INTERVIEWS

第78回 髙木・マーガレット・萌香

アナウンサー

プロフィール

髙木 マーガレット 萌香 (タカキ マーガレット モエカ) 
ハワイ生まれ、テキサス育ち。12歳で日本に移住し、福岡市立香椎第一中学校、西南学院高等学校を経て、2015年に国際基督教大学を卒業。静岡放送に就職。現在はフリーのアナウンサーとして活動している。
姉を見てなんでも真似しちゃう妹だったので、私もなる〜みたいな感じで(笑)。
ずっと、追っていたらまさかの妹の方がなってしまったという感じです。
渡辺
齋藤
はじめまして。本日はよろしくお願いします。

髙木
お願いします。

渡辺
ご出身は東京ですか?

髙木
ハワイとテキサスです。

渡辺
お生まれになったのは?

髙木
ハワイです。

齋藤
そうなんや。

渡辺
ご両親がハワイご出身でいらっしゃるんですか?

髙木
いえ、父の仕事の都合で家族がハワイにいて、その時に生まれました。

渡辺
ということは、お父様とお母様はアメリカの方?
髙木
いえ、日本人です。

渡辺
お名前が髙木マーガレットさんだから、ハーフかクウォーターかと勝手に思ってました。じゃあお父様もお母様も日本の方で、お父様のお勤めで海外が長くていらっしゃるんですね。ということは、お家の中では日本語と英語の両方ですか?

髙木
学校では英語で、でも日本語を家で喋りなさいっていう厳しい家庭でした。

渡辺
髙木マーガレットのマーガレットというお名前は?

髙木
それはミドルネームなんです。本当は苗字も「たかき」なんです。新卒で静岡放送に入り、その時は「たかき」だったんです。その後フリーになって事務所に入った際に名前を変えなければいけなくて、芸名で「たかぎ」になりました。

渡辺
本当は、たかきさんなんですね。今も事務所には所属していらっしゃるんですか?

髙木
最初はFM BIRDという事務所に入っていたんですけど、今はもう辞めてしまって(笑)。
現在は完全にフリーになって自分のチームを作り、みんなと一緒に頑張っています。

渡辺
芸能の道に進もうと思われたきっかけは、いつだったのでしょう?

髙木
きっかけは、アメリカにいた時にCDデビューをさせていただいた経験があって。

齋藤
渡辺
へえ〜!

髙木
5歳くらいの時に出してもらって、そういうのが楽しいなという気持ちがあって。

渡辺
いきなりCDデビューというのは、なかなかないことだと思うのですけど、ご兄弟の影響とか?

髙木
はい、姉がいて、姉がそういうのが大好きで。ずっとそういう姉を見てなんでも真似しちゃう妹だったので、私もなる〜みたいな感じで(笑)。ずっと追っていたらまさかの妹の方がなってしまったという感じです。現在姉は一般企業に勤めています。

齋藤
そのCDデビューっていうのは、普通子供が望んでも親はダメって言うもんだと思うんですけど…。
それは誰が後押ししてくれたんですか?

髙木
私は人前に出るのが苦手で。姉のレコーディングについて行っただけだったんですよ。

渡辺
そもそも、お姉様はどんないきさつでレコーディングをされてたんですか?

髙木
日本人補習校でコーラスや童謡を歌う部活みたいなものに姉が所属していて、そこでCDを出すという話があって。たまたま赤ずきんちゃんの歌の一番小さい狼の役の声が必要になって、姉に泣きながら連れて行かれて(笑)。でもそこでみんなに「すごーい」って言われて、急にソロパートとかも歌ったりして、楽しいかもという気持ちが芽生えました。

渡辺
やってみたら楽しいと感じられたのですね。もともと、歌はお好きだったんですか?

髙木
本当に音痴で歌は上手くないんですけど(笑)。
それが子供は下手な方が可愛いみたいな(笑)。
小学校3年生の時の9・11が一番大きいきっかけなんですけど、美術の授業の時にテロが起きて…。
齋藤
いつ頃からアナウンサーになりたかったんですか?

髙木
アナウンサーになりたいのは、小学校くらいから思っていました。

齋藤
それはどうしてですか?

