INTERVIEWS

第77回 岡部あおみ

美術評論家, インディペンダント・キュレーター

プロフィール

岡部あおみ(おかべ あおみ)
東京出身。国際基督教大学卒業、パリ第4ソルボンヌ大学修士課程、国立ルーヴル学院研究論文第3課程修了。近現代美術史とミュゼオロジーを専攻。パリのポンピドゥー・センターで「前衛芸術の日本1910-1970」展などの企画に関わり、パリ国立高等美術学校講師・客員教授、武蔵野美術大学芸術文化学科での専任教員を経て、パリ日本文化会館で現代アートシリーズの展示に携わる。現在、美術評論家およびインディペンダント・キュレーターとして活躍している。森美術館とポーラ美術館の理事。
父のフランスへの憧れをよく聞いていたせいか、自然にフランスが第二の故郷みたいな感じになって。
渡辺
はじめまして、このインタビューでキュレーターの方をお迎えするのは、初めてなんです。
齋藤
これでインタビューするのは77人目なのにね。
渡辺
学生の皆さんからすると、キュレーターという仕事に憧れがあっても、どんなふうにアプローチすればいいのかわからない面もあるかもしれません。
岡部
今は多種多様なキュレーターのあり方があり、私は変わったタイプのキュレーターというか、オーソドックスではないんです。
齋藤
それは、ますます興味が増しますね。
渡辺
岡部さんはICUでは語学科ですが、フランス文学やフランスに興味を持たれたのは、ご入学前からですか?
岡部
ええ、父がよく仕事でヨーロッパに行っていて、ちょっとヨーロッパ気質というか、フランスかぶれというか。
齋藤
何の仕事されていたんですか?
岡部
時計の貿易の仕事だったのでスイスが中心でしたが、フランスが大好きで、実存主義に憧れていました。
齋藤・渡辺
へえ~!
岡部
本当は結婚せずに、サルトルやボーヴォワールのように暮らしたかったと愚痴ってました(笑)。
齋藤
うわ!その時代や。
岡部
でも戦争中に青春を送ったから、語学の勉強ができず、彼が持っていたフランス文学の本も全部日本語だったので、ゾラとかサルトルとか中学の頃から読めました(笑)。父のフランス文化への憧れが影響しているのでしょうね…。彼は絵がとても好きで、上手でした。幼い時は抱っこされながら父が絵を目の前で描いているのを見ていて、いつも上手いなあ…と見惚れてました。自分で描くと全然違うんですよね(笑)。
齋藤
お父様は何を目指されていたんですか?
岡部
本当は医者でしたが、両親が戦争中に亡くなって長期の勉強ができなくなり、早稲田で好きな文学の授業を聞いたりしつつ、仕事をしていたそうです。語学コンプレックスの克服に、アメリカ人の英語の個人教師が、彼だけのために家に来ていました。
渡辺
時が時ならば、お父様は才能を開花されていたのでしょうね。お父様の影響で岡部さんは小さい時からフランス文学に接していらしたんですね?
岡部
そうですね。自然にフランスが第二の故郷みたいな感じになってました。小さい頃谷中に住んでいたので、幼稚園の頃からおませな従姉妹と東博に行ったり、父とは西洋美術館に行ったり。動物園も近くにあって、上野の文化施設に家から歩いて行かれたんです。歩いて行かれる距離に美術館が普通にある環境でしたから、身近に感じて美術館好きになったのかもしれません。17歳のときに文京区白山に移り、そこからICUに通ってました。東大の植物園が近くて鳥が飛んできたり、静かな環境でした。

小さい頃から父親の影響が強すぎて、離れないといけないと思い、自立しようと北海道大学を密かに狙っていました。でも高校の教諭にバラされてしまい(笑)、父には咄嗟に北大志望の理由は乗馬をやりたいからだと言いわけしたら、東京でもICUだったら乗馬ができるぞと。それでICUに行ってみたら素晴らしい環境で、自然もとても綺麗、乗馬もできるかも。しかもトイレがすごく綺麗。芝生のキャンパスでみんなのんびりしている。こんな景色は初めて見たなと、自由で明るい空気に惹かれました。親から離れて自分のやりたいことを見つけることに必死で、一年生の頃は将来何を目指すのか、何を仕事にするのかは明確ではなかったですね。

