INTERVIEWS

第67回 鏡味 味千代

太神楽曲芸師

プロフィール

鏡味 味千代(かがみ みちよ)
山梨県出身。2000年3月国際基督教大学卒業後、2007年3月まで広報代理店にて会社勤務。その後、OLを卒業し、2007年4月国立劇場、第5期太神楽研修生となる。研修時代には太神楽の技能だけではなく、獅子舞に必要な鳴り物(笛、太鼓)、三味線、また日本舞踊なども稽古をつみ、2010年3月研修を卒業。同年4月、ボンボンブラザースの鏡味勇二郎に弟子入り。その後1年間、噺家の前座に混ざり落語芸術協会にて前座修行を行う。
2011年4月浅草演芸ホールにて寄席デビュー。東日本大震災後の静かな寄席ではあったが、沢山のお客様が足を運んでくれた。その後、寄席では珍しい語学力を生かし、英語で太神楽を上演したり、年に一度のペースで海外公演に参加したりと、太神楽の可能性を探っている。都内の寄席を中心に、お祝い事やパーティーでの余興、学校での公演など多岐にわたって活動中。
修行に入ってからは今14年目なのですが、修行を始める3ヶ月前ですら、太神楽を始めるなんて思ってもみなかったです。
渡辺
太神楽曲芸師 鏡味 味千代さんとなられてから、どれくらいになるのでしょうか?

鏡味
鏡味 味千代の名前をもらってから今10年目ですね。

渡辺
お小さい頃は、こんなふうに伝統芸能の道に進むとは考えておられなかったのでは。

鏡味
修行に入ってからは今13年目なのですが、小さい頃どころか、修行を始める3ヶ月前ですら、太神楽を始めるなんて思ってもみなかったです。
出身は山梨の山中湖村で、高校時代に新潟のキリスト教系の学校に行きました。元々は東京に住んでいたのですが、2歳の時に父が脱サラしてペンションを始めたのです。今も弟と母がペンションを経営しています。山中湖は大好きで、今もまとまったお休みがあるたびに帰ります。ただ小さな頃は、2歳の頃から山中湖にいても、どんなに長く住んでいてもどこか周りと違う気がして。そういうのが面倒くさくなって、高校からは外に出てみたいなと思い、新潟に行って親元を離れて寮生活でした。

齋藤
新潟の高校の、どういうところがいいと思ったのですか?

鏡味
勉強だけに偏らないっていうところですね。もちろん勉強はするのですけど、例えば週に1回農業をやるような時間があったり、修学旅行ではなく色々な施設にボランティアに行ったり、人生について語り合うなどの人格教育ですよね。

渡辺
そこからICUにいらしたのは?

鏡味
指定校推薦があったので(笑)。でも、ICUが指定校推薦にあるというのもその高校を選んだ理由の一つでした。
人生をひとつひとつ作ってきてやっと出会えた仲間という感じだったので、フランスを離れるときは全然違うパラレルワールドにまた帰るような気持ちがしました。
鏡味
高校時代に留学したんです。ずっとフランスが好きだったので、AFSでフランスに行きました。

渡辺
ずっとフランスがお好きだったのは、なにか理由があったんですか?

鏡味
もともとは歴史が好きで。中学生くらいからとにかく西洋の歴史に夢中になり、本を読み漁っていました。ジャンヌダルクあたりがすごく好きで、年表を写したりとか(笑)。

渡辺
年表を写す!? 本当にお好きだったんですね(笑)。
歴史や、西洋に興味を持たれたきっかけは?

