プロフィール

- 齋藤
渡辺 - 本日はよろしくお願いいたします。
- 小檜山
- よろしくお願いいたします。
- 齋藤
- 先生はずっと学者の道を歩んでこられましたが、ご両親も、教育の世界におられたのですか?
- 小檜山
- 違います。両親とも学者ではなく、父は、若い頃は勤め人をしていましたが、最終的に横浜で貿易会社をやっていました。今は、弟がそれをついでいます。私も、学者になろうなんて思っていなかったです。
- 齋藤
- 小学校は横浜ですか?
- 小檜山
- 小学校は、横浜にある美しが丘小学校に通っていました。ごく普通の公立の小学校です。当時は、いわゆる「中学受験の走り」みたいな時代でしたよね。私は、そんなに早い段階から受験勉強をしていたわけじゃなくて。その頃、山手英学院が横浜で模試をやっていたんですけど、私は6年生になってから、毎月その模試だけ受けに行っていました。でも、受験勉強は全くしてなかったので、模試の点数も8点とかで(笑)。模試をサボって水泳に行ったりして、母に叱られてました(笑)。そんな感じだったので、正直、最初はあんまり本気で受験するつもりもなかったんです。でも、秋ごろになって、やっぱり受験してみようということになり、そこから塾に通い始めました。通ったのは11月、12月、1月の3ヶ月。それで、1月になって、塾の模試で初めて100番以内に入ったんですよ。
- 渡辺
- すごい。。。短期間で集中的に。
- 小檜山
- それで、2月はじめにフェリスの試験があって。もしフェリスに落ちたら、公立に行こうと思っていて、フェリスしか受けなかったんですね。そしたら、受かったんですよ。
- 齋藤
- どうして、フェリスだったんですか?
- 小檜山
- 母が横浜出身で、フェリスのことはよく知っていたんです。母は「フエリス」と発音していました。母の姉が教育ママで、「受けてみたらいいんじゃない?」って母に勧めたんです。そしたら、母が受けさせてみようと思いだして。母は大した教育ママではなかったので、なんとなく受けたって感じですね。
- 齋藤
- その当時のお母様にとってフェリスはどのようなイメージの学校だったんでしょうか?
- 小檜山
- 「フエリス」は「いい学校」というイメージですね。母は戦前に、高等女学校に通った最後の世代ですけれども、一番手は平沼(第一高女)で、二番手はフェリスに行くみたいな、そういうイメージがあったようです。
受験する年の1月始めに、初めて、フェリスを見に行きました。これが初めて山手の丘に登った経験で、下の方は日本人の町で、ゴチャゴチャしていて、階段を登っていくと、別世界。子供だったけれども素敵だなと思いまして、その時初めて、「フェリスに行けたらいいな」と思いました。
フェリスに入った時、エリート意識はありましたね。かなりコンペティティブな学校だってイメージはありました。それから、例えば、教室の中に靴を履いたまま入るような習慣の違いがありましたし、校舎自体も1930年代に建てられた、大変クラシックで、立派なものでした。丘の上のお城という雰囲気。フェリスでは賛美歌とか、音楽が溢れていて、私にとって全てが新しかったんです。なんだか、普通の日本の社会とは違うような感じでした。
- 齋藤
- 共学でないっていうことに、小さい頃に違和感って持たなかったんですか。僕は女子中、女子高、全然わかりませんのでね。
- 小檜山
- そんなことはなかったです。
- 齋藤
- ないんですか!
- 小檜山
- 自由、怖いもの知らず、気端のない批判。理由なく先生を尊敬することはありませんでした。先生の能力を批判的に見ていましたね。教育実習の大学生が教室へ来るとみんなでからかって喜んだり、そういう雰囲気ですよね。
- 渡辺
- 女子校の研究などにもありますけれど、男の子の目を気にしないで育つ分、理科は男子の方が得意だとか、女子はあまりそんなことはしないといった発想がない傾向はあるとか。だから、やりたいことをやることに脳が躊躇しないので、自由になっちゃってる面はあるそうですよ。
- 齋藤
- 自由になりすぎですけど!(笑)。そういう人たちにもっと活躍してもらいたいんですけどね。ビジネスの世界なんかで。
- 齋藤
- 先生はやっぱり、勉強好きなんですね。
- 小檜山
- すごい勉強好きだったかというと、そうでもないんですけども(笑)。でも、中高に入ってみると、成績はまあまあ良かったです。大抵10番以内に入っていました。ICUは何で選んだかというと、キャンパスが良かったからです。見に行って、即「ここにしよう!」みたいな。この単純な理由!(笑)。
- 渡辺
- 高校卒業なさるときに、大学の専攻も考えていらしたのですか?
- 小檜山
- そうでもないですね。だって、そんなに分かってなかったですから。中高のときは、日本文学が好きで、サークルに入っていました。尊敬する国語の先生のお家によく行ったりしていました。芥川龍之介研究をやっていたこともあり、国文には興味がありました。当時の国語の授業はかなり自由だったんです。例えば、生徒が半年かけて芥川龍之介を集中研究するんですよ。グループを作って、グループごとに小説を一つアサインされて、調べて、発表する、みたいなことをやってたんですよね。今の「探求」のような授業です。そうやっていたら、自分の得意分野が分かってきて。
- 渡辺
- 文学がお好きだったのですね。
- 齋藤
- スポーツ系のサークルは何もなさらなかったんですか?