髙木
小学校3年生の時の9・11が一番大きいきっかけです。美術の授業中にテロが起きて、すぐに先生が教室にあるテレビをつけたのです。テロの映像はかなりショックでしたがその時のCNNのアナウンサーがすごく印象に残っていて。

齋藤
小学校3年生か。すごいなあ。

渡辺
小学校の授業中に生放送でご覧になったのは、ショックでしたでしょうね。。。

髙木
そうですね。私、テキサスのブッシュさんの奥さんが建てた学校に通っていたので、ブッシュの支持者が多く住んでいる地域で、テロ訓練とかも学校ですごくさせられました。アフガニスタン系の生徒もいたので、「テロリストの子供がいる学校に行かせない」といった親もいて、テロきっかけで学校がぐちゃぐちゃになったんです。そこで担任の先生がずっとこの状況を伝えなければならないと言っていて、これも私がジャーナリズムにすごく興味を持つようになったきっかけでもあります。

そこで初めて人に伝わったんだという喜びを知って、日本語や英語で何かを伝えたいという気持ちが芽生えました。
渡辺
ハワイから日本にいらしたは何歳の時だったんですか?

髙木
中一です。

渡辺
それまではずっとアメリカだったわけですよね?子供心に、カルチャーショックはかなりありましたか?

髙木
いや、本当に。結構、鬱病みたいな感じになってしまって。日本人補習校を途中でやめてしまうほど日本語は苦手に感じてて。しかも当時の自分のアイデンティティが完全にアメリカ人だったので。
日本人補習校では休み時間などもお互い英語で喋ってたりしてなかなか自分が日本人っていう自覚がなくて。
日本では急に公立の中学校に入ったのでカルチャーショックはかなりありました…。

齋藤
それは東京ですか?

髙木
いえ、福岡だったので、あまり外国人もいなく、周りも宇宙人が来たみたいな感覚で(笑)。
日本人の顔してるのに日本語喋れないじゃん、みたいな感じで。

渡辺
どうやって乗り越えたんでしょう?

髙木
父と姉が通っているクリスチャンの高校に入りたかったんですけど、偏差値が高い学校だったので、
ひたすら親に「中学の3年間はその高校に入るために頑張れば大丈夫。」って言われて。

渡辺
中学の3年間は、髙木さんにとって本当に大変だったんですね。

髙木
いや本当に絶対戻りたくないです(笑)。

渡辺
小さい頃からの海外滞在経験は、それぞれの土地や文化に故郷のような思いを持てるという意味でもとても素晴らしいことですけれど、小さい体にとってのカルチャーショックはきっと想像以上に大変ですよね。クラスに馴染むことから苦労されたかと思うのですが、どんなふうでしたか?

髙木
それはもう心を閉ざして(笑)。当時の英語の先生がクリスチャンで、本当に心の優しい方でいつも私のことを気に掛けてくれていました。2年生の時その先生から英語のスピーチコンテストにも無理やり出されてしまって。実は帰国後中学に入った瞬間いじめられていたから、もう英語を喋らないみたいな感じになっちゃってたんですよ。英語の授業でも、英語の発音とかでいじめられちゃうじゃないですか。わざと日本人っぽい英語の発音をしてたら、その先生にみんなの前で怒られて。スピーチコンテスト出場後、全校集会でそのスピーチをすることになってそれをきっかけに「すごい!」とみんなの反応が変わりました。それが中学2年の後半だったので、3年生はわりと楽しかったです。

渡辺
素敵な先生ですね。でも、そのスピーチコンテストに出るのは最初、すごく嫌だったんですね?

髙木
本当に嫌でした。

渡辺
スピーチの内容はどんなことを?

髙木
「言葉は人の心までも殺してしまう可能性がある」というスピーチでした。帰国直後は自分の言いたいことが相手に伝わらないということに一番苦労しました。頭の中は英語で思いついてもその言葉がすぐに日本語に変換できないのです。相手のスピードについていけないため傷つけられる言葉を言われることもありました。でも最終的には「ありがとう」とかの温かい言葉によって世界は平和になるから、言語が違っても変えていきましょうみたいなスピーチでした。

齋藤
いいじゃない。

渡辺
素敵なスピーチ!スピーチ大会の日当日は、どうでしたか?

髙木
本当に心臓がもう(笑)。その時は人前で喋ったことがなかったので。その時は準優勝だったと思います。そこで初めて人に伝わったんだという喜びを知って、日本語や英語で何かを伝えたいという気持ちが芽生えました。
アメリカでは友達同士でも、これちょっと違うなと思ったら”You shouldn’t do that!”みたいなふうに言ってたんですけど、それを普通に頭の中で日本語に訳して友達とかに言うと、「何この人…」みたいな感じに思われちゃって。それが本当に難しかったですね。
渡辺
高校も福岡だったんですか?