鏡味
小学生の頃、学校の図書館にある漫画偉人伝が好きで、全巻読むほどでした。あとは、母の実家が代々クリスチャンだったので、クリスチャンへの憧れがあって。保育園の頃にミサがあると聞くと連れて行ってもらいました。外国のものというとクリスマスや教会に憧れていて。そこから西洋に興味が向いたのかもしれません。

渡辺
憧れのフランスでの1年は、いかがでしたか。

鏡味
正直言うと、つらかったです。フランス語ができなかったので、テープを聴いて自分で勉強していきました。ただフランス人は発音にうるさい。「メルシー」の発音でさえ全く通じなくて。だからもう、あんなに勉強したのにと。ゼロからのスタートでした。ファミリーはすごく優しい方達だったのですが、この人たち全然わかってくれない、と感じたこともありました。でも乗り越えて、最後はほんとにいい家族になれました。

齋藤
フランスに1年おられたわけじゃないですか。人生においてこんなことが学べた、というのはありますか。

鏡味
私はそれまですごくガリ勉で負けず嫌いだったんです。でも、フランスでは言葉ができないので勉強したくてもできなくて。だから勉強しなくても生きていけるのだと知りました(笑)。勉強しなければいけないという鎧から解き放たれました。それと同時に挫折ですよね。それまでは努力すればできない事はないと思っていたのですが、フランス語は努力しても全然上手くならなくて。あとは友達づくりの難しさです。フランスの高校は日本の学校のような行事が全くなくて、入学式すらない。ホームルームは一応あるのですが、ホームルームで何かしようという考えがないのです。なので学校で友達を作ろうにも、機会がなかなかありませんでした。友達も最終的にはできたのですが、それもクラブ活動などで知り合いました。マラソンと柔道のクラブに入っていたので。

渡辺
柔道は、もともとなさっていたんですか?

鏡味
はい。柔道は高校時代から始めました。今黒帯で、新潟県で3位までいきました。海外に行くから、何か日本のものを身につけたいと思って。スポーツ好きだったので柔道部に決めました。

渡辺
勉強もできて、柔道でも結果を出されて。でも、念願のフランスで初めての挫折も経験されて。貴重な1年間だったのでしょうね。留学先を離れるとき、それはそれで寂しかったですか?

鏡味
寂しかったですね。とても。それこそその一年間、人生を一日一日作っていきました。やっと築けた人間関係、出会えた仲間、出会えた自分、という感じだったので、フランスを離れるときはまた全然違うパラレルワールドに帰るような気持ちがしました。
ICUに行ったら自分と同じような考えを持っている人が周りにすごくたくさんいて。あ、私ここで生きていていいのだなと気持ちが軽くなったのが最初の印象です。
渡辺
ICUに入ってからの生活は、どんなでしたでしょう?

鏡味
ICUでは寮に入りました。新潟でも寮生活だったので。でも、ICUに入って看板に英語と日本語が併記されているのをみて、ああ、ICUだ、となりました。

渡辺
例えば、最も思い出に残っているのはどんなシーンですか?楽しい思い出ですか?

鏡味
楽しかったですね。「ICUで生きている」ということが一番楽しかったです。ずっとなんだか周りと違うと思いながら生きていたのですが、ICUに行ったら自分と同じような考えを持っている人が周りにすごくたくさんいて。あ、私ここで生きていていいのだなと気持ちが軽くなったのが最初の印象です。

渡辺
ここに登場してくださった方々の中でも、かなりの割合でみなさん、同じように感じていらっしゃるようなんです。ICUに来て、あ、私ここにいていいんだっていう感覚。もしかしたら、ICUの最もいいところのひとつかもしれませんよね。鏡味さんは、外交官になりたかったと資料に書いてありましたけれど?

