INTERVIEWS

第91回 小泉 元宏

立教大学 社会学部現代文化学科・社会学研究科社会学専攻 教授

プロフィール

小泉 元宏(こいずみ もとひろ)
長野県出身。2002年国際基督教大学(ICU)教養学部に入学し、2006年に卒業。東京藝術大学大学院音楽研究科に進学、2008年に修士(音楽)、2011年に博士(学術)を取得。その後、ロンドン芸術大学、大阪大学、ロンドン大学、鳥取大学などで研究・教育に従事し、2016年より立教大学准教授、2023年より同大学教授を務める。これまでICU、東京大学、日本大学芸術学部、早稲田大学大学院などでも教鞭を執ってきた。
専門分野は、芸術・音楽社会学、文化研究、文化政策研究。特に、市民参加型の音楽、美術、演劇といった諸芸術と社会形成の関係について、研究・教育に取り組んでいる。また、吹奏楽・器楽・アートなどの実践活動に加え、文化庁や各自治体において文化行政の調査研究・評価、政策提言などの実務にも携わっている。
齋藤
今回は、立教大学で教授として教鞭をとられ、ICUでも授業をご担当されている小泉元宏先生にお話を伺います。小泉先生、本日はどうぞよろしくお願いいたします。
小泉
よろしくお願いします。
齋藤
実は今回のご縁は、「今を輝く」の編集をしてくれている湊柚夏さんからの紹介なんです。柚夏さんと先生は、もともとどういうきっかけで知り合ったんですか?
小泉先生とは、ICUで先生が担当している授業を受けたことがきっかけです。授業のあとに質問をしに行ったら、そこからいろいろお話しさせていただくようになって。今では、人生のことや進路のことまで相談させていただく、私がとても尊敬している方のお一人です。
齋藤
なるほど。柚夏さんから「とても面白い経歴をお持ちの先生です」と聞いていて、今日お話を伺えるのを楽しみにしていました。それに、ICUの授業以外にもさまざまな大学で教えていらっしゃるんですよね?
小泉
そうですね。立教大学やICUのほか、東京大学の文学部、日本大学芸術学部などでも授業を担当しています。
働いて資金を貯めては旅に出る、その繰り返しでした。日本各地を巡りながら、社会の表と裏を同時に見る視点を養うことができました。野宿の人、「移民」、貧困層——そこに生きる人々と出会うたび、社会構造のなかで見えにくい一人ひとりの人生の物語に興味を持ちはじめたのです。
渡辺
さっそくですけれど、小泉先生、ご出身はどちらでしょうか?
小泉
千葉で生まれ、幼少期に長野県松本市に移り、その後は長野市で育ちました。親の仕事の関係で何度か引っ越しをしました。
渡辺
厳しいご家庭だったのでしょうか?
小泉
いえ、勉学などの面では、そこまで厳しくはありませんでした(笑)。音楽については、母が自分が幼い頃にピアノを習えなかったという思いがあったらしく、長野に移った後にピアノを習わせてくれました。家には中古で買ってくれたピアノがあり、今も私の研究室に置いてあるんですよ。
渡辺
そのピアノとの出会いが、先生の音楽の原点なのですね。


現在の研究室にて(右奥:幼少期から使い続けているピアノ)