髙木
そうですね。父と姉が卒業した高校に入学できました。父の同級生だった友人が担任だったり、
また姉がお世話になった先生もたくさんいて和気あいあいと楽しく過ごしました(笑)。

渡辺
高校は楽しかったんですね?

髙木
楽しかったですね。本当に先生も友達もグローバルな考えを持っている方達も多く、やっと私の居場所が見つかったような感じでした。

渡辺
小さい頃に海外で過ごしても、帰国が早いと外国語を忘れてしまうこともあると聞きますけれど、
髙木さんの場合は家では日本語、外でネイティブとして英語の生活だったから、両方忘れずにいられたのでしょうね?

髙木
多分ぎりぎり忘れなかったんでしょうね。でも日本語が本当に下手だったので(笑)。

渡辺
日本語は、どういうところが最も大変でしたか?

髙木
敬語とか…。あとは、英語ってストレートに最初に自分の伝えたいことを言う形だったんですけど、日本語はちょっと回りくどく先に言ってから最後に結論を言うみたいな(笑)。

渡辺
婉曲というか、コミュニケーションの仕方が違うんですよね?

髙木
そうなんですよ。それが全然わかんなくて、多分それが友達とかに嫌われる原因だったんですよ。アメリカでは友達同士でも、これちょっと違うなと思ったら”You shouldn’t do that!”みたいなふうに言ってたんですけど、それを普通に頭の中で日本語に訳して友達とかに言うと、「何この人…」みたいな感じに思われちゃって。それが本当に難しかったですね。

渡辺
そこは、きっと難しいですよね。お友達も最初は直接言ってくれるわけじゃなくて、会話の微妙な間とか空気で、あれ?今の自分、なにか違ったかな?と推測するしかないですものね?

髙木
そうなんです。中3でやっと仲良くなった時に、もっとガツガツ言う子だと思ってたけど意外と優しいみたいに言われて(笑)。

渡辺
それは、大きな経験でしたね。

それまで自分のアイデンティティがわからなかったけど、友達とかも同じような感じで、でも「アイデンティティとかいらなくない?」って友達が教えてくれました。
渡辺
子どもの頃から二つの国のカルチャーの違いを体験なさったのもすごいことだけれど、時代としても激動の時期ですよね。最もアメリカらしいとも言えるテキサスで911のテロを小学生の時に体験して、日本に帰ってきてからは地元の中学校と高校で頑張って。ICUを選ばれたのは、どうしてでしょう?

髙木
最初は他の大学も見学して全然ICUは考えていなかったんです。でも、高校のクリスチャン枠で指定校推薦があり、親の勧めで見学をしてみたら一発でここがいいってなって(笑)。他の大学はなぜか自分の雰囲気に合わなかったんですよ。でもICUはのんびりとした空気感が気に入りICU一本に切り替えました。

渡辺
実際に入学して、どうでしたか?

髙木
すごく楽しかったです。自分と同じような境遇な人がこんなに集まってる大学があるんだ!と思って。それまで自分のアイデンティティがわからなかったけど、友達とかも同じような感じで、でも「アイデンティティとかいらなくない?」って友達が教えてくれました。性格もすごくICUで変わりました。

渡辺
どんなふうに?

髙木
それまですごくストイックで、中学から何でも気にしちゃう性格だったのが、いい意味で大雑把になったというか(笑)。

渡辺
脱ぎ捨てられたというか、そこまで気にしなくていいやと思えるようになった感じですか?

髙木
日本に来てすごく几帳面な性格になっていたんですけど、それが全部チャラになりました。

渡辺
ICUでは言語学を?

髙木
そうですね。ダブルメジャーで、MCCと言語教育でした。

渡辺
事務所に所属されたのは大学在学中だったんですか?

髙木
元々高校生の時に福岡の小さい事務所に入っていたんですけど、その流れで大学一年生の時に入りました。

渡辺
高校の時から?その時はどんなことをされてたんですか?

髙木
地元紙のモデルや、英語のナレーションの仕事などをもらっていました。その時は褒められたり、他の人に認めてもらえるのが嬉しくてやっていましたね。

渡辺
じゃあCDデビューが一番最初だけど、芸能界に入るきっかけは福岡にいらした時なんですね。大学の時は勉強しながら、どんな活動を?

髙木
bayfmというラジオのオーディションを受けて、受かって4年間やらせてもらっていました。

齋藤
逆にいうと、アナウンサーをやりたい人はそういう事務所に入っておいた方がいいってことなのかな?それとも大学卒業してすぐ入るみたいなもの?