  

幼稚園の頃の母と父

言語とアートには切っても切り離せない関係があり、創造性の基本は言語とその構造にあるのではないかと。
渡辺
ICUで語学科を選ばれたのは?
岡部
フランス言語学ですが、最初はフランス文学で入学しました。前衛的なフランスのヌーヴォー・ロマンの小説や映画のような脱領域的な活動に興味があったからです。でもその時の文学の教授がオリエンテーションで、マルセル・プルーストをこれからずっとやりますっておっしゃって。プルーストは好きだけれど、それしかやらないのは私には無理かなと、すぐに学科を変えました…。
渡辺・齋藤
ははは(笑)。
渡辺
語学科でなさりたかったことは、フランス文学だったんですか?
岡部
いえ、大学ではアート・クラブとテニス部でしたが、絵を描くより、アートについて議論したりすることが多く、アートのことを考えても、それを言葉で表現するわけです。造形表現でもまず日本語で考えた後に創造しますし、言語とアートには切っても切り離せない関係があり、創造性の基本は言語とその構造にあるのではないかと思っていました。とりわけ表現という自己と対峙する問題の場合、主体を意味する主語が大事になってくる。さまざまな言語を調べると各言語構造の中での主語はいろいろ違うんです。フランス語は”je”の一語だけですが、日本は「私」、「僕」など多様ですね。表現にも影響を及ぼすそうした主語の位置付けとか、意味などを調べたいとはもともと思っていて、それで語学科に移りました。
齋藤
大学の1年の時に、そういうことに興味持つんですか?
岡部
そうですね。結局言語という点では文学も同じで、フランス文学は自分で読み続けるわけだし。卒論は当時流行っていたソシュール言語学と時枝言語学を比較した主語のテーマを取りあげました。

  