小泉
そうですね。ピアノから始まって、やがて合唱もやるようになり、吹奏楽部で楽器を吹くようになって…と、常に音楽とは付き合ってきた感覚です。
齋藤
小さい頃からずっと音楽が、生活の背骨みたいに続いていたわけですね。
小泉
そんな大層なものではないですけど(笑)、結果的には、あとでお話しするロックバンドや指揮、そして今の研究や授業にも、全部つながっているなあ、と今になって思います。
渡辺
小泉先生のIDは06とうかがいました。ID90の私とは16年ほど離れていらっしゃるから、2000年代の空気は社会でもキャンパスでも90年代とは違ったのでしょうね。
小泉
そうですね。ただ、私はICUに入学する前にいろいろなことをしていたので、年齢は少し周りの多くの人たちとは違っていたんですよ。少し回り道をしています。
渡辺
どんな回り道を?
小泉
実は働いていましたし、いわゆる放浪生活もしていました(笑)。日本各地を点々としながら、いろんな場所で暮らすような。
齋藤
放浪と音楽、そして教育。全然結びつかないようでいて、むしろそこが本当に面白いです。なぜ最初に放浪という時期があったのでしょう?
小泉
きっかけは、高校時代の音楽ですね。地元の進学校に通っていたんですが、中学の頃からロックバンドを始めて、どんどんのめり込んでいきました。当時はロックに夢中で、髪を金や緑に染めていたこともあります。
渡辺
グリーンの髪、いいですね!バンドでは、どのパートを?
小泉
ドラムです。長野のネオンホールというライブハウスでよく演奏していて、その頃に人生が狂ったんです(笑)。良い意味でも悪い意味でも、それくらい音楽に夢中でした。
渡辺
ぜひ、詳しくうかがいたいです。
小泉
高校に入った頃の成績は良いほうだったのに、バンドが楽しすぎて大学に行くモチベーションが徐々になくなってしまったんです。周りは東大や医学部、早慶にどんどん受かっていくような進学校だったのに、私は「なんで大学に行くんだろう?」と本気で思っていました。音楽ができればそれでいいかな、と。
渡辺
じゃあ、みんなでこのままバンドを続けていこう!と。
小泉
いや、バンド仲間はみんな大学に行ったんです。気づいたら、みんな進学していて。「あれ? なんで僕だけ?」となりましたね(笑)
齋藤
そこで、まず働く道を選んだ?
小泉
はい。一応大学受験はしたものの進学せず、結局、高校卒業後、法律系出版社に就職しました。高卒採用の社員として働きながら、お金が貯まったら各地に旅に出て…という生活です。そこから放浪生活が始まりました。
渡辺
その頃、もうバンド活動はしていらっしゃらなかったのですか?
小泉
少しはやっていたんですが、仲間は大学生活が忙しくなってしまって、自然と距離ができました。面白いことに、そのうちの一人はメジャーな音楽フェスにも出るようなミュージシャンになったんですけれども。
渡辺
すごい!
小泉
一方で私は、放浪と仕事の中で自分はどこへ向かうんだろうと考えながら旅を続けていました。
渡辺
放浪のきっかけは、なんだったのでしょう?
小泉
最初は、ただ「各地を旅してみたい」という気持ち、それだけでした。半分は野宿しながら、日雇い等で稼いで、また移動する。公園で寝たり、駅で夜を明かしたりもしました。当時はまだ、それが許される社会だったんです。ベンチも今のように寝られないような形状のものは少なく、普通に横になれる形が多かったので、そこで一晩過ごすこともできました。
渡辺
なるほど…確かに今のベンチは両端に手すりがついていて、寝られませんよね。
小泉
そうなんです。だんだんと通報されるようになるなど、ここで寝てはいけませんという空気が強くなっていきました。ベンチも、いわゆる「排除アート」と呼ばれる、横になれないように仕切りがつけられたり、極端に傾斜がつけられたりして、そこに留まらせないデザインに変わっていったんです。変化を肌で感じながら、お金がないと安心して眠る場所すら得られない社会構造に気づかされました。屋根や壁といった当たり前のものが、どれほど貴重かも実感した瞬間でした。野宿をして初めて、その意味を実感したんです。
齋藤
それは本当に大きな発見ですね。昔はヒッチハイクや野宿ももっと開かれていましたが、今は社会の許容量が小さくなっている気がしますよね。実は、ぼくも学生時代に、ボーイスカウトの恰好をして仲間を1人連れて、大阪から福島県の会津若松の友達の家まで、野宿しながら2日かけてヒッチハイクで行ったことがあります。その友達は現在の家内なんですけどね(笑)。トラックの運転手さんも喜んで乗せてくれたし、バスの停留所も良い宿泊場所で、良い時代でした。
小泉
まさにその通りです。90年代はまだ旅をする若者も多く、メディアでも取り上げられていました。でも2000年代に入るにつれて、「いてはならない」人が排除されていく空気が強くなった。“異質な存在”の居場所が見えにくくなっていることを痛感しました。
齋藤
放浪という特殊な経験を経て、どんなことを学ばれたんでしょう。
小泉
一番大きかったのは、「社会の多層性を見る視点」を得たことです。警備員の仕事をしたり、ライフセーバーをしたり、短期の肉体労働で食いつなぎながら、野宿する人、「移民」、貧困層、障がい者——さまざまな背景を持つ人たちのリアルな生き方や困難にいっそう触れることができました。あの時期のおかげで、社会構造や制度から、こぼれ落ちがちな人々の物語を想像する力が育ったんだと思います。


海外でのフィールドワークでの一コマ

渡辺
そういった視点を揺さぶられるような出会いも、旅の中でありましたか?
小泉
ありました。たとえば、本当に鮮明に覚えているのが、池袋の飲食店で近くに座っていた韓国の青年との出会いです。なんとなく話しかけたら意気投合して、そのまま夜通し一緒に歩きながら話をしました。彼が「村上春樹の小説に影響されて日本に来た」とそのとき語っていて、文芸が国境を越えて人の人生を動かすことに驚いたのを覚えています。
渡辺
ひと晩中!そのときのやり取りは、日本語で?
小泉
日本語と片言の英語で、もう必死にやり取りしていました(笑)。でもそういったさまざまな人々との出会いの中で痛感したんです。「もし言葉がもっと通じたら、もっと深い話ができるのに」と。初めて、学ぶことの意味を実感した瞬間でした。そうした出会いが少しずつ積み重なって、大学に行くことにやはり意味があるのかもしれないと思うようになっていったんです。
渡辺
放浪は何年くらいだったのでしょう?
小泉
足掛け2〜3年です。働いて資金を貯めては旅に出る、その繰り返しでした。
齋藤
その経験が、先生の研究の土台をつくったんですね。
小泉
そうだと思います。社会学が扱う境界にいる人々の視点を、私は実際の生活の中で体験しました。それが、今の研究に深くつながっています。
渡辺
とても貴重な時間だったのですね。その上で、大学に行こうと。
小泉
はい。ただ高校時代はしっかりと勉強をしてこなかったので、まずは芸術系の大学に挑戦したんです。そしたら武蔵野美大などに奇跡的に受かりまして(笑)。
渡辺
それも、すごい!
小泉
受験会場に着いてからデッサン用鉛筆を買い揃えたぐらいの素人なのに、シュールレアリスティックな雰囲気の絵を描いたら、それが他の科目よりも一番点数が高かったんです。アートの基準って、良い意味で適当なものだとも思いました(笑)。
齋藤
なるほど、おもしろいですね。
小泉
ただ、美大に受かっても学費がとにかく高くて。想像以上に高かったので、これは無理だと思い、入学を一旦諦めることにしました。
渡辺
合格なさったのにもったいないけれど…そこからICUに?
小泉
はい。ICUは音楽も美術も幅広い分野が学べ、素晴らしい先生がいらっしゃったこともあり、入学を決めました。さらに、ちょうど授業料を借りることができる奨学金制度が整いつつあったのも大きかったです。将来の自分に前借りしてでも学べるという見通しができたので、ここなら行けると思ったんです。
齋藤
当時の ICUは独特の問題形式だから、記憶することよりもしっかりと考えることが出来る人は受かったんですよね。
小泉
本当にラッキーでした。他の大学の学科試験と比べて、ICUだけは手応えがありました。
渡辺
大学側にとっても、小泉先生のような学生を受け入れることができるという意味で奨学金制度は大切ですね。そして手応え通り、ICUに入学なさったのですね。
小泉
はい。おかげさまで、お二人の後輩、湊さんの先輩になれました。
多くの単位を取りながら、海外放浪もして、吹奏楽団の常設化や、映像サークルの立ち上げなども経験し、本当にぎゅっと詰まったICUの4年間でした。