髙木
入らない方がいいと私の時は言われていたんですけど、今は元アイドルの子とか、経験のある人の方がなりやすいみたいですね。
フリーになってよかったなと思っています。今はもう可能性がいっぱいあるから、やりがいがあってすごく楽しいです。
齋藤
ビジネスの世界ではまどろっこしい言い方をするより結論ファーストで話したほうが、好かれはしないけど評価されるんですよ。だから、英語と日本語両方のコミュニケーションの方法を知っているのはすごく強みだと思いますよ。僕からするともっと主張してほしいくらい。

髙木
難しいのが、高校時代はちょっと自分のアイデンティティを取り戻して、ICUで完全に取り戻して、静岡放送に入ったらそれこそ中学の時のような状態に戻ってしまって。

渡辺
髙木さんが静岡放送に入られた時は、例えばどういうことがやりにくかったですか?ICUの卒業生は自由な4年間を過ごした後に就職するものだから、大多数が経験する壁なのかもしれませんが(笑)。

髙木
静岡放送がやりにくいという訳では決してなく、どこに入っても一緒だと思いますが…
入社してから、あまり自分の意見は言っちゃいけないみたいな感じはありました。アメリカに住んでいた経験とICUで過ごしたことで、critical thinkingや何か発言することが身についてしまって。
1年目から疑問に感じたことを率直に聞いてしまっていました。

齋藤
今そういうふうに違和感の話をするやん。日本人の普通の人は何も疑問に思わないんですよ。だから日本はどんどんダメになっていくねんな。

渡辺
そんな時は、どうやって折り合いをつけていったんでしょう?

髙木
当時の副部長はむしろ会社を変えないといけないと思ってる情熱のある方で「お前は間違ってないけど、会社では言わない方がいい」など先輩アナがアドバイスしてくれました。なのでまだ静岡放送とは仲良くさせてもらっています。

渡辺
その後、少し居心地が悪かった日本で仕事を続けていて、どうですか?

髙木
今はすごく楽しくて、フリーになってよかったなと思っています。いまだに自分のアイデンティティに悩むこともありますが、帰国子女キャラで決めちゃえば、すごくやりやすいです。本当に自分の答えたいことと、キャラとして求められていることとの葛藤はありつつも…。前は局アナではここまでしか行けないという限界が見えてたのが、今はもう可能性がいっぱいあるので、やりがいがあってすごく楽しいです。
割とICUに興味がある方やICUに今通っている人は、みんなとちょっと違うというかマインドセットが皆より優れている人が多いと思うので、それを誰かに押し潰されても、自分を信じて貫いてほしいです。
渡辺
いろいろ乗り越えたあとに、「楽しい!」という言葉を聞けて、よかったです。傷つかない場所を見つけながら、楽しんでほしいと願ってます。これから、やりたいことがたくさん広がってますね。

髙木
やりたいことがありすぎて、ワクワクしかしてないです。

渡辺
では、最後にICUの在校生たちやICUを目指している若い世代にむけてメッセージをお願いできますか?

髙木
ICUに興味がある方やICUに今通っている人は、みんなとちょっと違うというかマインドセットが皆より優れている人が多いと思うので、それを誰かに押し潰されても、自分を信じて貫いてほしいです。何か言われたりすると思うんですけど、結局仲間もいっぱいいるし、折れないで必ず報われると信じて頑張ってほしいです。私もそうだったので。何回も折れたけど、立ち直れたのはICUの皆がいてくれたからなので。理解してくれる人がいる環境が良かったです。

渡辺
若い世代として、もっとICUに対して、こうであってほしいと思うところはありますか?

髙木
それこそ他の大学と比べるとICUはICUだけで固まりがちなので、もうちょっと外との交流が広がれば素敵かなと思います。ICUの中でのつながりはあったんですけど、卒業生の方とお話をする機会があまりなかったので、すごい方がたくさんいらっしゃるのに勿体無いなとも思います。

渡辺
齋藤
参考になります。お忙しい中ありがとうございました。



プロフィール

髙木 マーガレット 萌香 (タカキ マーガレット モエカ) 
ハワイ生まれ、テキサス育ち。12歳で日本に移住し、福岡市立香椎第一中学校、西南学院高等学校を経て、2015年に国際基督教大学を卒業。静岡放送に就職。現在はフリーのアナウンサーとして活動している。

(現在出演番組)
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