大学1年生。ICUキャンパスにて。

昔は今みたいにメールもないし、手紙でやりとりして、手紙で結婚することを決めました。
齋藤
それでキュレーターをやってみたいっていうのはいつごろ出てくるんですか?
岡部
美術のキュレーターになるには、まず美術史の素養が必要です。当時ICUの美術史の教員は西洋美術と日本美術が二人いて、エドワード・キダー先生が日本美術で、考古学や仏教美術の研究をされてました。私は仏教美術自体にはそれほど興味はなかったけれど、外国人が現地で日本美術の研究や調査をするのは大変そうだけどすごいなと。それで逆に、私は日本人だけどフランスで西洋美術の研究ができるのではと想像しました。当時日本で見られる西洋美術の展覧会も作品も少なく、西洋美術の研究をしたいなら外国に行かないと無理だと感じていて、言語をやっておけば作品はフランスに行けば見られると思って。ルーヴル学院という学芸員養成の美術史専門の学校があることは日本では知りませんでしたが、結婚を決めてフランスに行って調べたんですね。
渡辺
じゃあ、ご結婚の方が先なんですね?
岡部
ええ、夫は早稲田で、出会ったのは私が大学4年の頃です。
渡辺
どこで知りあわれたのでしょう?
岡部
フランス言語学の丸山圭三郎先生のおかげとも言えます。彼は反体制派だったので、学園闘争時にICUを辞めて中央大学に移ったんです。当時はICUで人気があったのは断然アメリカ言語学、丸山先生のゼミは私一人だから、まあいいかと思われたんでしょうかね。
齋藤
あ~なるほど~。
岡部
それで私は次の先生が着任されるまで、中央大学のオープンセミナーに通っていました。そこには百人以上が詰めかけていて、反体制の活動家もいて、構造主義やフランスの思想に関心を持つ学生などがたくさんいました。
渡辺
夫君も、そこにいらしていたのですね?
岡部
そうなんです。彼の専門は建築で、すでに建築事務所で仕事をしていましたが、フランスの思想や哲学にも興味があって。
渡辺
アートに関する話は出会われた時から弾みましたか?
岡部
アートに関する話はしますね。彼は2つ歳上で本をたくさん持っていて、メルロ=ポンティの本とか全部貸してくれました(笑)。
渡辺
でも、ご結婚となると…岡部さんのお父様はどんなご反応でしたか?
岡部
私は帰国子女と一緒に半年遅らせて9月に卒業したんですが、4月卒業と違い、就職口がほとんどなかった。しかも普通、企業は4月からしか新入社員は出社できず、半年余ってしまい、父からその間フランスへ行きたかったら行ってもいいと言われて、父の援助で半年フランスに留学しました。当時は知りませんでしたが、父はだいぶ前からパリに画廊を作りたくて、その準備のためにマドレーヌ通りに事務所を構え、スタッフも派遣していて、その人たちが留学した私の世話をしてくれたりもしたわけです。半年後に日本に帰ってきたら、彼がフランス政府給費留学生の試験に合格して、2週間後にはフランスに発つことになっていて。
渡辺
行き違いですね…。
岡部
ええ、一方で私は父に言われて日本での就職を決めてから留学したので、すぐに仕事につくことになり…。
渡辺
就職は、どちらに?
岡部
キャノンです。英語ができる人がほしくてICUなら誰でも英語が堪能だと思っていたみたいですが(笑)、私はフランス語が専門だし、英語の教職もとっていなかったのに採用されたんですね。当時キャノンは、ハイレベルの語学教材のハードとソフトの開発を手がけていて、Sプロという名のチームに配属されました。そのソフトの開発に必要な最先端の英語教育法を研究するために、ICUの大学院に通ってくださいと言われて(笑)。会社には週1でしか行かず、今のリモートみたいですが、現存する英語教材を片っ端から分析評価する仕事は自宅でやっており、それと並行して聴講生として一年間ほど、ICUに通っていました。
渡辺
それは夫君がフランスにいらした後の話ですよね?
岡部
そうです。昔は今みたいにメールもないし、手紙をやりとりして、手紙で結婚を決めました。
渡辺
お手紙で!?いらっしゃってから、どれくらいですか?
岡部
キャノンで担当した日本における現状調査は1年もかからずに報告書を提出して終わり、会社からはハード機器の開発が進むまでの期間、試験はあるのですが、アメリカ支社への赴任を勧められたんです。でも彼からはそろそろ1年経つしフランスに来ないかと言われて。やっぱりフランスかなと(笑)。
渡辺
キャノンからも嘱望されていたと思いますけれど?
岡部
優秀なエンジニアチームの方々は皆さんいい方ばかりでしたし、仕事のためとはいえ大学院にも行かせてもらったりして、辞めてしまうのは本当に申し訳ないと思ったんですけれども……
初めて関わった展覧会はパリ。
渡辺
お父様は、結婚してフランスに行くという判断をどんなふうに?
岡部
彼は日本では仕事をしてましたが、それを辞めて行ったパリでは留学生で、父がパリに出張で行った時にまず会ってもらいました。その後フランスで建築デザインの仕事に携わりたいと思っていた頃、ポンピドゥー・センターの建設に建築家が必要で、ピアノ・アンド・ロジャースのチームに加わりました。私はルーヴル学院で勉強を始めたばかりで、彼は薄給の一番若いスタッフでしたから、すごく生活は大変で、5年間ほど父から留学時のように仕送りを続けてもらってました(笑)。以前、半年フランスに留学させてもらった時に、パリのサント=ノーレ通りにあるジルベール・ジューヌという老舗の画廊で、父の友達で和紙に墨で南画風な絵を描いていた画家の展覧会を開くから、手伝うようにと言われ、パリで初めて展覧会に関わったんです。父には長い間思い描いていた野望があって。
渡辺
ああ、画廊を作るという。
齋藤
展覧会を開くのに何をするか聞くとキュレーターの仕事がわかると思うので、そこをちょっと詳しく聞きたいですね。
岡部
その時は父のパリオフィスのスタッフが二人いて、展覧会の内容も父の考えです。
渡辺
どなたの展覧会かは決まっていたんですね?
岡部
父が全部決めていて、輸送や搬入はオフィスのスタッフの方々がやり、作品が会場に到着したところに私が行って、その時は展示だけ、老舗のギャラリーの方々はベテランなので、その人たちに教えてもらいながら手伝っただけです。その頃から、パリにギャラリーを作るのが父の夢なのを、うすうす感じるようになりました。
渡辺
ギャラリーが成功か成功じゃないかっていうのは、どうわかるのでしょうか?お客さまの人数とか?
岡部
ギャラリーで展示をする場合は、観客の数も大事ですが、見てもらうだけではなくて売ることが重要です。ところがその展覧会は、父の期待を裏切り、作品が全然売れなかった。当時は輸送だけでも面倒でしたし、画廊を借りたり、長年オフィスを維持してスタッフを雇っているだけで相当費用がかかったわけですから、ものすごい赤字に。それでとうとう父のギャラリー創設の夢は潰えてしまった。まだパリに日動画廊などもない時期でしたが、もしあの夢のギャラリーができていたら、私はそこのマダムだったかもしれません(笑)。