ICU時代 吹奏楽団の仲間と

渡辺
貴重な回り道のあとICUに入学なさったときは、おいくつだったのですか?
小泉
2〜3年放浪した後でしたので、21歳ころでした。
渡辺
素敵ですね、現役で入学したFreshmanからみたら、経験豊かなお兄さんが同級生なんて。実際に入ってみたICUは、どんなふうに感じられましたか?
小泉
長野出身なので、最初にキャンパスを見たときは軽井沢みたいだなと感じました(笑)。さらに運よく、ちょうど新しくできたグローバルハウスに入れたんです。外国人留学生が半分を占める寮で、家賃も比較的安かったので、本当にありがたかったですね。
渡辺
学科は、どこを選ばれたのですか?
小泉
ヒューマニ(Humanities Division、当時の人文科学科)です。
渡辺
いろいろな興味をお持ちのなかでも、やっぱり音楽を?
小泉
主専攻は音楽でした。当時、金澤正剛先生がいらして、『学問の鉄人』という本でも“音楽学の重鎮”として紹介されていたんです。金澤先生のもとで学べるのは大きな魅力で、ICUを選んだ大きな理由の一つでもありました。また、隣接領域を含む多様な研究テーマを引き受けてくださる雰囲気が当時の音楽メジャーにはありましたので、迷わず音楽メジャーに進みました。
渡辺
実際に、ICUでの勉強はどうでしたか?
齋藤
絶対成績良かったでしょう。
小泉
そこそこ良かったとは思います(笑)。ただ自分で言えるのは、私はとにかく単位をものすごく取りました。多くの日本の大学って「サブスク(サブスクリプション・定額制)」なんですよ!授業受け放題の(笑)。ですから興味のある授業を片っ端から履修しました。結果的に卒業単位を大きく超えるほど学びを重ねました。
渡辺
そんなにたくさん!?…私も含めてほとんどの学生は最低単位数でどう卒業できるかを考えますけれど、授業はサブスク…確かに。
齋藤
サブスクって発想は本当に新しいですね(笑)。
小泉
西洋美術、哲学、国際政治学、化学など、幅広く関心があり、興味のある授業はできるだけ全部取ってみたかったので(笑)。日本の大学は定額制なので、単位を取れば取るほどお得だなと思っていました。
渡辺
メジャー以外では、どんな授業を?
小泉
実は一番多かったのが地質学など地球科学の授業でした。
渡辺
地質学、どんな授業でしたか?
小泉
三浦半島や軽井沢に行って地層を見たり、岩石を観察したり…。当時は国立科学博物館の学芸員の先生など、一流の研究者が非常勤で来ていたので、フィールドワークや鉱物の観察が中心のとても面白い授業でした。
齋藤
おもしろそうですね。 ICUの卒論は何を書いたんですか?
小泉
音楽専攻でしたが、最終的にはサウンドアートやメディアアートに関する論文を書きました。ヒューマニ(人文科学科)なので英語で書く慣習があり、当時は苦しみました。恥ずかしくて今の学生たちには見せられません(笑)。
渡辺
音楽をメジャーに据えつつ、政治学や化学、地質学などICUでは正に広く学ばれたのですね。
小泉
そうですね。本当に面白い先生が多かったんです。授業後に先生をつかまえて、ずっと質問しているタイプの学生でした(笑)。
渡辺
授業だけでも忙しそうですが、他にはどのような活動を?
小泉
実は大学に入ってからも放浪をしていました。
渡辺
大学時代も、放浪を!?(笑)。
小泉
はい。大学や大学院って長期休みが長いじゃないですか。その期間を丸ごと国内、さらには海外放浪にあてていました。チェコやドイツ、フランス、イギリスなど各地の美術館に行くなどヨーロッパを巡ったり、アメリカや、アジアでは韓国や中国などをめぐったり、いろいろな場所を訪れました。
渡辺
それは、バックパックで?一人旅ですか?
小泉
一人のときもあれば、友人と行くこともありました。他の人と旅すると、彼らは自分と違う視点で世界を見ていることがわかって、それがまた面白かったです。
渡辺
えーと、資金はどうしていらしたのでしょう? そんなに単位を取りながら、バイトでお金を貯める時間はなさそうな気が…。
小泉
実は、私は「奨学金の帝王」と呼ばれているぐらい、在学中には奨学金を積極的に活用させていただきました(笑)。とにかく、がんばっていろんな奨学金に応募しました。ありがたいことに少人数の大学で、大規模校よりもチャンスに比較的恵まれていることもあり、思った以上に奨学金を得ることができました。正直、バイトだけではあれほど各所への旅はできなかったと思います。
 日本は最低賃金が少しずつ上がっているとはいえ、あまりにアルバイトにいそしむと体力面も含めて限界がありますよね。貴重な時間を切り売りする感覚がどうしても拭えなくて、それなら奨学金にチャレンジしたい、という気持ちがありました。
渡辺
なるほど。「奨学金の帝王」にどうやったらなれるのかも、ぜひうかがいだいポイントですけれど、とにかくそこで得られた時間を放浪や学びにあてたわけですね?
小泉
そうですね。いただいた奨学金のおかげで、かなり自由に動けました。


