで失敗する人が多いのに、なんでそれでうまくいくのかがとても不思議です(笑)。
立川
わたしは絶対にめげないのね。最初に大手に入った時にも、怖いもの知らずだからすぐ上から睨まれるのですよ。会社にしたらアウトでも、自分の正義は貫くようにはしています。大手にも結構能無しが多いのですよ。でも大手に居たら無能でも自分の上司を押さなければなりません。大手を出てクライアントの法務部長になったら大手の中から有力な弁護士を選べるので、クライアントのためになります。
1日は24時間と言いますがわたしは48時間にしたいのです。引き延ばすんですよ。欲張りなの(笑)。世の中にはいろんなおもしろいことがあるから、もっといろんなことをキャッチして欲しい。伸びる人間は踏まれてもどんなことがあっても伸びるんです。だからそんなにめげないこと、そしてくよくよしないこと。
渡辺
弁護士を目指す以外の方たちにも、ぜひメッセージをいただければ。
立川
お金が欲しかったら金持ちと結婚していました(笑)。これはある意味甘やかされていたのだと思います。ICUは恵まれています。信念を作れる、突き通せるのは贅沢です。日本の会社はあまり女性を相手にしなかったのです。でも今は昔よりはずっと女性が重要視される時代になってきました。
渡辺
立川さんたちが築いてきてくださったおかげです。
立川
これは、今の男性は戦後の強い母に育てられて、ママの言うこと聞くようになっているからなのですよ(笑)。今は活躍する女性が本当に増えています。
齋藤
それは僕も賛成です。ちなみに、お仕事以外でやられてることとかあるんですか?
立川
週3回ゴルフをしています。30歳くらいからかな。あとはワインが好きですね。今いるところはサンタバーバラの北のソルバンクというところなんですけど、自分がいた場所に戻って来た、という感覚ですね。あとは小さなボランティアもします。ICUの子を助けるくらいですけれどね。
齋藤
僕は同窓会の仕事もしていましたが、アメリカの皆さんは良くICUの学生の面倒を見てくれているみたいですね。
立川
学校の休暇中に寮が閉まって泊まるところがない、という子を泊めたり、ということはよくありますね。
齋藤
今のICU生たちを見て、立川さんから「こうしたらいいんじゃない?」とか何か思うことはないですか?
立川
ICUというか、いろんな人を見ていると、例えばアメリカで泊めたり世話をしても、その後進路とかどうなりました、っていう連絡が来る人と来ない人がいるのです。
齋藤
僕も同窓会長時代はドリームコンペに協力して個人的に奨学金とかを渡しても、そのあとうんもすんもないんですよね。
立川
当たり前みたいなところあるというか、気持ちが入ってないというか。色んなことをこっちもしているわけだから、その後のことくらい知らせてきてもいいじゃないかな、と。主人は「俺もうやらないよ」と言ったこともありましたね。自分が助けられたり影響を受けたりしたらそういうのは忘れてはいけないと思います。
齋藤
ちなみに交換留学生とはどうやってつながるのですか?
立川
同窓会からいつも連絡をもらっています。車の面倒を見たり、BBQをすることもありますよ。
それで一緒に時間を過ごしていると、女の子からよく「結婚とキャリアどっちを大事にすべきか」って相談を受けることがあります。これ怒られちゃうかもしれないけど、まず結婚しちゃいなさいって言っています(笑)。結婚したら経済的に安定するし、それでそのお金で学校行って、キャリアを積めばいいじゃないというのがわたしの考えです。わたしは大学院の間に1番目の子供を産んで、2番目は大手法律事務所を辞めたときに産んでいて、これまで一度も仕事は休んだことないですね。でも日本は特に仕事を休ませないというか、厳しいなと感じます。
渡辺
立川さんご自身、とてもハードワーカーでいらっしゃいますよね。
立川
昨日テレビで誰か女性の話を見たけど、5人子供を育てながらテレビに出て仕事をして、旦那さんはアナウンサーなんだけど、エネルギーがすごいんですよね。帰ったら子供一人一人にハグして、仕事もして、でもわたしも似ているところがあって、もうしょうがないんですよ。育児も仕事もやりたいこと全部やらなきゃいけないし仕事に落ち度があってはいけない。父に似てるかもしれないです。ずっと働いてきた人なのでね。
渡辺
妥協がないのですね。
立川
いいかげんな妻をしたくなくて全部完璧にやろうとしたこともあったけど、今は主人を1ヶ月ほっておく事も有ります。手紙で「キュウリとせんべいしか食べてない」と言われても「冷蔵庫の物なんでもチンしなさい。今の世の中なんでも食べられるわよ!」と返したりね(笑)。
さっきのテレビの話に戻ると、子供たちにインタビューすると子供たちは「うちのパパは家庭のことをすごく手伝うんです。僕もそういうパパになるんだ」と話していたりしましたね。今の男性はすごく優しいし手伝ってくれると思いますよ。今の時代女性が活躍してるでしょう?飛行機に乗っても周りもビジネスウーマンがいっぱいなのよ。娘をめきめき育てて、一生彼を養うっていうのもいいんじゃない?わたしの娘はもうそうするつもりって言っていますね。女が男を養うことの、どこがおかしいの? 男が家にいたっておかしくないと思うけど、ICUでさえそういう考え方は少ないかもしれない。みんなまだtraditionalなのよ。結婚とかもね。
渡辺
やりたいことを全部やってしまえばいいわけですね?
最後にICUの在学生やICUを目指そうと思ってくださっている高校生や若い世代に対してメッセージをいただけますか?
立川
好奇心は強いと思うけれど、最近の若い人たちはいろんなものをキャッチできていない気がする。世の中にはいろんな面白いことがあるじゃないですか。わたしはクライアントから新しい話題が来ると、勉強代もらえる上に新しいことが学べる!と思うんです。こんなに趣味を兼ねた仕事は他にないなって思います。今娘はスタンフォードの大学院に行っていますが、時々スケジュールがheavyだとか嘆いているんですね。それを聞くと、「自分のために勉強できる時代なんてこんなラッキーなことはないのに!」と思ってしまいますね。学校行くことほどこんな利己的なことはないわけですよ。会社入ったら自分のためだけではないんだけど、今の若者は自分のためと思っているところがある。だからもうちょっと会社のためにがんばってみるだとか、世の中を見てみてもいいんじゃないかと思います。
伸びる人間は踏まれてもどんなことがあっても伸びるんです。だからそんなにめげないこと、そしてくよくよしないこと。日本をperspectiveで見れば、東北の地震から少し変わったと思います。明日すべて流れちゃうかもしれないわけです。だから全部やることはできないから、大事なものは大事なことで選んで行くことが大切。あと正直に生きることも大切。
そして、視野狭窄にならないことですね。まああんな携帯電話ばっか見て電車に乗ってたら無理だけどね(笑)。周りを良く見て、考えることが大切だと思います。


プロフィール

立川 珠里亜(たちかわ じゅりあ)
聖心女子高、国際基督教大学、UCSB大学を経て、1973年東京大学修士号取得、博士課程入学。1975年UCLA修士号、1978年ロヨラ大学法学博士号取得、1981年米国加州司法試験合格。以降、PAUL,HASTINGS,JANOFSKY & WALKERを皮切りに4箇所の法律事務所で国際部長や主任を歴任され、2002年よりTACHIKAWA & ASSOCIATES法律事務所主任。日・英・中国語を話す国際派弁護士。