  

父が描いた小・中学時代の肖像画
受験勉強みたいな日々を4年間送らねばならず、ICUは何て楽だったんだろうとその時は思いましたね。
渡辺
そこから、すぐにキュレーターの道に進まれたのですか?
岡部
パリに到着して半年後ぐらいにルーヴル学院に入学したのですが、周りの学生たちは皆キュレーターになりたくて猛勉強しているわけで、私もそういう気持ちになりました。
渡辺
ルーヴル学院の後にソルボンヌにお入りになったのですよね?
岡部
ソルボンヌは1、2年で論文を書く修士課程だけで、ルーヴル学院の第三課程に進んだ後です。同時期にポンピドゥー・センターの国立近代美術館でインターンを始め、インターンの後に、特別研究員として収蔵作品の研究や展覧会の準備に関わり、3年以上かけて「前衛芸術の日本1910-1970」展の共同コミッショナー(企画者)として仕事をしました(注1)。ルーヴル学院では自分の専門分野を決めてそれを一年からずっと受講しますが、同時に東西の美術史を古代から現代まで3年間学び、その後1年間美術館の管理運営、作品の修復といった美術館学、いわゆるキュレーターの基礎知識を学び、一定の成績を収めると5年間の研究論文第三課程に進め、希望する美術館でインターンができます。

  
「前衛芸術の日本1910-1970」展 パリ、ポンピドゥー・センター、1986年12月~1987年3月、オープニング、前列右から再制作された『作品(鏡)』とおそろいの服を着た具体の山崎つる子、ジェルマン・ヴィアット、岡部、フランソワ・レオタール文化相、アルフレッド・パックマン ©Centre Pompidou


工藤哲己の展示室で、前列右ジェルマン・ヴィアット、フランソワ・レオタール文化相、岡部、アルフレッド・パックマン ©Centre Pompidou


この展覧会の会場構成デザインを担当した夫、岡部憲明、会場の入口で


  