国際芸術祭ドクメンタ 世界中で発売禁止となった本で作られたパルテノン神殿の実物大レプリカ

渡辺
学生時代にいらっしゃったのは、何カ国くらい?
小泉
ざっくりですが、20〜30カ国くらいだと思います。ヨーロッパは一度行くだけで数カ国回れてしまいますので。
齋藤
すごい。他にも大学時代に課外活動はされていたんですか?
小泉
そうですね。ICUには当時、常設の吹奏楽団がなかったので、数年前に立ち上がった既存のフェスティバルバンドを、仲間と一緒に常設団体として立ち上げました。小中高でも吹奏楽や合唱、バンドを続けていたので、大学でも音楽に関わりたい気持ちが強かったんです。ちょうど音楽理論や音楽史、指揮法も勉強し始めた頃で、バンド活動に加え、吹奏楽にも何か貢献したいという思いもありました。
渡辺
常設団体を立ち上げるって、相当の熱量が必要ですよね。そういえば、ICUには常設の吹奏楽部がなかったのですね。なぜ、吹奏楽文化が根づいていなかったのでしょう?
小泉
日本では吹奏楽って「部活」やスポーツ応援などのためのものとして扱われがちで、クラシックやキリスト教音楽との親和性が比較的高いICUでは、どちらかというと大衆的な音楽として、少し距離を置かれてしまう傾向もあったかもしれません。でも管楽器の響きは礼拝音楽でも重要な役割があるなど、本来、断絶があるわけではないんです。
吹奏楽のルーツの一つと言える英国式ブラスバンドは、労働者階級の音楽として産業革命期以来の長い歴史があり、大陸ヨーロッパが主となるクラシック音楽の主流とは異なる、大衆の音楽ということもできます。そういった人びとの音楽であることや、ジャズ、クラシック、ラテンなども含めたさまざまな音楽ジャンルを扱うことができる点も興味深いんです。


ICU礼拝堂にて 吹奏楽団の演奏会の一コマ

渡辺
なるほど…知らなかったです。
小泉
幸い仲間に恵まれて、みんなで楽団を形にすることができました。いまもICUの楽団で指揮者を務めたり、吹奏楽コンクールの審査員をしたりなど、器楽には継続して関わっています。地元の三鷹市の福祉や社会教育事業との関係も、20年以上にわたって築いています。


演奏活動の練習風景(写真提供:佐川喜彦氏)

齋藤
他には、ICU時代で印象に残っている活動はありますか?
小泉
もう一つ、映像サークルを自分で立ち上げたことですね。映画作品を撮るというより、イベントや劇団などのアーカイブ映像を残すためのサークルです。もともと武蔵美の映像学科も受けていましたし、映像と音楽の両方に関心があったんです。
齋藤
ICUで映像サークルを?それはすごいですね。
小泉
はい。しかも運良く、ニューヨークのICU同窓会の助成金をいただき、日本舞踊研究会の取材という名目でアメリカにも行けたんです。本当に貴重な経験でした。
齋藤
でも普通、サークルを一から作るって相当大変ですよ。
小泉
そうかもしれません。
齋藤
多くの人は声を上げても誰もついてこないんじゃないかと怖がってしまう。でも先生は、音楽の集まりも映像の集まりも形にしている。それは、いわゆるリーダーシップとはまた違う力だと思うのですが、なぜ実行できたんだと思いますか?
小泉
私、リーダータイプじゃないんですよ。どちらかというと第一フォロワータイプで、「やりたい」と言っている人がいたら「じゃあ一緒にやろうよ」と動く役割なんです。バンドでもボーカルではなく、ドラムやベースをやるタイプです。
齋藤
それはものすごく重要です。リーダーはフォロワーがいなければ成立しない。第一フォロワーは、雰囲気をつくって、周りの人を巻き込む力がある。今の時代には特に必要なタイプだと思いますよ。
小泉
そう言っていただけると嬉しいです。
渡辺
多くの単位も取りながら、海外放浪して、吹奏楽団も映像サークルも立ち上げられて…。本当にぎゅっと詰まった4年間でしたね。
小泉
そうですね。とにかく好奇心が止まらなくて、興味の向くところに片っ端から手を伸ばしていました。方向性はあまりなかったですけれど(笑)。
渡辺
その行動力がすごいです。
アートの世界に身を置いたことで、異質であることこそ価値になるという多様性に触れ、音楽技術だけでなくジェンダーや文化の違いを尊重する姿勢が自然と育まれました。
渡辺
ICU卒業後は、どんな道に?
小泉
東京藝術大学の大学院に進学しました。
渡辺
どうして、芸大の大学院だったのでしょう?
小泉
そうですね、「もっと勉強したい」「実践にもう少し近い領域で学びたい」という気持ちが強くなって、芸大が頭に浮かびました。当時ちょうど、音楽や芸術制作と社会環境の関係を学べる新しい学科・研究科ができたタイミングで、これは行くしかないと思いました。演奏や制作だけでなく、社会とのつながりも研究できる場所でした。
渡辺
芸大の大学院でのテーマは、“芸術と社会”だったのですね。実際の学びは、幅広かったですか?
小泉
はい、かなり幅広かったです。研究では、芸術社会学やメディア論、カルチュラル・スタディーズといった領域の理論研究やリサーチなどを行うことができたほか、実践面では、たとえば指揮者の小澤征爾さんら一流の演奏家や作曲家の授業や練習の場に参加して音楽について学べたり、都内の若手音楽家たちを地域の中高の音楽の授業や吹奏楽部と結び付けることに関わったりすることもできました。
齋藤
それは貴重ですね。
小泉
本当に貴重でした。一方で、アンダーグラウンドな音楽や美術などにも興味を持ちはじめ、クラブミュージックや現代音楽、現代アートの世界にも足を踏み入れはじめました。
渡辺
それは、社会との接点が強い音楽ですよね。
小泉
おっしゃる通りです。活動を続けていくうちに気づいたのは、現代の芸術はもはや、特定の領域だけで批評される時代ではなくなっているということです。 むしろ、音楽や美術、演劇などを横断する文脈の中で評価されることが増えています。たとえば、かつては専門化・細分化が進んでいた現代音楽の領域も、近年では芸術祭などの開かれた場で演奏され、論じられる機会が多くなっています。
齋藤
たしかに最近、芸術祭で音楽の企画も増えていますよね。
小泉
そうなんです。瀬戸内国際芸術祭や越後妻有のプロジェクトなど、地域社会のアートフェスティバルでも新しい音楽表現が生まれています。自然と私も、そちらの領域に関心が向いていきました。(資料を指しながら)これは越後妻有の廃校を使った作品なんですが、こういう場そのものが、現代の音楽とアートが出会う実験の舞台になっているんです。