鏡味
はい、外交官に。フランスに行った時に、日本へのイメージがひどかったんです。今のような、アニメが有名だとかクールジャパンみたいな感じじゃなくて。日本人はすごく真面目で、戦士のように働いている、みたいなイメージで。一番衝撃的だったのが「日本人ってキスするの?」って聞かれたことです(笑)。ガチガチのすごく真面目な人たちがいっぱいいると思われていたのですね。

渡辺
へぇ〜!? 機械人間みたいな人たちがただただ働いている、みたいな印象だったんでしょうか?当時は。

鏡味
はい、そういうのを変えたいという思いがありましたね。日本のことをアピールする仕事がしたかったので、外交官の中でも広報分野みたいな部分を担当したいと思っていました。外交官試験に落ちた時にICUの友達がPR会社で働いていて、私のやりたかったような仕事をされていて、たまたま声をかけていただき、そこの会社に入りました。

渡辺
なさりたい事ではあるのだけれど、本当にこれでいいのかなというような思いはありましたか?

鏡味
そうですね。仕事の手法としてはとても興味深かったのですけれど、その当時は広報とかPRの手法って、外資系企業が日本に来たときに、どうやって日本の様式に染めて日本で売り出すか、ということがメインだったので。私は、日本で売り出すと言うよりは、もっと日本のものを海外にPRする仕事をしたいと思っていました。

太神楽という芸を見た時に、パッと見てわかりやすい、言葉がなくても伝わりやすいというのと、最初から最後までおめでたいというのがすごく魅力的に感じました。
鏡味
それから、他のPR会社に転職した頃にちょうど父の影響で寄席に初めて出会いました。

渡辺
お父様は山梨でペンションをなさりながら、東京にいらした時に寄席に立ち寄られて?

鏡味
元々うちの父は私がICUにいたくらいのころから、山中湖から新宿着のバスに乗って、伊勢丹でお弁当を買って、新宿三丁目にある末広亭という寄席にお昼から終バスまで一日居るっていうのが好きだったのです。

渡辺
なるほど!素敵ですね。じゃ、鏡味さんが小さい時にも一緒にいらしていたんですか?

鏡味
いや、私は正直、落語とか寄席に全く興味がなかったのですね。日本のこととは思っていたのですけど、全然ピンと来なくて見たこともなかったので、それこそ「笑点」だと思っていました。でもうちの父がすごくハマっていて、1度くらい一緒に行ってあげようかと思って。実際に行ってみたら、ああ、こんな世界があるのだと。

齋藤
こんな世界っていうのは、どんな世界だったんですか。

鏡味
まず落語という芸が素晴らしかったですね。噺家さんが舞台の上で落語を話されるじゃないですか。そうすると実際に話されている姿ではなく、話を聞いて自分が想像した風景を後から思い出すんです。初めて聞いた時に想像した景色は今でも覚えています。これはすごい芸だなと思いました。もちろんその間に太神楽なども見て、仕事で殺伐としていた私の心がすごく癒されたんですよね。

齋藤
ちなみに、太神楽というのはどういうもののことを言うのですか。

鏡味
太神楽は、簡単にお話ししてしまうと、獅子舞の芸です。昔、伊勢神宮などの大きな神社にお参りできない人のために、神社から太神楽の一団が派遣されて、一軒一軒地方のお家を回っていたんです。それで、獅子舞で厄払いをしてお札を授けると、その家は今年伊勢神宮にお参りに行きましたよということになるのです。いわば神社のデリバリーサービスです。その代わりに、それらの家々からお米やお金をいただいて、生計を立てていたのが太神楽という一団です。
もともと上方、つまり関西の方の芸だったのですが、徳川家康が江戸に幕府を開いてから参勤交代がおこなわれると、地方の武士たちが江戸に住むようになるわけですね。そこで太神楽に、江戸の方にも来てくれ、ということになる。最初は毎年江戸まで行っていたようですが、毎年行くのは大変だから住んじゃおう、と次第に江戸に住むようになったのが江戸太神楽です。戦前までは江戸の方でも日本橋などの都内各所から福島あたりまで回っていたとのことですが、関東大震災や戦争で回る家がなくなってしまったので、そこで寄席の世界に入ったと言われてます。

齋藤
いうてみたら、お祓いをやっているんですね。

鏡味
そうですね。

渡辺
噺家さんになりたい!ではなく、太神楽に!と思われたのは?