渡辺
ICU、ルーヴル、ソルボンヌとご経験なさった方はそういらっしゃらないと思うので、率直にどんなふうに違いましたか?
岡部
私はフランスに行ってから10年間学生をやっていたのですが、ICUで幅の広い教養を齧った上で、ルーヴルで美術史だけを集中的に勉強できたのが良かったと思います。ただ毎年進級試験が残酷で半数が落とされ、成績が張り出されるし、受験勉強みたいな日々を4年間送らねばならない。ICUは何て楽だったんだろうとその時は思いましたね。実際ICUにいた時は、生物とか数学とか、一般教養の授業が英語だったりして、ともかく大変でしたが。ICUの英語による授業のおかげで、先生の話す言語が全部理解できなくても、ある程度内容を把握できれば自分で勉強ができるという自信がついたというか(笑)。
渡辺
ソルボンヌでは、別のことを?
岡部
ソルボンヌは大学院なので授業単位は少なく、論文を書けばよく、美術史担当の先生とも数回会っただけです。私のテーマが日本の戦後美術でしたから、その先生の専門外だったせいもあり、放任主義でしたね。
渡辺
自己責任なんですね?
岡部
フランスの大学は大体皆そうでしょう。ルーヴルだけは、正規の学芸員に採用されるための厳しい国家公務員試験を目指す学生を対象にしていますから、とにかくスパルタ教育で有名で、研究論文は海外や外部から専門の教授を招いて公開審査があり、博士課程レベルでした。
美術館の収蔵作品の研究をして常設展を開催したり、作品を借りて一つのテーマで企画展を開くその両方ですね。
齋藤
う~ん、まだよくわからないのですが、キュレーターというのは一言では言えないかもしれないですが、どんなことをやるんですか?
岡部
美術館専属のキュレーターなら、その美術館の収蔵作品の研究をして常設展を開催したり、作品を借りて一つのテーマで企画展を開くその両方ですね。企画展の場合は自分の得意な分野だと基礎知識があるので、例えば私なら近現代ですが、そうした詳しい分野だとどこの美術館にどんな作品があるかわかるので出品依頼もしやすい。もちろんテーマを立てて、時間をかけて研究してから理想の作品リストを構成しますが、ギリギリまでそうした作品が借用可能かどうか、わからないこともあります。学芸員は各自専門分野があり、また各美術館の方針で、企画展重視なのか、収蔵品が豊かで常設展が中心なのかにもよって学芸員の仕事の内容も多少変わります。先日、大阪の中之島美術館に行ったのですが、優れたコレクションを持つのが、良い美術館の基本だと痛感しました。
齋藤
中之島美術館のコレクションはどうやって集められたんですか?
岡部
まず大阪のコレクターの方々が、美術館建造を目標に自ら収集した作品を寄贈したんですね。
齋藤
みんなあげるわけなんですね。
岡部
美術品はお墓まで持って行けるわけではないですし、愛し、評価し、購入し、鑑賞してきた美術品は、自らの生きた軌跡であり、それをきちんと後世に遺すことまで考えてこそ、良いコレクターだと言えますから。


「バルテュスとジャコメッティ」展
メルシャン軽井沢美術館
1997年7月~11月
オープニングでのチーフ・キュレーターのごあいさつ
  
   


メディアの取材を受ける
    
    

「ジョルジュ・ルース聖なる光」展
メルシャン軽井沢美術館
1999年4月~7月
オープニングでメルシャン軽井沢美術館館長や関係者を案内する。

顔の見えるキュレーターの評価は……
齋藤
評価される、いいキュレーターっていうのはどういう人のことを言うんですかね。
岡部
キュレーターももちろん美術館の作品の収蔵に関わるわけですが、公立の美術館は普通、外部の専門家で構成されたいくつかの委員会があり、そこでの承認を経てから決定になることが多く、予算の問題もありますが、希望する作品を全部すんなり収集できないこともあります。また重要な作品が美術館に収蔵されても、実際にそれが館長の功績だったのか、学芸員の尽力だったのかはあまり表に出ません。なので顔の見えるキュレーターの評価は、良い内容の展覧会をその人が考えて実施したかどうかになりがちです。美術史的に古い作品を扱う場合は、まず研究調査をして、新たな発見や作品の解釈をもとにテーマを決め、借用する作品のリストを作って、作品の持ち主や美術館などと出品交渉をします。現代美術の場合は、学芸員が知っている既存の作品を出してもらうか、その展示のテーマに沿って新作を作ってもらうかの二つの方法があります。展示全部が新作の場合は、アーティストと相談しながら、作品と展覧会を同時に0から作り上げていくことになります。学芸員が作家を決める際には、それまでその作家の作品をよく見てきているので、新作を依頼する時でも、どんな方向の作品になるのかは大体イメージできるわけです。過去作品か新作かの違いだけではなく、現代アートはジャンルが広く、絵画や彫刻、写真や映像、メディアアートの方もいるので、それぞれ制作方法も展示も異なります。
齋藤
キュレーターの道に進んでみたいなって思う人には、どういうアドバイスをしてあげれるんでしょうね…。
岡部
自分の興味のある分野の作品と展覧会をたくさん見ること。そうした経験を積んで良い作品や展覧会を認識できるようになることでしょうか。
齋藤
それはやっぱり生で見るのがいいですか?
岡部
そうですね。昔は難しかったのですが、今は国内のコレクションが豊かになり、重要な作品が増えたので、いろんな展覧会に足を運べば、かなり観られます。日本のコレクションだけで、モネ展とか結構なレベルで開催できますから。