- 小檜山
- 中高ではしませんでした。小学校の頃は、運動が結構好きだったんだけれども、家から学校が遠かったので。だから、時間がないから、母にやめた方がいいとか言われました。最初はバトミントン部とかちょっと覗いたりもしたんですけども、最後はオーケストラに入りましたね。
- 渡辺
- オーケストラでの楽器は?
- 小檜山
- バイオリン。小さい頃からやっていたので。音楽は聴くよりも弾いた方が楽しいですよね。だから、大学2年生までやっていましたね。
- 齋藤
- すごいですね!それはやっぱりご両親が音楽をやっておられたんですか?
- 小檜山
- 親が音楽をしていたというより、小さい頃、いろいろな習い事ってするじゃないですか。当時、習字だとか、いろいろ。ソロバンだとか水泳も習いました。どれも長続きしませんでした。その中の一つとして音楽があって、それをバイオリンにしたっていうだけの話。
- 渡辺
- バイオリンを選ばれたのは、小さい時の先生ご自身のご希望ですか?
- 小檜山
- 人があんまりやってないものをやりたくて。ピアノとかはみんな結構習っていますよね。だからバイオリンでも習おうかな、と思って習ったんです。
- 齋藤
- ICU時代はどういう風な過ごし方をされたんですか?自宅から通われていたんですか?
- 小檜山
- 途中から車で通っていました。 すごいボロボロの中古車だけど、20歳の時に免許を取ったんです。読売ランドの山を越えて、通っていました。
- 齋藤
- 先生の学科は何だったんですか?
- 小檜山
- 語学科です。その中で、インターカルチュラルコミュニケーションとか、コミュニケーションを勉強しました。卒論はラムジー先生です。
- 齋藤
- ラムジー先生!知ってますよ。ぼくも、専攻がインターカルチュラルコミュニケーションでコンドン先生にお世話になりました。まだまだ、お元気で、昨年は日本においでになりました。
- 小檜山
- 私は、語学科コミュニケーションにいたけれども、会話を録音して分析するといった研究のアプローチはあまり合わないなと思って、全然関係ない卒論で卒業しました。
- 渡辺
- 卒論のテーマには、どんなことを?
- 小檜山
- 新興宗教の研究です。その頃から宗教には関心がありました。霊友会っていうところに一人で行って、いろんなイベントに参加させてもらって、なぜ人がそこに人が集まるのかっていう話を書いたんですよ。
- 齋藤
- それはまた面白い。
- 小檜山
- 何か卒論を書かなきゃいけないので、「自分の関心がある分野って何だろう?」って考えた時に、宗教には関心があったんです。「なぜ、人は新興宗教に惹かれるんだろう?」っていうのが、自分の合理的な考え方と異なっているので、その部分に関心を持って、ケーススタディを行いました。直接電話をかけて、受け入れてくれたのが霊友会の広報課だったんです。
- 齋藤
- 新興宗教を調べるっていうことはすごいな。
- 渡辺
- その「どうして新興宗教に人が集まるのか」という問いは、どんな考察に至ったのですか?
- 小檜山
- イベントが楽しいものであること、人に居場所を与えるものであるということ、ですよね。イベントの内容を分析して、図をかいたり。ラムジー先生だから、英語で書かなきゃいけないので、かなり時間ギリギリに出しましたけどね。
その中で、4年生のときにロータリークラブ財団の奨学生の試験を受けて、それに合格して、ミネソタ大学大学院に進学することが決まり、ミネアポリスで1年半くらい過ごし、修士号を取得しました。一時は、コミュニケーションを専攻しようと思っていたのですが、どうもその方法論が自分には合わないと感じました。私は文学や歴史、ジェンダーに関心があったので、そういったことを学びたいと思って、アメリカ研究に専攻を変えたのです。全く専攻を変えました。アメリカ研究っていうのは学際的で、文学も歴史もジェンダーも研究対象になり得ます。
大学院に行ったのは、これまでICUでいろいろやってきたけど、やはり留学しないと英語が本物にならないと思ったからなんですよね。また、自分に合う方法論と分野を見つけに大学院に行ったわけです。ミネソタ大学のアメリカンスタディーズプログラムは、修士を取るときにPlan B Papersといって、3本論文を書くんです。私は異なる分野で、宗教、ジェンダー、文学で書きました。それで修士を取って、だんだん自分のやりたい方法論が見つかっていきました。学者に本当になろうと思ったのは、職を得てからです。
- 齋藤
- その職は、最初はどちらに?