越後妻有アートトリエンナーレ 大地の芸術祭での研究合宿

渡辺
作品だけでなく、場も含めて学ぶのですね。
小泉
そうですね。そしてアートの世界は、「普通」であることが評価される場所ではないため、本当に多様性に開かれています。むしろ他者と違うこと、異質であることがそのまま大切な価値になる。そんな環境に身を置く中で、音楽技術だけでなく、文化的背景やジェンダーなどの違いを尊重し合う姿勢も自然と身につきました。
齋藤
芸大でも、興味の範囲がどんどん広がっていったんですね。
小泉
はい。ただ、そんな中で実は資金が途中で切れてしまって…。奨学金は取れたのですが、それでも足りなくて、働きながら大学院に通うことにしました。
渡辺
芸大に在籍しながら働くことはできるのですか?
小泉
意外と芸大はそのあたりが柔軟で(笑)。実技中心なので、以前はとくに個人レッスンの時間が長い分、授業数が少なく、空いている時間で働く人もいました。同期や後輩には楽器メーカーの社員や県庁の職員もいたくらいです。
渡辺
働きながら大学院で学ぶのは大変だったのでは?
小泉
いやもう、後になって指導教員の毛利嘉孝先生にも「君は修士の頃は勉強してなかったよね」とズバッと言われたくらいです(笑)。でもその時やっていた、大手メーカーでのマーケティング販売の仕事は、今の研究にもすごく役に立っています。人に伝える力、プレゼンの構造、デザイン思考…そういうものは本当に今の授業でも使っています。
ただ、仕事はとても楽しかったんですが、博士課程に進学するかどうか迷った際、フルタイムになると研究へのコミットメントが中途半端になってしまう懸念がありました。それに、日本学術振興会の特別研究員という給与にあたる研究奨励金をいただける制度に採用されたんです。研究に専念できる代わりに兼業ができない制度なので、どちらか一方を選ばなければいけなくなって。
齋藤
そこで迷われたんですね。
小泉
本当に迷いました。でも正直に言うと、大企業の中で働くよりも、アーティストや研究者と一緒にいるほうが、私は面白いと感じてしまったんです。それが決定的でした。
渡辺
なるほど。そこから博士課程に進まれたのですね。
小泉
はい。芸大の博士課程に進み、本格的に研究の世界に入っていきました。
芸術や音楽を入口に、普段交わらない分断化された人や領域をつなぎ直す——それが今の自分の仕事の核心にある考え方です。
渡辺
芸大で博士課程に進まれたあと、ロンドン芸術大学にもいらしたのですよね?
小泉
はい。博士号取得を目指しつつ、ロンドン芸術大学にも研究員として滞在しました。その後も、大阪大学やロンドン大学など、いろいろな研究の現場を渡り歩いていました。
渡辺
どんな地域で、研究されていたのですか?
小泉
ロンドンの中でも、多文化コミュニティが密集している地域でした。治安がかなり悪くて、毎週のように殺人事件が起きるエリアです。でもそこにアートや音楽の拠点ができることで、人びとが集まり、コミュニティが少しずつ再構築されていく。そのプロセスを現場で見ながら研究していました。文化がどうやって社会の分断をつなぎ直すのかについて考えていたんです。
渡辺
正に現場に根ざした研究ですね。
小泉
そうですね。2度にわたるロンドンでの滞在前後には、本当は、そのままイギリスに残れたらと真剣に考えていた時期もあったのですが、そのとき東日本大震災が起きました。ICUの楽団での指揮者なども続けていた私は、ちょうど日本に帰国しているタイミングで、東京で震災を経験しました。そのとき、東京やロンドンで自分が当たり前のように享受していた生活が、どれだけ「地方」の犠牲や見えにくい負担の上に成り立っていたのかを突きつけられた気がしました。自分の出身地を含め、日本の地方のことをわかったつもりでいて、全然知らなかったんじゃないか、と。
渡辺
そこで、日本へ戻る決心を?
小泉
はい。日本の地域社会とちゃんと向き合いたいと思い、鳥取県にある鳥取大学地域学部の公募に応募しました。


鳥取砂丘にて

齋藤
鳥取大学では、どんなことを?
小泉
ちょうどその頃、東日本大震災の影響で、西日本に移住してくる人たちが増えていました。大阪や首都圏からも含めて、中国・四国や九州方面に移る人が増えはじめ、とりわけアーティストやクリエイターの移住も目立っていました。
鳥取では、デザイナーやアーティストが、古い建物をリノベーションして、ゲストハウス兼シェアハウス兼カフェの拠点、「たみ」という複合施設をつくっていました。私はその場所の一角に研究室の出張所を置かせてもらって、学生と一緒に地域のプロジェクトに関わる、という形で研究と教育をしていました。そのほかにも、鳥取市内の廃病院を活用したアートプロジェクトやアーティスト・イン・レジデンス(AIR)プロジェクトの立ち上げに、キュレーターの方や同僚の先生方と一緒に関わったりもしていました。


鳥取大学時代 サテライト研究室を置いた複合施設『たみ』

渡辺
現場にどっぷり根ざして。鳥取にはどのくらいいらしたのですか?
小泉
4年半です。その間に、インドネシアの大学との国際交流プログラムの立ち上げにも関わりました。現地の結婚式に参加したりもしましたね。
渡辺
鳥取でも豊かで濃い時間を過ごされたのですね、その頃から、もうICUでも教えられていたのですか?