  
  

「眼と精神―フランス現代美術」展、1998年8月から1999年1月まで、群馬、福島、和歌山の美術館を巡回。京都で陰影礼賛をテーマに新作映像を準備するティエリー・クンツェルとゲスト・キュレターの岡部


  
武蔵野美術大学主催αMプロジェクト、「田中偉一郎x増岡巽「夢のマイホーム」展、2006年、設営風景(武蔵野美術大学で教鞭をとっていた時、カルチャーパワーというwebサイトを創設した。http://apm.musabi.ac.jp/imsc/cp/ このサイトの12.Alpha M project2005 に、2005年~06年にかけて企画した全部で14人の作家を扱った計8回の展覧会の情報やインタヴューが掲載されている。写真は7回目。http://apm.musabi.ac.jp/imsc/cp/menu/artist/tanaka_masuoka/intro.html )


  
「ジョルジュ・ルース アートプロジェクト in 宮城」展、ビルド・フルーガス、塩釜市、2013年5月。東日本大震災で被災し解体が決まった松島町のカフェ「ロワン」で、フランスのアーティスト、ジョルジュ・ルースが地元の若者たちとともに描画した作品を、ルースが写真にした作品の展覧会。阪神淡路大震災の後で、岡部は実行委員を結成し、初めてルースと被災した倉庫や工場などで作品制作を行い、完成した8点の作品を全国に巡回させ、最後に兵庫県立近代美術館に寄贈した。高田彩さんと。 ©大洲大作

  
「カタストロフと美術のちから」展、森美術館、2018年10月~2019年1月に、宮城で制作された作品が展示され、オープニングでルース夫妻と再会。

芸術は愛だと思うんです。芸術への愛、芸術家への愛が最初にある。
齋藤
これはド素人の発想なんですけど、ここの美術館は絶対見に行くべきっていうのはどこなんですかね。人の興味にもよると思うけどね。
岡部
何に興味があるかにもよりますが、私は美術館が創設された時代や環境がとても大事だと思っています。1つ挙げるなら、大原美術館は私立で、日本初の近代美術館として戦前、倉敷の街中に設立されたギリシャ風列柱のある建物ですが、その土地の富豪のメセナが友人の洋画家を支援し、その作家の夢を実現しようとした結果でした。昔風の象徴的な美術館のイメージで開始し、その後は工芸などにもコレクションを広げて、倉敷特有の蔵を展示室にしたりして発展してきました。そうした歴史と地域の融合、新幹線もない時代から、一日かけて訪れた多くの観客たちの感動の余韻が伝わる場所ですね。
齋藤
あそこはお庭も綺麗だしね。
岡部
ええ。大原孫三郎という社会的貢献もかなりされた実業家が、児島虎次郎という画家の西欧留学をサポートして、渡航できない他の洋画家のために西洋絵画を日本に持ち帰りたいという虎次郎の想いを汲んで、コレクションが始まったんです。つまり芸術は愛だと思うんです。人間愛、芸術への愛、芸術家への愛が最初にある。アーティストは未来を見つめて、それを一生懸命考える人です。作品は死後にも残るわけだから、自然と未来がどうなるか気になりますよね(笑)。美術館の好き嫌いは体感もあり、作品や展示を見る視覚だけではなく、全体の雰囲気、建物、導線、観客への対応、レストランなどまでも含めて、体感するんでしょうね。あと私が好きなのは、戦前、東京に建てられた瀟洒な私邸だったところを1979年に美術館に改装した原美術館。現代美術中心のこじんまりしたコレクターの美術館でしたが、残念ながら館の老朽化などの問題で2021年に閉館し、今は群馬県にある姉妹館ARCだけで運営されています。

  

現代アーティスト・シリーズ「トランスフィアvol.1 創意のランドスケープ 真鍋大度+石橋泰」展、パリ日本文化会館ギャラリー、2016年3月~5月、『rate-shadow』の会場風景。肉眼では白色光にしか見えない情景だが、スマートフォンなどを通すと、上記写真のような虹色の光景が現れる新作。