鏡味
まず、女性が落語をやるということで、自分が落語をやる時にどうやったらいいかというイメージが私には全く見えてこなかったんですよね。しかし何より、太神楽という芸を見た時に、パッと見てわかりやすい、言葉がなくても伝わりやすいというのと、最初から最後までおめでたいというのがすごく魅力的に感じました。もともと日本の明るい文化を伝えたいと思っていたので、これを私がやることで、日本のハッピーな部分を知ってもらえるのではないかなと思いました。

渡辺
日本のハッピーな部分という意味で直感的に共感なさったのですね。実際に太神楽をやってみよう、となった時、ご両親など周りの方はどんな反応でしたか?

鏡味
実は、誰にも相談しなかったんです。勢いでした。国立劇場の養成事業で、太神楽の後継者を募集するというのを見て、その時は「あ、こんなのがあるのだ」と思って。でも条件が23歳以下って書いてあるし、女性だしどうかな、と10日間くらい寝かせていたのですけど、とにかくやってみようと。

渡辺
条件が23歳以下という壁は、どうやってクリアなさったのですか?

鏡味
その時はすでに29歳で、正攻法で行ったら書類で落とされると思ったので、国立劇場を運営する日本文化芸術振興財団の理事長に手紙をさしあげました。太神楽への情熱とやる気を伝えたところ、元サントリーの副社長をされていた方が、初の民間採用として当時の理事長をされていて、私を面白いと言ってくださって。とりあえず面接だけでも受けさせてあげて、ということで声かけてくださったんです。

齋藤
それはICU生らしいなあ(笑)。

鏡味
よく言われます。

齋藤
正攻法はあかんから、時の一番偉い人に手紙書いてみようなんて、なかなかそこまでは行動力伴わないものね。
一緒に入った子達の方が上手だったので、そこは泣きながらやりました。私プロになれないのではないかと思って。
渡辺
晴れて研修生となられて。しかし、お稽古はつらくなかったですか?

鏡味
社会人を経験していたので、仕事をすることの大変さからしたら、自分の好きなことをできるわけじゃないですか。それはすごく楽しかったですね。ただ、お稽古をしても実際にできないとプロにはなれないので、それはプレッシャーでした。

渡辺
志したとしても、なかなか芸を習得できない方もいらっしゃるのではないでしょうか。

鏡味
いるでしょうね。一緒に入った子達の方が私より上手だったので、そこは泣きながらやりました。私はプロになれないのではないかと思って。他の子はまだ若いから色々道があるけれど、私これできなかったらもうどうするの、と思いながら(笑)。

渡辺
応募していらっしゃる人数自体、少ないのでしょうか?裾野が広がっていかないどんな現状なのでしょう?

鏡味
ひとつは太神楽という芸がなかなか知られていないということと、寄席に行ってみても太神楽より落語家さんに憧れる人が多いのかもしれません。あとは、やっぱりこれで食べていけるかというのが一番不安なんじゃないでしょうか。

渡辺
その部分については、いかがですか?

鏡味
人によりますよね。営業も自分でやらないといけないので。

齋藤
寄席に出ると、そこで1回幾らかもらえるのですか?

鏡味
寄席は交通費にならないこともあります。その時見に来てくださったお客様の数で決まるので。寄席では、もちろんお客様に芸を楽しんでいただくというのもあるのですが、そこで自分をアピールして、お客様から逆にお仕事をいただくこともあります。

齋藤
なるほど。寄席以外ではどういうところでやることになるのですか?