鳥取大学地域学部での研究室にて

小泉
そうですね。ちょうど鳥取で教えている間に、ICUでも授業を持つようになって、音楽活動などもあって、毎週、鳥取と東京を行き来していました。その後、家族のケアが必要になって東京に戻る必要が出てきて、現在は立教大学に籍を置きながら、ICUでも引き続き、教えている形です。
渡辺
ICUで教鞭をとられるようになったきっかけは、なんだったのでしょう?
小泉
ICUの場合はご縁です。私は学部時代、はじめは金澤正剛先生の授業を受けていましたが、先生が退職され、その後は伊東辰彦先生のゼミに入りました。その伊東先生が「音楽や芸術を、もっと社会に開いた形で学べる新しいコースをICUに作りたい」とご相談をいただき、その構想づくりの中で、新しい授業を立ち上げることになりました。それが、ICUで教えるようになったきっかけです。
齋藤
なるほど。でも先生って、立教では社会学部の先生ですよね? 音楽と社会学をどう説明されているんですか?


ICUでの授業風景 講義のほか自由ラジオやプロジェクション・マッピングなども実施

小泉
説明しようとするとどうしても、このような経歴を全部振り返ることになるんですが(笑)、私の中では「音楽・芸術」や「社会科学」の調査や研究と、芸術などの「実践」は全部つながっています。つまり、芸術と社会の関係を、現場のプロジェクトを含めて研究する領域に自分の仕事を置いているんです。
渡辺
とてもICUっぽいですよね。広くて、しかも浅くない(笑)。
小泉
ありがとうございます。私の研究と教育の特徴を一つ挙げるとすれば、「既存の枠を超えること」に強い関心がある、ということだと思います。大学って、どうしても「文系」や「理系」、「〇〇学部」という枠組みで区切られますよね。でも実際の社会問題や表現って、そのような線では綺麗に分けられません。だから学生にも、大学の枠組みや専攻のラベルに縛られてほしくないと思っています。
齋藤
なるほど。
小泉
私が教鞭を執っている東大・ICU・早稲田・立教・鳥取大……など、それらの組織ごとに積み重ねた伝統の意義はありつつも、あくまで一つの枠組みにすぎません。現代では、本当は横につながることで生み出せる物事がたくさんある。学問領域も同じで、社会学なのか芸術学なのか、分野ごとの蓄積は否定しないものの、それらを越境しないと見えないことも多いため、あまり強く線引きしたくないんです。実際、学生と一緒にやっているプロジェクトも、そういう壁をどう超えるか、という発想から出てきたものが多いです。


DIY書店『汽水空港』での合同授業風景

渡辺
例えば、どんなプロジェクトですか?
小泉
一つわかりやすいのが、このカプセルトイ──いわゆるガチャガチャを使ったプロジェクト『ガチャガチャガチャ』です。東京芸術祭の一環で、豊島区・池袋エリアを舞台に行ったものなんですが、映画監督の方らと一緒に企画しました。今、趣味や文化の世界が「島宇宙化」していると言われますよね。オタク文化、クラシック、お笑い…それぞれのコミュニティが分断されていて、交わらない。
齋藤
ありますね、そういうの。
小泉
そこで、豊島区のいろんな場所――例えば都電のホーム、本屋さん、商業施設の一角、珈琲店、エスニック食材店など――にカプセルマシンを設置して、その地域の入り口になるような物の小さなレプリカをカプセルに入れたんです。例えば、歴史的建造物のドアノブのミニチュア、当時コロナ禍で中止になっていた地元の伝統的なお祭りの写真、小さなエスニック料理の食材店に並ぶ冬瓜のミニチュアなどのレプリカです。地元の散髪屋のご主人と話すことができる「シークレット」のカプセルもありました。それぞれには解説がついていて、ガチャを引いた人が「面白そうだから行ってみよう」と思ったら、実際の場所にたどり着けるような仕組みにしました。


東京芸術祭『ガチャガチャガチャ』で使用したカプセルトイ

渡辺
面白いですね。SNS中心だと、どうしても好きなコミュニティの中だけで完結してしまいがちですよね。
小泉
そうなんです。だからこそ、あえて寄り道や、予期せぬ出会いを生み出す仕掛けが必要だと思っています。私が放浪していた頃、風景や人との偶然の出会いに恵まれ多くの視点を得られたように、分断された都市や地域に別のルートをアーティストや市民らさまざまな人々と共に創りたいと考えています。芸術やデザインの力で。
齋藤
まさに先生ご自身の経験が、そのまま研究と教育の核になっているわけですね。
小泉
そうだと思います。人間社会は本来、分業と連帯で豊かさをつくってきたはずなのに、今は分業が進む一方で、連帯関係が希薄、あるいは一部の人々だけの利益のためのものになっている現状を、芸術の力でつなぎ直したいと考えています。芸術は創造性と共感を通じて、人と人、領域と領域を再び結びつけるきっかけとなる可能性を秘めています。
渡辺
小泉先生のお話をうかがっていると、ずっと「専門の枠」や「領域の壁」を越えて活動してこられたことがよくわかります。
小泉
そう言っていただけると、とても嬉しいです。先ほどのガチャのプロジェクトもそうですが、学生と一緒にリサーチして、設置場所を交渉して、地域の人と話しながら形にしていく。その過程そのものが、分断されたコミュニティを横断する実験になっているんだと思います。
芸術や音楽を媒介として、分断された人々や領域を再び接続すること——これが私の研究や教育、実践で重視している点です。
分断された小さな世界に閉じこもりやすい時代だからこそ、ICUでは意図的に横へひらく場所をつくり、偶然の出会いが生まれるキャンパスを取り戻してほしい
齋藤
じゃあせっかくだから、柚夏さんからも何か質問してみたら?
お時間いただき、ありがとうございます。1つ、先生に伺いたいことがあります。先生は高校卒業後、あえてみんなが進む大学進学というレールから外れて、いったん社会の外側に身を置いたからこそ、自分と社会の関係を根本から見つめ直されたのだと感じました。
一方で、今の学生は社会とつながっているつもりでいながら、どこか切断されていて、「自分はどこに立てばいいのか」「どこに向かえばいいのか」が分からない不安を抱えていると思います。私自身もそうです。そうした迷いや宙づりの抱える若い世代が、自分と社会との接点を本当の意味で取り戻すためには、どこから一歩を踏み出せばよいのでしょうか?
小泉
すごく切実で、大事な質問ですね。その「宙づりの不安」を感じること自体は、流動化し、複雑化した現代社会に向き合おうとしている証拠であり、決して悪いことではありません。まずはその感覚を否定しないでくださいね。