- 小檜山
- 関東学院大学の経済学部の英語の教員のポストです。英語のポジションだけれども、安定した職としてそこで働きながら博士論文を書く過程で、「やっぱり自分は学問の道に行こう」っていうのがはっきりしてきました。
- 渡辺
- 「やりたいことは、これかな」と、だんだんご自分の中でわかっていらしたのですね。
- 小檜山
- それが仕事になる中で、プロとしてやっていかなきゃいけないという自覚もできてくるというか。
- 齋藤
- これって、すごく大事なところで、若い学生たちがうちでインターンするときに「将来、自分が何をしていいのかわからない」と言って悩むんです。今こんなことやってみようということを一生懸命やっていたら、そのうちいろんなチャンスが来るから、悩む必要はあれへんやん、と思うんですけどね。
- 渡辺
- ところで、研究なさりながらキャリアを積まれる中で、差し支えなければですが、ご家庭をもたれたのは、いつ頃ですか?
- 小檜山
- それは大学院の博士課程の2年生ぐらいの時に大学時代から知っていた人と結婚したんです。もう離婚しましたけど。結婚して、通訳なんかもやったりして。その後、関東学院大学に就職して1年経った頃に、子供を産みました。8ヶ月の早産で、大きな挫折感を味わいました。子供が7ヶ月になった時に、博士論文を出すまでにあと3年しかないっていうことに気がつきました。もう今からやらないと間に合わないというわけで、子供を母に預けてアメリカに2週間の調査旅行に行きました。もう、必死でした。その時持ち帰った資料を使って、博士論文を書いたんですよ。私にとってその経験っていうのは、本当のフェミニストになる経験でしたね。
若い女っていうのは大抵、優遇されていますから。それまで私も、女性として、別に大した不便も感じなかったんですけども、働きながら子供を育てるっていう段になると、途端にみんな私のことをお母さんだと思うわけですよね。「なんで子供が泣いているのに、働きに行くんだ」とか言われるんですよ。その時、なんで男はそう言われないのに、女はそう言われるんだって、「やっぱりこの世の中は男中心に回っているんだ」と、実に理不尽に思いましたね。働きながら子供を育てて博士論文を書くという状況に至った時、女性一般が蒙る不利益を本当に自分のものとして経験しました。自分の時間を確保するために、ベビ−シッターも雇ったし、母にも散々協力してもらいました。そういうのをアレンジするのも女ですよね。そして私がちょっとでも学内の懇親会などに出て、夜8時頃に帰ってくると、母はもう、孫の面倒でクタクタで、怒り狂っているわけですよ。男は子どもがいても、結構そういうことすましてやっているのに、何これと思いましたよね。
- 齋藤
- (大室に)君、頷きすぎ(笑)。
- 大室
- 自分も20代の女性として葛藤を感じることがあって。
- 小檜山
- 生きていく上で、これじゃなきゃやらないみたいな、あんまりこだわりすぎちゃうのは良くないなと思っています。私は、その都度その都度、できるものをやってきました。自分の人生はこうしなきゃいけない、みたいなのはなかったんです。
- 渡辺
- 最後に、ICUの在校生やICUに興味を持ってくださっている若い世代に向けて、メッセージをお願いできますか?
- 小檜山
- 当時、私は、大学生の間に、何か一つ技能を身につけた方がいいなと思っていて、英語だけは何とかしようと思っていました。
ICUは、自分の好きなものを幅広く学べるところです。大学生の間にどんな学問領域があるのかとか、どんな学びがあり得るのかっていうことを、経験した方がいいなと思っています。もう一つ、ICUの良さは、女性中心のカルチャーがあることです。共学だけれど、女性の方が多く、女子大にあるような自由があります。女性が肩で風切って歩いているのが、ICUですので。
- 齋藤
- 男の子の方が小さくなっていますから(笑)。
- 小檜山
- 優しい男の子もいますので、そういう意味ではいい学び屋だな、というふうに思っています。
- 齋藤
渡辺 - ありがとうございました。

プロフィール
フェリス女学院大学学長。東京女子大学名誉教授。ジェンダー史学会代表理事、日本アメリカ学会副会長、キリスト教史学会理事長等を歴任。専門はアメリカ女性史・ジェンダー史、アメリカ・キリスト教史、日米関係史。フェリス女学院中学・高等学校卒。国際基督教大学教養学部修了(教養学士)、ミネソタ大学大学院アメリカ研究プログラム修士課程修了(M.A.)、国際基督教大学大学院博士後期課程修了(学術博士)。単著に『アメリカ女性宣教師——来日の背景とその影響』(東京大学出版会、1992年。女性史青山なお賞、キリスト教史学会学術奨励賞受賞)、『帝国の福音——ルーシィ・ピーボディとアメリカの海外伝道』(東京大学出版会、2019年。日本アメリカ学会中原伸之賞受賞)、『明治の「新しい女」――佐々城豊寿と娘・信子』(勁草書房、2023年)、共編著書に『アメリカ・ジェンダー史研究入門』(青木書店、2010年)、共著に『歴史のなかの政教分離』(彩流社、2007年)、『モダンガールと植民地的近代』(岩波書店、2010年)、Competing Kingdoms: Women, Mission, Nation, and the American Protestant Empire, 1812-1960 (Duke University Press, 2010); Christianity and the Modern Woman in East Asia (Brill, 2018); Soft Power beyond the Nation (Georgetown University Press, 2024)など。