INTERVIEWS

第72回 堺 夏七子

JCCP M株式会社代表取締役

プロフィール

堺 夏七子(さかい かなこ)
JCCP M株式会社代表取締役。1997年ICU卒業。1998年アンダーセン・コンサルティング(現アクセンチュア)に入社。以降15年間にわたり、新規事業立ち上げ・業務改革・ITコンサルティングを担当。2013年に特定非営利活動法人 日本紛争予防センター(現・Reach Alternatives)の関係会社として、日本企業の開発途上国進出を支援するコンサルティング会社、JCCP M株式会社を設立。 アフリカ進出に関するコンサルティング、セミナー活動等を行う。
ちょっと迷いがあって1年くらい就職しませんでした。迷いの多い人生で、高校時代は美術系の専修学校に通って油絵を専門に描いていたんです。だから高卒資格はなく、大学入学資格を得た形になります。
渡辺
堺さんは、2013年にアフリカを中心とした開発途上国進出に関するコンサルティングサービスを提供するJCCP M株式会社を設立されて、現地でのビジネス展開について、事前調査から進出後の事業オペレーションに至るまで日本企業をサポートなさっています。そこに至るまでの経緯をまず聞かせていただけますか?
はい。もともと私はアクセンチュアというITコンサルティング企業に15年ほど勤めていました。
渡辺
となると、マッキンゼー・アンド・カンパニーご出身の齋藤さんはコンサルティング業界の大先輩になりますね。
齋藤
アクセンチュアはね、私がいたマッキンゼーとはジャンルが違うんですよ。基本的にITが中心。マッキンゼーは売り上げを上げるための戦略を作るのがメインの仕事でした。
そうですね。私は戦略ではなく、製造業の新規事業立ち上げやICT導入にずっと携わっていました。
渡辺
ICU卒業後、すぐにアクセンチュアに?
いえ、ちょっと迷いがあって1年くらい就職しませんでした。迷いの多い人生で、高校時代は美術系の専修学校の高等部に通って油絵を専門に描いていたんです。だから「高校」卒業の資格はないのですが、大学入学資格は得られる仕組みでした。
渡辺
子どものころから夢は絵に関わるお仕事だったのですね?
はい。父親が東映動画に勤めたあと、TBSでアニメーションを作る仕事をしていて、その後、独立してフリーランスとして自宅でCMなどのアニメーションを作っていました。だから常にセル画があって絵の具の匂いがずっとしているような家で育ったんです。母も東映動画に勤めていました。
渡辺
私も1990〜1998年までTBSに在籍していましたので、大先輩でいらっしゃるのですね!お父様はどんなアニメーションを作ってらっしゃったのでしょう?
父が在籍していたのはもっと昔です。父はCM用のアニメーション中心に制作していたようです。母は東映動画で長編アニメーション『西遊記』に携わっていたと聞きました。仕上げ課でセル画を塗っていたようです。
渡辺
となると、宮崎駿さんよりも上の世代にあたられるのかな?お父様もお母様も日本アニメーション界のフロンティアですね。
年齢的には上になります。そんな父だったので、うちに来る父親の友人の方も絵を描いている人が多くて「おもしろそう」と思って美術系の学校に入ったんですが、絵だけで食べていくのはたいへん。これだけでがんばっていこうというふんぎりがつかなかったんです。それで「ふつうの大学に行ってみようかな」と思って行ったのがICUです。
就職課の会社案内を「あ」行から見てみたら、「アンダーセン・コンサルティング」(2001年に「アクセンチュア」に改称)があった。親友から「向いているんじゃない?」と言われて受けてみたという感じです。
渡辺
もともと美術を志していらっしゃって、どうしてICUだったのでしょう?
広々とした雰囲気に惹かれたのと、専門を決めかねていたので教養学部ならいろんなことを学べるということがその時の私に合っていたからです。それと、高等部時代は週6コマくらい絵の授業があって、それ以外の学科も美術史や英詩といった普通高校の履修科目からかけ離れていた授業でしたので、すぐに受験できる大学が限られていました。ICUの試験問題なら英語だけがんばればいけるかもしれないと思って受けてみたら、なんとか受かった形です。 入学後は人文科学科で美術史を専攻し、卒業後はお金を貯めて留学をしてもいいかなと思っていて、就職活動はできない気分だったんです。それで1年ほど経って、大学まで出してもらったのにこのまま働かないのも⋯⋯と思っていたときに、浪人して1年遅れで就職活動していた親友の大学に付いて行って就職課の会社案内を「あ」行から見てみたら、「アンダーセン・コンサルティング」(2001年に「アクセンチュア」に改称)があった。親友から「向いているんじゃない?」と言われて受けてみたという感じです。
渡辺
お友だちは、堺さんのどういうところが向いていると思われたのでしょうね?
よくわからないけれど、小学校時代からの友人なので、私よりも私のことをよくわかってたのかもしれないですね。
齋藤
大学での成績はどうだったんですか。
割とよかったですね。まじめに勉強していたので。
齋藤
そうだと思うわ。そんな雰囲気やもん(笑)。
(笑) 
齋藤
お友達が「コンサルが向いてる」言ったのはね、きっとまじめな人だったということですね。
渡辺
コンサルティングは、まずまじめさが求められるんですね?
齋藤
まじめなんですよ。成績がいいのは当たり前だったんです。ぼくは両方とも違ったのですけどね。普通は、秀才組しか採用しないんですよ。
渡辺
1998年にアクセンチュアに入社というと就職氷河期に当たる時期ですよね。卒業後、1年経ってからの就職はかなり厳しかったのではないかと……。
もちろん書類で落とされることもいっぱいありました。入社後、面接してくださったマネージャーにたまたま会ったら、「お前、覚えてるよ。キャラ採用だから」と言われました(笑)。
齋藤
それはあるね(笑)。