ゼミ生たちとの卒業式の一コマ

そのうえで、私が思うに、「自分の立ち位置」や「自分と社会の接点を取り戻す」ということは、いきなり「ここが私の居場所だ」とか、「これだけが社会との接点だ」といった「一つの正解」を見つけることではありません。そうではなく、少しずつ視野を広げ、自分とは異なる他者の生に出会い、その各視点をじかに感じることから始まるのだと思います。
ヒントになりそうなのが、「社会学的想像力」という概念です。これは、目の前にある日常の裏に潜む見えない構造を理解しながら、その外側に広がっている、既存の枠組みでは捉えきれない「他者の現実」を想像する力のことです。いわば、自分の当たり前と思う殻を少し破って、「見えにくい他者の『生』を、自分も一緒に生きてみる」ことだと言えるでしょうか。そうすることで、漠然とした「社会」を「自分を含む、多様な他者の集まり」として、より広く深く感じられるようになります。たとえば、経済のグローバル化の狭間で国境を超えて生きる日雇い労働者たち。あるいは、都市の片隅で生活するホームレスの人々。介護や育児に追われるケアワーカー。ファストファッションやスマートフォンを作るために過酷な労働環境で働く少年少女たち、あるいは、私たちが眠っている間に都市を清掃し続ける人々。
そういった他者の生をより深く経験するためには、「ヘテロトピア」に行くのも良いかもしれません。哲学者のミシェル・フーコーは、現実に存在する“もう一つの異なる世界”を「ヘテロトピア」と呼びました。これはユートピア(空想の場所)ではなく、現実にあるけれど、ルールや常識、時間の流れが異なる空間のことです。例えば、いま香港にいる湊さんのすぐ近くにも、湊さんとは全く違う日常や共同体を生きている人々がいるはずですよね。そうした「別の社会」「別のコミュニティ」が、自分の現実の場所と並列に社会に存在していると想像すること。これが第一歩です。
私の知人が東京から地方に移住したあと、こう言いました。「小泉くん、東京にいて、だいたい世の中のことはわかったつもりになっていたけれど、実際には1%くらいしか理解していなかったことに気づいたんだよ」と。そのとおりで、私たちは99%、あるいはそれ以上の社会を知らないんです。
そして大切なのは、その異なる世界に対して、自分の感覚を開くことです。ちなみに興味深いことに、これは私が専門とする芸術や音楽の実践でも同じなんですよ。たとえばアンサンブルで、私はよく「自分の身体を半分ぐらい、他の人の音で埋めるような感覚を持って」と話します。自分だけで完結するのではなく、他者の音が自分のなかに入ってくる余白を持つこと。まず、どんなリズムやハーモニーかを把握しつつ、誰がそれを奏でているのかを感じ取り、その音を自分の中に受け入れる。そうすると、ぐっと自分と他者の音楽が近づき、一つの世界が生まれます。社会との接点も、これと同じように「他者の音やリズム」を感じることから生まれるのではないでしょうか。その先にやっと、自分の音、いわば自分の居場所も、ほんのりと感じられてくるように思います。
いきなり大きくジャンプする必要はありません。ほんの小さなきっかけで構いませんから、自分が予想していなかったような人びとの空間に思いを馳せ、アンサンブルを試すように少し足を踏み入れてみてほしいと思います。
なるほど。では、その「想像力」を身につけるために、私たちは具体的に何をしたら良いのでしょうか?


瀬戸内国際芸術祭での合宿中のフィールドワーク

小泉
一つは、もし可能であれば、やっぱり「歩くこと」だと思います。街をたくさん歩く。自転車でもいいですね。そして、自分が期待していないもの、自分の関心の外側にあるものに、あえて出会いにいく。そういう経験を積むことです。
インターネットは情報を得るために便利ですが、使い方によっては、どうしてもアルゴリズムによって自分の興味や価値観に合った世界だけが表示され、「ノイズ」が排除されてしまうこともあります。その結果、知らない社会にアクセスすることがどんどん難しくなることもあります。だからこそ、生身の身体で実際に歩いて知らない社会との出会いを経験することが重要です。
ヘテロトピアは、必ずしも遠くにあるわけではありません。普段入らないような路地裏の飲食店や屋台であったり、あるいは墓地であったり、お祭りの場所、乗り物のなかであったり、工場であったり…。そうした日常の裂け目のような場所に立ち現れます。足を使ってそういった場所に迷い込んでみるのはいかがでしょうか。
確かに…。今香港に留学していますが、街を歩くだけで自分が知らない世界にどんどん出会える実感があります。別の世界への入口って、意外とすぐ足元に転がっているんですね。もっと意識して、そういう場所に自分を連れていこうと思いました。
小泉
その姿勢はとても大切だと思います。
私たち大学教員の役割も、研究を教えるだけでなく、学生がもともと持っていた期待をあえて「良い意味で裏切って」、こうした「予想外の世界」に案内することだと思っています。『ちょっと面白そう』という小さなきっかけから、気づけば未知の領域へ導かれているような仕掛けをつくること。 知らない場所へ行くのは不安を伴いますが、そこにこそ世界が大きく開ける瞬間がありますから。