鏡味
パーティーなどが多いですね。新年会、忘年会、なにかの記念のパーティーですとか、そしてやっぱり最近増えて来ているのがインバウンドのお客様のレセプションパーティーですね。

今、私たちの師匠世代で寄席にちゃんとでてらっしゃる方が4人くらいですね。その下がガクッと間が空いて私たち世代で、国立劇場で養成してくださった方たちが中堅で入ってきているのですけど、その方たちが10名。少ないですね。
齋藤
僕も、伝統芸能はなんとしてでも、なくしたらあかんと思っているのですね。僕らができることはあんまり多くないけれど、今度僕のお弟子さんたちの集まりを京都でやるのですけど、京都の料理屋さんで芸妓さんを呼んで踊りなどを見せてもらおうと思っているのです。機会があれば、日本の素晴らしい伝統芸能を見せてもらって、そこからいろんなことが学べるでしょうし、仕事を作らない限り伝統芸能も続かないことになりますからね
鏡味
それは素晴らしいです。ありがたいことです。

齋藤
そもそも伝統芸能をやろうと言う人たちの数ってどうなっているのでしょうね。どんどん少なくなっているのか、それとも増えてはいるけど、お稽古ごとについていけなくて脱落する人が多いとか。そのあたりはどうなのですか。

鏡味
まず、伝統芸能をやりたいと言った時点で、相当いろいろなことを越えてきて、やろうと思う人が多いので、始めてからやめる人は少ないですね。とくに噺家さんなんかは。

渡辺
太神楽では、味千代さん以外に何人くらいいらっしゃるとかわかるのですか?

鏡味
今、私たちの師匠世代で寄席に出ていらっしゃる方が4人くらいですね。その下がガクッと間が空いて、国立の養成所を卒業した私たちの世代が若手・中堅で入ってきていて、10名。少ないですね。

齋藤
ワンステージの時間は決まっているのですか。

鏡味
決まっていないことが多いです。パーティーなどは時間が決まっていますが、寄席では噺家さんと噺家さんの間に出る枠なので。色物というのですけど。

齋藤
色物って色の色ですか。別に色ついているわけじゃないですよね(笑)。

鏡味
色、ついているんです。寄席に行くと噺家さんは黒字で書かれていて、噺家さんではない、例えば漫才とかマジックとか太神楽の芸人は朱色で書かれているのです。

渡辺
なるほど、だから色物って言うのですね。

鏡味
色物は落語と落語の間に入って、場の雰囲気を変えたり盛り上げたりする役割があるのですが、もう1つ時間調整の役割もあるのです。前の方が長くなった場合は詰めないといけないですし、次の方の到着遅れていたりしたら長くしないといけない。本当に直前に何分でやるかが決まるのです。
うちの主人からは、私を食べさせる気は無いと言われています。そのかわり、好きに仕事していいし家事も育児も半分半分だよ、ということなのです。
齋藤
結婚はされているのでしたっけ。
鏡味
しています。
渡辺
ご主人とはどの時代に知り合われた方なのでしょうか?
鏡味
会社員時代に知り合いました。週末に趣味で川下りのカヤックをやっていて、それを習い始めた時の同期でした。
渡辺
国立劇場で応募するのだということを知った時はどんな反応でしたか。

鏡味
お付き合いを始めたのはこの道に入ってからなのですけど、カヤックで出会った方々にも刺激を受けていました。みなさん自営業とか、手に職をつけている方とか、うちの主人は研究者なのですけど、どこか自分にこだわりを持っている方が多くて。そういう方達の仕事の話を聞いていたらすごく楽しそうで。私も手に職じゃないですけど、自分でちゃんと生きていきたいなと思って。なので主人は特に驚いたりとかはなかったと思います。

齋藤
夜も仕事入るやろうし、そのときに子供さんがおられるし、どのように仕事をマネージするのですか。

鏡味
仕事の時は、うちの主人が面倒を見ています。うちは二人で働いていて、家計も完全に二分割です。ちょっと語弊があるかもしれないのですけれど、うちの主人からは、私を食べさせる気は無いと言われています。そのかわり、好きに仕事していいし家事も育児も半分半分だよ、ということなのです。