出産するまでは部下から「鬼軍曹」と呼ばれていたんですよ。ジャッジは容赦ないし、タスクの振り方も厳しかったんじゃないかな。最近はだいぶ丸くなったと言われるんですが。
齋藤
それにしてもアクセンチュアに15年もおられたわけですよね。コンサルティング会社にそんな長いこといるっていうのはあまり知らないんですよ。僕はリサーチャーから始まってコンサルタントになり、パートナーになったので、20年もいたんやけど、普通は3年ぐらいじゃないですかね。今はどうなっているかはしりませんけどね。
渡辺
えっ、そんなに短いんですか。
齋藤
そう。マッキンゼーの場合は、より大きな役割を、かなり短い期間で達成することを求められているので、長くいることが難しいのです。堺さんも、アクセンチュアという会社で15年も勤めたのは、やっぱり向いていたということなんでしょうね?
確かに、私が入社した当時も離職率は高い印象でした。でも、私は仕事が「思ったよりもおもしろい」と感じたので、やはり、そこそこ向いていたのでしょうか。しんどいことたくさんありましたけど、ひとつの目標に向かってみんなで作っていくことは楽しかったです。
渡辺
「しんどいこと」というのは、差支えなければ具体的にはどんなことですか?
とにかく仕事量が多いんです。自分の裁量で動けるのでおもしろいんですけど、その分、責任もすごく大きくて仕事量が半端じゃない。はじめは中野区の実家から通勤していたんですが、そのうち辛くなって会社の近くに部屋を借りました。
渡辺
通勤もつらくなるほどだと、ご両親は心配していらしたでしょう?
心配していました。「そんなに働いて大丈夫か」って。そうやっていろいろ親が言ってくるのが煩わしくて、自分で借りたというのもあるんですが。 でも、仕事はおもしろかったですし、主人と社内で出会って結婚し子どもを3人産んだので、会社にはずいぶんお世話になったし、その分恩返しをしないといけないし、かつ保育園に入れるために働き続けなきゃいけない⋯⋯といったことが重なってなんとなく15年経ったという感覚です。主人はまだアクセンチュアで働いています。
渡辺
なるほど。お子さんは男の子ですか?女の子ですか?
女の子3人です。一番上が今17歳で4歳差で3人。
齋藤
それはすごいですね。コンサルティングの世界って考えることが仕事なのでね、産休や育休で数カ月でも仕事から離れると、どうしても考え方が鈍りがちになるんですよ。分析する力や読み取る力っていうのかな。そういうなかで、15年間、子どもを産みながら成果をあげるのはすごいね。会社から何が評価されたと思う?
なんだったんでしょうね⋯⋯。
渡辺
わたしも齋藤さんと同じことをうかがいたいと思いつつ、堺さんとお話してると、評価されたことをご自分から喧伝なさるタイプではないから、答えていただきにくいかな?(笑)。
こっ恥ずかしくてね(笑)。まあ、そうですね、何を評価されたのかな…?私が携わっていたコンサルティング業務はICTなので、割と経験が生きやすい分野ではあったというのはあります。それに自分ひとりでプレイングマネージャーになるよりも、下の子たちとチームを組んでアウトプットを出す方が価値が高いんです。私はちょうどマネージャーになったあたりで出産したので、出産によってかせを嵌められた分、自分がプレイングマネージャーになれなかった。だからこそ早めにそのことに気づけたのだと思います。
齋藤
ということは、マネージメントがうまかったということで、それは才能ですね。