オーストラリアやインドネシアなど各地と学生をつなぐ海外プログラムも担当

裏切る、ですか?(笑)
小泉
悪い意味ではありませんよ。学生にとって、予想外の世界を見に行くのは不安です。でもそこにこそ、別の「社会」が一気に開く瞬間がある。だから「ちょっと面白そう」「行ってみようかな」と思わせて、気づいたら未知の領域へ案内されている——それが教員の腕の見せ所だと思っています。
じゃあ私は、先生と出会ってからずっと裏切られ続けているのですね(笑)。
小泉
そうであったなら、嬉しいです(笑)。
齋藤
では 最後にICUの在校生にメッセージをいただけますか。
小泉
私自身の経験からお話しすると、大阪や鳥取の大学にいた頃、東京のような縦割り構造と比べ、より「横につながる文化」が強く残っていることを感じました。この“横のつながり”は、コミュニティづくりや知の共創にとって、とても重要な要素です。
20年以上、学生に近い立場と教員としての立場の両方からICUに関わってきましたが、今心配しているのは、この「横のつながりの場」が急速に失われつつあるのではないか、ということです。以前はD館に、さまざまなサークルの人たちが集まり、議論や口論を重ね、新しい価値観が生まれる場でした。これは平田オリザさんも指摘していた、ICUの文化の一部だったと思います。
ところが、2013年からICUで教鞭を執らせていただいて以来、十数年が経つ中で、ここ数年は大きな変化があったように感じます。たとえば、授業後にD館や図書館、T館に行っても、利用者が少ない場面をよく目にします。もちろんコロナ禍の影響や、ライフスタイルの変化もあるでしょうが、他大学と比較しても、キャンパスに以前のような活気がないと感じざるを得ないときもあります。


シンガポール国立大学との合同プロジェクト(RE/MAP2.0)での発表風景

齋藤
そんなに変わってしまっているんですね…。
小泉
運営や制度上の事情もあるとは思います。ですが、「偶然、人に出会える場所」や「議論が自然発生する場所」が消えてしまうことは、対話を通じて知を形成するという、大学本来の存在意義にかかわる深刻な問題です。
ですから在校生のみなさんには、ぜひお伝えしたいと思います。意識的に、繋がりたい時につながることができる、“横のつながりの場”を自分たちでもう一度つくり直してほしいんです。図書館でも、D館でも、寮でもいい。「たまたま誰かに会って、話し込んでしまった」——そんなことができる空間や時間を、自分たちの手で取り戻してほしい。ICUのように地理的にも独立したキャンパスだからこそ、そこで横につながる場を持てるかどうかは、卒業後の人生にも関わる重要な違いを生む課題だと思います。
幸い、私の授業でのグループプレゼンテーションを見ていると、同じような問題意識を持ってテーマに取り組む学生が増えはじめていると感じます。今の学生のみなさんなら、以前とはまた違う新しい形で、そのような場を作れるはずだと信じています。
齋藤
本当にその通りですね。聞きながら、私も危機感を覚えました。
小泉
キャンパスの中で、偶然の出会いが生まれる仕組みをどのように引き継いでいけるか。それを学生・教職員・同窓生みんなで考え、少しずつ実践していければ良いなと思っています。
齋藤さん、渡辺さん、そして湊さん。本日は、誠にありがとうございました。この企画自体も、同窓生や学生をつなぐ重要なコンテンツだと思いますので、そこに参加できたことを嬉しく思っています。

近年の著書・学術誌より



プロフィール

小泉 元宏(こいずみ もとひろ)
長野県出身。2002年国際基督教大学教養学部に入学。2006年に卒業後、東京藝術大学大学院音楽研究科に進学し、2008年に修士(音楽)、2011年に博士(学術)を取得。日本学術振興会特別研究員(東京藝術大学DC1)、ロンドン芸術大学(UAL)トランスナショナルアート研究所(TrAIN)研究員、大阪大学産学連携推進本部特任研究員、ロンドン大学バークベック校研究員、鳥取大学地域学部講師、同准教授を経て、2016年より立教大学社会学部准教授、2023年より教授(大学院社会学研究科教授兼務)、現在に至る。国際基督教大学(ICU)教養学部、東京大学文学部、日本大学芸術学部、早稲田大学大学院文学研究科などでも講師として教育に携わってきた。
研究分野は、芸術社会学、音楽社会学、文化研究、文化政策研究。音楽祭や芸術祭、アートプロジェクトといった芸術・文化活動を媒介とした都市・地域社会の変容やガバナンスのあり方、ならびに市民の主体性や多文化共生に芸術が果たす役割など、「公共性の再構築」を中心テーマに、国内外で領域横断的な研究を行っている。また、文化庁や自治体の委員を多数歴任。文化行政の調査研究、文化資源の活用、芸術文化拠点の形成、AIR(アーティスト・イン・レジデンス)の評価など、多岐にわたる分野で政策提言や実務に携わっている。近年の主な著作に、"Creativity in a Shrinking Society"(『Cities』56, 2016年)、"Connecting with Society and People through ‘Art Projects’ in an Era of Personalization"(『Cities in Asia by and for the People』Amsterdam University Press, 2018年)、"Governance with a Creative Citizenry"(『The Rise of Progressive Cities East and West』Springer, 2019年)、共編著『アートがひらく地域のこれから:クリエイティビティを生かす社会へ』(ミネルヴァ書房, 2020年)、"Listening to Urban Spaces: Artistic Explorations of Heterotopia"(『Journal of Arts and Cultural Management』17(1), 2024年)、"The Liberation of Individual Cultural Vernacularity"(『Resilience as Heritage in Asia』Amsterdam University Press, 2025年)など。
芸術実践分野では、管楽器や合唱のコンクールにて審査員・講評を務めてきたほか、国内外で音楽・芸術と社会の関係に焦点を当てた教育・研究・実践に携わってきた。音楽を通じた社会的実践の実績により、「高橋四郎・桐朋学園芸術短期大学元学長記念賞」や、「ユー国際文化交流支援基金(東京藝術大学・音楽部門)」などを受賞。近年のアートプロジェクトに、「RE/MAP2.0」プロジェクト(シンガポール国立大学デザイン環境学部建築学科シモーン・シュ=イェン・チャン・スタジオと共催)、東京芸術祭「ガチャガチャガチャ」(ディレクション:遠山昇司)における共同リサーチおよび制作参加、「クリエイティブ・ウェルビーイング・トーキョー」(アーツカウンシル東京)における制作協力など。