渡辺
面白い方ですね。

鏡味
そうですね。他の家庭とは違うかもしれませんが、でも私はそうじゃ無いと困るなというか。家事を分担するのであれば、私も同じだけ責任もかかえるべきだと思いますし、そうすることで仕事が忙しい時も、反対に主人の予定が立て込んでいる時も、自分の洋服を買う時も、経済的にも精神的にも気が楽です(笑)。多分夫もそう思っていると思います。だたルールも決めていて、お互いある一定の額を銀行口座に入れることにしています。

齋藤
あ、2人共用の口座があって、そこに入れ込むわけ。家事がらみのやつは全部そこから出ていくと。

鏡味
はい。あと、何歳までにこれだけは貯めておいてね、ということは言われています。それ以外はお互い自由にさせていただいているので。そのかわり仕事をちゃんとお互いやる。家事も育児もお互いちゃんとやる。

一緒に働いている仲間も噺家さんも本当に陽気な方達で。会社ではないですけれど、みんな家族のように仕事をしているので、その暖かさがいいです。
渡辺
今、実際にプロになってからの生活はどうですか。

鏡味
楽しいですよね(笑)。

齋藤
何が楽しい?

鏡味
やっぱり、ひとつは芸人という仕事のサイズが私に合っていて。企業で働いていた時は、仕事を失敗したら企業に迷惑がかかるというか、それがちょっと重すぎて。でも、1人でやっていると失敗しても全て自分の責任だし。やっぱり自分1人、もしくは自分の家族が幸せに暮らせるくらいのサイズが合っていると感じました。
そして仕事自体がすごく楽しいですよね。お客様とは一期一会なので、頭を200%くらいフル回転させんです、高座の時って。やっぱりその場にいるお客様に合わせないといけないので、ほぼ毎日同じ芸をやっているのですけど、間や、喋り方、速さなど、どういう風にこの人たちに合わせていこうっていうのがあるので。

渡辺
受けるタイミングとか湧くタイミングとか全然違いますよね、きっと。昨日と今日では。

鏡味
はい。そういう緊張感も楽しいですし、一緒に働いている仲間も噺家さんも本当に陽気な方達で。会社ではないですけれど、みんな家族のように仕事をしているので、その暖かさがいいです。そしてやっぱり自分が吸収したことが全て身になるのもありがたいですよね。例えば今日お話しした中でもいろんなヒントがありますし、美術館行く、旅行行く、というのも全部自分の糧になっていく、というのが本当にありがたいし楽しいことだなと思います。太神楽を通じて、日本にはそういう幸せをみんなで分かち合うような文化があるのだよっていうことを伝えていけるような仕事や勉強をしていけたらいいなと思います。

渡辺
今後どういうところを目指していらっしゃるのでしょうか。

鏡味
今年、今まで活動してきたことがだんだん身になってきているのですけど、英語で太神楽を海外の人に紹介するというのを今まで少しずつ準備してきていて、オリンピック前ということで声がかかるようになってきました。やっぱり今いる太神楽の方の中では私しかできないことなので、そういった分野を広げていきたいです。
あとは、日本の「おめでたい」という文化や考え方を海外に広めるような仕事をしたいですね。海外、とくにヨーロッパ圏は「おめでたい」という概念自体がないのですが、太神楽を通じて、日本にはそういう幸せをみんなで分かち合うような文化があるんだよ、ということを伝えていくような仕事や勉強をしていけたらいいなと思います。

渡辺
それをイングリッシュと、フレンチと、日本語と全部でできるわけですものね。

鏡味
でも、英語でやるのは思ったより難しかったですね。よく「太神楽は海外行っても見せるものだからいいよね」と言われるのですが、そんなに甘くはなかったです。まず、日本では傘の上で枡を回すと一番喜ばれるんです。ますます(枡枡)繁盛なので。でもそもそも海外には枡がないんです。なので枡を回しても、ボックスを回してそれで?みたいな。また「繁盛」や「お金持ちになれる」ようなことは、あまり好意的に受け取られない場合もあります。