ずいぶん下の子たちに助けてもらいました。中途で入ってきた人もいるので、年下ばかりではないですけど。
齋藤
女性で若くしてマネージャークラスになってる人は、年上の部下とものすごくぶつかり合うんですよ。だから女性としてやりにくいところあるねんけど、それがちゃんとやれてる。これは素晴らしいことですね。
出産するまでは部下から「鬼軍曹」と呼ばれていたんですよ。ジャッジは容赦ないし、タスクの振り方も厳しかったんじゃないかな。最近はだいぶ丸くなったと言われるんですが。
齋藤
確かに冷たそうな顔するときあるな~。
やだなあ。バレてました?(笑)
齋藤
でも持ってる雰囲気や笑顔はいいですね。
ありがとうございます。
「ワークライフバランス」とよく言うけど、自分の状況によって最適なバランスは変わると思うので、若いころは目の前の仕事に一生懸命取り組んで、出産後も残っていけるだけのスキルを若いうちに貯めておくことでしょうか。
渡辺
今でこそだんだん制度が整いつつあるけれども、女性が出産して子育てしながら働くには十数年前はまだまだ大変でしたよね。お父様は日本のアニメーションのフロンティア。堺さんもワーキングマザーの先駆けとして、手探りだったのではないでしょうか。
はい、当時は大変でした。ただ幸い私の上に2人だけ産んでた女性社員がいたんです。だから本当のフロンティアではないです。
齋藤
コンサルティング会社で、女性が長いこと生き残っていくための秘訣はなんでしょう。
うーん、そうですね。「ワークライフバランス」とよく言うけど、自分の状況によって最適なバランスは変わると思うので、若いころは目の前の仕事に一生懸命取り組んで、出産後も残っていけるだけのスキルを若いうちに貯めておくことでしょうか。
齋藤
それは非常にいいことやね。このごろは、ともすれば入社したばかりのような若い子たちが「ワークライフバランス」と言うけど、それなりの実力をちゃんとつけていかなきゃならないというのはいいメッセージだと思うな。
渡辺
確かに、バランスは最初からは取りにくいものかもしれませんよね。大前提として、バランスも考えずに一生懸命取り組んだ結果、やっと自分なりのバランスが見えてくるものかも。堺さんご夫婦はお二人とも働いていらして、堺さんはさらに起業してらっしゃる。お互い忙しいと思いますが、夫婦間で仕事や生活に対する価値観は合っている感覚ですか?
主人の年齢は1歳下ですが同期入社で、ともに就職氷河期世代。最初から右肩上がりは期待していないせいか、二人とも働いていくことは当たり前として考えていました。出産についてはサポートの得られやすさなど世帯としての効率を考えた上で私が育休を取る選択をしましたが、彼自身「僕が専業主夫になってもいいよ」「一緒にずっとアクセンチュアで働いて、一緒にアーリーリタイアしたいね」と言うくらい、オフを大事にするタイプ。3人目を産んだ後から、やっと「この会社にこだわらなくてもいいよ」「やりたい仕事をやればいいよ」と言ってくれるようになりました(笑)。彼のなかでは、私が出産のためにアクセンチュアでのキャリアを狭めることになったという罪悪感が少しあるのかもしれません。
渡辺
ご夫婦の目線が同じで、仕事のことも含めてなんでもよく話し合えるご関係が垣間見える気がします。
紛争予防と平和構築に目的とするNPO日本紛争予防センター(現Reach Alternatives、略称REALs)の理事長・瀬谷ルミ子と出会ったんです。彼女との出会いがきっかけで、2013年にJCCP Mを一緒に立ち上げました。