  
現代アーティスト・シリーズ「トランスフィアvol.3 内藤礼 信の感情」展、パリ日本文化会館ギャラリー、2017年1月~3月、会場風景。広島平和記念資料館蔵の被爆瓶17点と親指ほどの木彫の人物『ひと』54点、照明、ガラス瓶に生けた花などで構成され、上記の長さ25mの台座の周囲を天井から糸で吊るした小さな鈴が2.5m間隔で囲っているが、写真では不可視。グレーの絨毯を敷きつめ、観客は靴を脱いで会場に入った。


  
現代アーティスト・シリーズ「トランスフィアvol.5 米田知子 アルベール・カミュとの対話」展、パリ日本文化会館ギャラリー、2018年3月~6月、カミュが1歳になる前にアルジェリアから第一次世界大戦に兵隊にとられた父は戦死。カミュはアルジェからパリに出て、第二次世界大戦のさなかに『異邦人』を刊行、また『ペスト』を執筆した場所などを調査し、米田知子が故郷のアルジェリアを含めて訪ねて撮影した新作のカラー写真17点、白黒写真11点、映像作品などを展示。


  
米田知子と会場構成の最中。

  
現代アーティスト・シリーズ「トランスフィアvol.6 大岩オスカール+田中麻紀子、カミーユ・フォンテーヌ リオ、東京、パリ:都市とスポーツの祭典」展、パリ日本文化会館ギャラリー、2019年9月~12月。2026年にパリでオリンピックが開催される。その前のリオと東京を含めたオリンピック3都市をテーマとする絵画展。ブラジル生まれの日系ブラジル人大岩オスカールが自ら描いた3都市をの巨大な新作ドローイングの前に立つ。この3点の大作はくっつけて展示すれば絵巻のように連続し、もし縦に並べれば、オリンピックが始まったギリシアの神ゼウスが出現する。裏の壁面には、東京を担当した田中麻紀子の水彩とパリを担当したカミーユ・フォンテーヌの油彩がある。


  
オープニングの大岩オスカールによるゼウスの表象にまつわるトーク。


  
現代アーティスト・シリーズ「トランスフィアvol.7 塚原悠也+コンタクトゴンゾ」展、パリ日本文化会館ギャラリー、2020年1月~3月。関西のパフォーマンス・グループ、コンタクトゴンゾのこれまでの記録映像や新作コラージュ、メンバーの塚原悠也による新作インスタレーションで構成。写真はオープニング時の大講堂でのパフォーマンス。


  
オープニング・パーティーの記念写真。パリ日本文化会館での現代アーティスト・シリーズ「トランスフィアの最終回となったこの展覧会は、コロナによるロックダウンで、会期の2週間前に閉会となった。

キュレーターに限らないですけど、1つの仕事をしながらさまざまな新鮮な発見が得られて、認識を更新できるような方向に進まれるといいと思います。
渡辺
最後にICUの在校生の皆さん、そしてICUを目指そうと思ってくれる若い世代に対してメッセージをお願いできますか?
岡部
近年は、特に社会的なことに関与するテーマを扱う現代アートに注目しています。2019年秋に上野で、民間人が犠牲になった空爆の歴史をその始まりから現在までずっと調べている、クリスティーナ・ルカスというスペインのアーティストの3面の映像を展示する展覧会をしました。シシリアで開催された国際展で作品を30分ほど見る機会があり、とても感動し、興味があるテーマでしたし、上野文化の杜の企画や場所性にも合うと思い、取り上げたわけです。ただ全編を見るには6時間ほどかかるんですね。展示をして初めて全体を見られたんですが、朝鮮戦争時の空爆が戦時下の日本以上に厳しいものだったことが、彼女が画面に示す数値で認識できたり、自分の知らない世界の歴史がヴィジュアル化されていて、衝撃とともにものすごく発見がありました。今なら、ウクライナの地が空爆の黒いドットで日々埋められ、民間の犠牲者数が増加する悲劇的な映像が続くはずです。仕事をすることを通して、新たな世界観、それまで分からなかった社会状況、考えてもみなかった美しさ、人間と人間の関わりなどを知ることができるのは、豊かな人生につながると思います。キュレーターに限らないですけど、1つの仕事をしながらさまざまな新鮮な発見が得られて、認識を更新できるような方向に進まれるといいと思います。
齋藤
なるほど。素晴らしいですね。ありがとうございました。