渡辺
ああ、そうか。やっと日本酒というのが定着したけれど、彼らはグラスで飲まれますもんね。そういう意味で言うと、日本の器だとか、うちわとか襖とか、生活用具の中に文化って染み込んでいるから、そこからわかっていただくっていうのは大変でしょうけどやりがいのあることでしょうね。

鏡味
そうですね。結構面白いと思います。パフォーマンスだけではなく、文化を伝えられる。
私はまだまだ目指せるものがあるというのが逆に嬉しくて。お師匠方にはたぶん一生かかっても追いつけないので、そういった方が自分の人生の中にいてくださるということがすごく嬉しいです。
渡辺
ICUにいま在学していらっしゃるみなさんや、これからICUを目指される若い世代に、味千代さんからぜひメッセージをいただきたいです。

鏡味
まずはICUは国際的な大学であるからこそ、ぜひ日本文化にも目を向けて欲しいです。私たちの文化のベースを知っていただき、その上で世界に羽ばたいて欲しい。
そして、人としていつでも柔軟であって欲しいです。私も本当にこの仕事をする直前まで、まさかこの道に進むとは思っていませんでした。ICUって固定観念に縛られない教育をしてもらえると思うんです。いつでもいろんなアンテナを広げていただければ、例えば人生何が起きてもまた新しい道が見つかりますし、逆にいつ自分が天職に巡り会えるかわからないので、ICU生らしく死ぬまで突き進んでいただきたいですね。皆さんに。

渡辺
そういう意味で言うと、天職ですか。

鏡味
私はそう思います。歴史が好きだったこともありますし。太神楽ってもともと神道のものなのですが、あのころ勉強していたものとは全然違いますけど、正直歴史オタク心がすごく満たされて(笑)。成田の山道で1軒1軒獅子舞でお家を巡ってお祓いをする「町内回り」というのが100年続いていますが、そこにお手伝いに行くと、私、歴史の100年の先端にいるんだと、それだけで嬉しくなっちゃいます。

渡辺
そうですか。でも、芸事っていうのはずっと極めていくものだから大変ですよね。「ここでいいんだ」がないって本当に大変なことだなと。

鏡味
私はまだまだ目指せるものがあるというのが逆に嬉しくて。師匠方にはたぶん一生かかっても追いつけませんが、そういった目指すべき方が自分の人生の中にいてくださるということがすごく嬉しいです。

渡辺
なるほど、素晴らしい。

齋藤
ありがとうございました。



プロフィール

鏡味 味千代(かがみ みちよ)
(本名:長谷川(旧姓 高橋)麻帆)
2000年3月国際基督教大学卒業後、2007年3月まで広報代理店にて会社勤務。
その後めでたくOLを卒業し、2007年4月国立劇場、第5期太神楽研修生となる。
研修時代には太神楽の技能だけではなく、獅子舞に必要な鳴り物(笛、太鼓)、三味線、また日本舞踊なども稽古をつみ、2010年3月研修を卒業。得意だったのは笛。今でも寄席で出囃子の笛などを吹いている。
同年4月、ボンボンブラザースの鏡味勇二郎に弟子入り。その後1年間、噺家の前座に混ざり落語芸術協会にて前座修行を行う。365日休みなく勤め、お茶くみ、座布団返し、師匠方への着付け等、行儀見習い一般を経験。
2011年4月浅草演芸ホールにて寄席デビュー。東日本大震災後の静かな寄席ではあったが、沢山のお客様が足を運んでくれた。
その後、寄席では珍しい語学力を生かし、英語で太神楽を上演したり、年に一度のペースで海外公演に参加したりと、太神楽の可能性を探っている。都内の寄席を中心に、お祝い事やパーティーでの余興、学校での公演など多岐にわたって活動。