齋藤
でも、なんでアフリカに関するコンサルティング会社なんやろね。
3人目の育休から戻ったときに、会社から求められる期待に応えていくことが辛いと感じるようになりました。シニアマネージャーになって、次にマネージングディレクターになることを求められる立場になり、その役職に付きたいという男性もいっぱいいるなかで上がっていくには、それ相応の時間を使って仕事に注力して、大きい仕事を回していかなければならない。子どもが3人いてそれは難しい。仕事の内容としても、海外工場を作ってそこにシステムを導入して日本の工場を減らしていくということをしていたのですが、それが間接的に子どもたちの将来の働き先を減らし、日本の未来を狭めていくような感覚に陥ってしまいました。そんな時、ずっとサポートしてくれていたマネージングディレクターが退社していろいろなNPOの理事を務めていたことが縁となり、紛争予防と平和構築に目的とするNPO日本紛争予防センター(現Reach Alternatives、略称REALs)の理事長・瀬谷ルミ子と出会ったんです。彼女との出会いがきっかけで、2013年にJCCP Mを一緒に立ち上げました。
渡辺
彼女との出会いが大きかったのですね。
大きかったですね。彼女は、紛争の根本の原因は「貧困である」と言う。イデオロギーを持ち出してくるけれども、結局は貧困ゆえに足りないリソースを取り合って紛争が起きている。経済が発展して安定すれば、殺し合わない程度の平和は分かち合えるとし、それは国連などによる一時的な援助ではなく、民間企業が持続的に進めていくことが望ましいと考えています。Reach Alternativesがアフリカで事業を行っていることから、いくつかの日本企業から「うちの製品をアフリカで売ってみたい」といった相談を受けるようになり、彼女のアフリカでの経験と私のコンサルティングの経験をうまく融合していければと考え、JCCP Mの立ち上げに至りました。私たちはアフリカに進出したい日本企業のコンサルティングをしながら、その売り上げの一部をReach Alternativesに寄付して紛争予防に役立てています。また、アフリカのケニアとルワンダでプロジェクトを立ち上げており、お客様のためのマーケティングの調査や戦略づくり、代理店の開拓などを行っています。
齋藤
瀬谷さんは堺さんと同世代の人? アフリカではなく日本に住んでおられるの?
私よりも2歳年下で、日本に住んでいます。彼女はすごいんですよ。24歳で国連ボランティアに参加し、アフガニスタン、シエラレオネなど内戦が終わった地域で兵士から武器を回収して職業訓練を提供する「武装解除」の活動に携わっていました。
渡辺
瀬谷さんと会ったとき、最も共感したこと、惹かれたところは何ですか?
彼女はNPOとして活動しているけれどもビジネスマインドもあり、理想論を振りかざしていないところです。現状をよく把握し「殺し合わない程度に平和な状態を作ることが望ましい」と現実的に考えている。また、自分たちだけですべて解決しようとせず、民間が得意なところは民間に任せ、たとえば現状の分析や関わっている人たちとのコラボレーションといった自分たちの強みを生かすところに戦略性を感じて、「一緒に働いてみたい」と思いました。
アフリカ出張が入るとまったく別の時間の使い方が必要になるのでその点は難しい。でも、ストレスはほとんど感じません。
渡辺
起業は日本では難しいと言われていますけれど、現実としてはいかがですか?
齋藤
起業は難しいですよ。会社は誰でも作れるけども続けるのは難しい。
おっしゃる通り、作るのは簡単なんですけど続けるのが大変。いかにアクセンチュアという看板が大きかったか、営業しててつくづく思います。
渡辺
営業はお一人で担われているんですか?
はい。瀬谷はNPOの運営があるので、コンサルティングに関わる営業は私が担当しています。ようやく最近軌道に乗るようになりましたが、はじめはアクセンチュア時代の知り合いから仕事をいただくなどして苦労しました。どの企業もアジアで手いっぱいといったところがあるんです。アジアもだいぶ飽和状態になってきているので、いずれはアフリカに出なければならないと考えているけれども「まだ情報収集段階」ということが多い。そこを説得していかなければなりません。
渡辺
アクセンチュア時代は「子育てしながら上司の期待に応える仕事をすることが辛かった」とおっしゃっていましたが、ご自身で会社を立ち上げられてからは、きっと大変さの内容が変わりましたよね?
大変ではあります。起業した当時、まだ3人目が1歳ほどで、ケニア出張を機に授乳を止めようと思っていたのに、やはり出張でしばらく離れてお互い寂しかったのか、帰ってきてその子の目を見たら授乳を止めたくないという思いが強くなり、それから2年くらい続けてしまいました。アフリカ出張が入るとまったく別の時間の使い方が必要になるのでその点は難しい。でも、ストレスはほとんど感じません。
齋藤
そりゃそうやと思うよ。自分の会社は自分でマネージできる部分があるからね。雇われているのと違うよね。
近くに住んでいる私の両親にも助けてもらっています。主人は4人きょうだいの末っ子で大家族で育ったので、私が出張の際、うちの親が泊まり込んでも違和感がなく暮らせる。むしろ「『愛妻母』弁当を作ってもらってうれしい」と言う人なので、いろんなラッキーな面はあると思います。
齋藤
ケニアに出張するって具体的にどんなことをやるんですか。
そのときはマーケティング調査でした。現地での調査は割と泥臭い感じです。たとえばバイクの調査ならバイクのドライバー100人にインタビューしていく、というようなことです。現地のパートナーと一緒に行っています。