  
  
「想起の力で未来を:メタル・サイレンス2019」展、上野旧博物館動物園駅 駅舎、2019年10月から11月。上野文化の杜実行委員会主催。スペインのクリスティーナ・ルカスによる『終わりえぬ閃光』。飛行機が飛び始めてまもなく民間人が犠牲になる空爆が開始。ルカスはゲルニカから発想したこの作品を、ビッグデータを活用し、100人以上の世界中の人たちとコラボレーションして調査、現在に至る6時間以上の3面の映像作品にした。左がどこの国の空爆で何人の民間人をどこで殺戮したか、中央画面が爆撃のあった場所の地図に犠牲者数の大小でドットが現れ、右はそれにまつわる写真。上記のようにすべてが白黒の映像は、広島・長崎に原爆が落ちるまでの時代で、この写真は第二次世界大戦時の日本がアジアの国々に行った空爆。米軍による空爆で亡くなった日本の民間人の犠牲者数は、本展キュレーター岡部が再調査し、訂正かつ補充した。


  
戦後になると全面がカラーに変わる。写真は米軍によるベトナムへの空爆。2019年に開催した本展での映像は、延々と続くシリアへの空爆で終わったが、近年、無人ドローンによる攻撃が増加し、どこの国による爆撃かを特定することが困難な場合も増えてきた。


  
招聘したもう一人のスペインの作家、フェルナンド・サンチェス・カスティーリョによる新作『テューター』。樹木が豊かな上野公園には、米国のグラント夫妻による植樹もある。この会場の前の公園には定期的に炊き出しのためにホームレスの人々が集まる。ブロンズで鋳造された折れ曲がった木は、植樹されても衰えることもある樹木と同様に、社会や環境の変化で生き方が左右される人間のありようを象徴している。左がカスティーリョ、右がルカス。

  
  
注1:2020年7月31日から2021年1月3日まで森美術館で開催された「STAR展:現代美術のスターたちー日本から世界へ」の際に、海外で開催された日本の近現代美術の主要な展覧会が取り上げられ、ポンピドゥー・センターで1986−87年に開催した「前衛芸術の日本1910-1970」展の分厚い図録も展示された。この機会に岡部あおみ、池上裕子、中嶋泉(たまたま全員ICU卒業生で美術研究者)によるトークが行われ、以下のYoutubeで矢作学の挨拶の後、冒頭15分間ほど岡部はパリの前衛展に関してプレゼンしている。
https://youtu.be/lIozyDapboI あるいは、
https://www.mori.art.museum/jp/mamdigital/03/index.html
  
  



プロフィール

岡部あおみ(おかべ あおみ)
国際基督教大学、パリ第四ソルボンヌ大学修士、ルーヴル学院第三課程卒業。5年間メルシャン軽井沢美術館のチーフキュレーター、12年間武蔵野美術大学芸術文化学科教授、また2年間のパリ高等美術学校の講師と客員教授、1年間のニューヨーク大学客員研究員を経て、2014年-2020年、国際交流基金・パリ日本文化会館アーティスティック・ディレクター(展示部門)、2018年より上野の杜新構想実行委員会国際部ディレクター。「前衛芸術の日本1910‐1970」展(1986-87年パリ・ポンピドゥー・センター/コ共同コミッショナー),「国際美術映像ビエンナーレ」(1990,92年同センター審査員),「ジョルジュ・ルース阪神アートプロジェクト」(1995年),「ジョルジュ・ルース in 宮城」(2013年), 2016年以降、パリ日本文化会館で「真鍋大度+石橋素」展、「内藤礼」展、「米田知子」展などのキュレーターを務める。ドキュメンタリー映画『田中敦子、もう一つの具体』を制作、監督した。著書に『ポンピドゥー・センター物語』、『アート・シード/ポンピドゥー・センター美術映像ネットワーク』、『アートと女性と映像 グローカル・ウーマン』他、編著に『アートが知りたい 本音のミュゼオロジー』他。