娘がアフリカの国を覚えようとしている姿を見ると、起業という選択は間違っていなかったと感じます。
渡辺
2013年に起業なさって現在2020年まで7年、手応えはいかがでしょう?事業としてだけでなく、かつての「未来を狭めていくような感覚」に対して、今は社会に貢献しているという感覚を得られたのでは?
気持ちはいいですね、やっぱり。娘がアフリカの国を覚えようとしている姿を見ると、起業という選択は間違っていなかったと感じます。
齋藤
僕も36歳でパートナーになったとき、仕事ばかりしていて「俺の人生なんなの、こんなんでいいのかな」と思うようなときもあったわけやねんけど、37歳のときに馬術を始めることで仕事のプレッシャーを忘れられるようになった。堺さんの場合はどうですか。
「6時になったら一回帰ってごはんをつくらなきゃ」と、日々の生活の中でオンとオフを切り替えざるを得ないとことは大きいですね。また、子どもを保育園や学校に通わせることで、仕事では会ったことがない方々と会えることも楽しい。
齋藤
ママ友ということ?
ええ。学童の役員を一緒にやったママ友と、今でも1年に1回くらい飲んでいます。
齋藤
それはええことやね。
渡辺
今後はどのような活動をしていきたいと考えていらっしゃいますか?
お客様の途上国進出にあたっては、ファイナンスリスクを軽減するためJICAの民間連携事業などの補助金を獲得して、一緒に組んでプロジェクトを進めていくことが多いのですが、次のステップではそうした補助金がなくてもビジネスとして成り立っていくように支援を行っていくことがひとつ。もうひとつは、自社でもケニアで事業を展開したいと考えています。ただ、アフリカでは国によっては自国の雇用を促進するため、日本人には労働許可証がなかなか下りないこともあり、どういう形が最適か、まだ検討中です。
渡辺
以前はご夫婦でアーリーリタイアの話をなさっていたけれど、独立なさった堺さんは60代でも70代でも仕事を続けることができるようになったわけですよね?もちろん、その時にならないとわからないかもしれませんが、この先、仕事を長く続けていきたいと思っていらっしゃいますか?
「絶対続けていきたいです」と即答できるほどではありませんが、たぶん続けていたほうが人生楽しいかなと思っています。
渡辺
ICUは堺さんにとってどんな場所でしたか?
いろんな縁と自信を与えてくれた場所です。「私は社会に適合できるのかしら」という不安を抱えながら入学したのですが、ICUは個性的な人が多く、「私にもちゃんと社会の居場所があるんだ」と思わせてくれました。ICUに入ったがゆえにアクセンチュアと、そしてもっと先の社会につないでもらえた。そういう意味では足場になった場所です。
渡辺
では最後に、在学生やこれからICUをめざそうと思ってくださってる若い人たちにメッセージをお願いできますか?
人生には絶対的な正解はありません。目の前にあることを一生懸命やりながら最適解を選択していくという、努力の積み重ねでできあがっているような気がします。なので、困難があってもその時その時で一番いいと思う選択をしていくといいと思います。


プロフィール

堺 夏七子(さかい かなこ)
JCCP M株式会社代表取締役。1997年ICU卒業。1998年アンダーセン・コンサルティング(現アクセンチュア)に入社。以降15年間にわたり、新規事業立ち上げ・業務改革・ITコンサルティングを担当。2013年に特定非営利活動法人 日本紛争予防センター(現・Reach Alternatives)の関係会社として、日本企業の開発途上国進出を支援するコンサルティング会社、JCCP M株式会社を設立。 アフリカ進出に関するコンサルティング、セミナー活動等を行う。